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現在 19:49

 福留雄基は、もう三日も部屋から出ていない。購入した包丁を肌身離さず持っている──
 そこまで書いた福留浩司は、ボールペンを置いた。一六時からずっと書き続けてきた。
 セミB5判の大学ノートを閉じる。学生時代や銀行に勤務していたころや、退職後から今に至るまでずっと使っている銘柄だ。度の強い老眼鏡を外し、目頭を揉む。小さな手書き文字で埋め尽くされたノートは、自身の日記ではない。息子の観察記録だった。最近は主語がすべて雄基となっているため、まるで息子の手記にも読める状態だろう。
 息子が引きこもり始めたのは三○歳のときだ。あれから一九年、雄基は四九歳となった。その間、浩司も手をこまねいていたわけではない。息子を外に連れ出そうと、考え得る限りの手を尽くしてきた。
 自身の手には負えないと気づいてからは、外部の協力も仰いだ。役所や医療機関にも相談し、当事者家族のミーティングにも参加した。自分の悩みや不安を語ることで、精神的な救いを得ることはできた。
「あなたは父親失格などではない」
 そうした生活の中で聴いた、もっとも心強い言葉だった。だが、息子の引きこもり状態を解消させるまでには至らなかった。
 浩司は諦めた。息子さえ良いのなら、今の状態を継続させてもいいのではないか。そう考え始めた。
 幸い、金はある。江戸銀行を退職する際、退職金は満額が支給されている。関係機関への再就職も、高級官僚の天下りに匹敵するほど好待遇だった。こちらの退職金も高額となった。
 加えて、常務からの謝礼もあった。指定暴力団武張組への融資に関する責任を、一人で被った報酬だ。銀行の裏金から捻出されたらしい。口止め料の意味もあったのだろう。法外な額だった。
 これらの金も、大半はキープしてある。日々の生活費は年金で賄っている。自分も老い先短い。息子には、かなりの額を遺してやれるはずだ。雄基が贅沢さえしなければ、生きてはいけるだろう。
 そうした生活の中、看過できない事態が勃発した。
 福留家の自宅がある江東区内で、通り魔事件が発生した。犯人は雄基と同い年、やはり引きこもり当事者だという。父親は元証券マンらしい。同じ金融関係に勤務していたことからも、他人事とは思えなかった。
「死刑になりたかった」犯人の動機は、浩司には理解不能だった。身勝手に感じただけだ。ましてや引きこもりと関係ない生活をしている、一般世論の反発は激しかった。
“一人で死ね”“親や家族が責任を取れ”
 息子との話題にできないかと、何とか操作を覚えたスマートフォン。インターネットから流れてくるのは、そんな心ない声ばかりだった。見ないようにしようとしても、目が離せなかった。浩司の精神は、次第に蝕まれていった。
 ノートを引き出しにしまった。台所へ向かう。収納を開け、亡き妻が遺した中でもっとも大ぶりな包丁を手にした。そして、ゆっくりと息子──雄基の部屋へ向かっていった。
 雄基が先日、包丁を購入したのは知っていた。息子が久々に外出したことを喜び、声をかけようとして偶然に見かけた。幸せな気持ちは、一瞬のうちに暗転してしまった。
 息子も犯罪を犯すのではないか。先日の犯人と同じように。凶行を止められる、いや止めなければならないのは唯一の家族──父親である自分ではないのか。浩司は追いつめられていった。
 何度も考えた。本当に事件を防ぎたいのか。長きに亘って引きこもり続ける息子が、邪魔になっただけではないのか。今の生活に耐えられなくなった。それだけではないかと。
 それでもいい。もう疲れた。正常な思考ができなくなっているのかも知れないが、ほかの道は考えられなかった。
 廊下を進む。妻亡き今、掃除が行き届かず老朽化も進んだように思える。この家を建てたのはいつだったろう。確か、雄基が小学校に上がる直前だった。途中で転校せずに済むよう、妻や工務店と相談のうえ竣工時期を調整した。
「このおうち、かっこいい!」
 幼かった雄基は、完成した家を見て満面の笑みを浮かべていた。あのころは幸せだった。息子は利発ではなかったが、愛嬌があった。少なくとも、父親の目にはそう映っていた。どうしてこんなことになってしまったのか。これまで幾万回と考えては結論の出なかったことが、また頭に浮かぶ。
 就職氷河期を放置した政治家のせいか。なら、当時都市銀行に勤めていた自分も同罪ではないのか。我が仕事と立場を守ることのみに汲々として、後進のことなど考える余裕はなかった。将来この国がどうなろうと知ったことではない。知らずらず、そう振る舞っていたのではなかったか。
 息子を、ここまで追いこんだのは自分自身だ。誰のせいでもない。浩司は思った。世論は正しい。親の責任として、息子が他人ひとさまに迷惑をかけないようにだけはしないと。たとえ刺し違えてでも。 
 浩司は、雄基の部屋へ着いた。ドアの前に立ち、包丁を握りしめる。
 次の瞬間、廊下の窓ガラスが一斉に割れた。


   *

 警視庁捜査第一課SITのメンバーが、福留宅へと飛びこんでいった。
 驚いたのだろう。福留浩司は目を見開き、へたり込んでいた。大ぶりな包丁が廊下に転がっている。SITメンバーが周囲を固める。
「気をつけてくださいよ。キャリア官僚様が窓ガラスで手でも切ったら、我々下々が詰め腹を切らされるんですから」
 窓を乗りこえようとした天童は、背後から池田に声をかけられた。今回は狙撃手の出番がないため、後方支援に徹している。班長の中西は、すでに家の中だ。
 突然の騒ぎに、息子の雄基も驚いたようだ。固く閉ざされてきたと思われるドアから顔を出している。父親とよく似た顔立ちだった。手には、包丁で皮を剥きかけた林檎があった。
「美味しそうですね」天童は微笑んでみせた。「お父さんと召し上がるんですか」
 そうは言ったものの、父子ともに反応はなかった。自宅の窓ガラスを、ほぼすべて叩き割られた。あまりのことに驚いて、声も出せないというのが正直なところだろう。
 生き残った引きこもり当事者父子を、SITメンバーが立たせていった。


現在 22:01

「内閣府によるとね」葛城が言う。「日本の引きこもり人数は、推計で一四六万人なんだって」
 福留父子を警視庁深川警察署へ引き継ぎ、天童は神奈川県相模原市南区のLO室へ戻った。
 遊軍の金村はもちろん、石塚や筒井も帰宅したあとだった。暗い部屋に荷物だけ置き、東京拘置所相模原女性支所へ向かった。
 LO室が入っている相模原特別合同庁舎は、ほとんどの部屋にまだ灯りが点っていた。激務等を理由に国家公務員志望者数が減少傾向というが、この建物も足を引っ張っているようだ。
「二〇二四年に総務省統計局が発表した、日本の総人口は一億二三八五万人だから。人口の一%以上が引きこもっている計算になるわね」
 アクリル板の向こうで、葛城は嬉々として喋っている。“ポイ活”で得た、毎日一時間のネットサーフィンによって収集した情報だろう。天童は、そうかと返しただけだった。
「一四六万人なら、沖縄県の人口と同じくらい」葛城は続ける。「日本の引きこもり人数より、人口が少ない県は二二県あるわ。四七都道府県の半数近くよ」
 よほど暇なのか。それとも、これが今回仕掛けられた地雷ゲームの趣旨だろうか。
「それほどの数に上るのよ。この数を莫大な不良債権と捉えるか。未来に向けた宝の山と見るかで、この国の将来は大きく変わってくるでしょうね。それはともかく、引きこもり当事者に“死ね”とか言ってる人たちは考えてほしいわ。もし、ある県の出身者が凶悪事件を起こした場合、やはり全県民に“死ね”と言うのかどうか」
 天童は葛城を見た。穏やかな表情のままだった。
「そんなこと言ったら、そういう連中は怒りまくって反論するでしょうね。“引きこもり当事者は、そもそもが犯罪者となる素因を持っている”って」
「そんな人間は存在しない」
「きわめて常識的な見解ね。でも、こうも考えられない? ある県の出身者から犯罪者が出たのは、その県に犯罪者を生み出す風土や空気があるからだって」
「犯罪者など全都道府県にいる。そんなことを言ったら、日本中にその風土があるとなってしまう」
 天童は一笑に付した。こんな話につき合う自分も、どうかしていると思いながら。
「おやまあ。さすが天童くん、お利口さんね。お姉さん嬉しいわ。でもね──」
 葛城は言う。引きこもり当事者を犯罪者予備軍扱いし、あまつさえ“死ね”“家族が殺せ”と語る輩。彼らにはそんな当たり前のことさえ通用しない、と。
「簡単な正論さえ、ネット民や炎上覚悟のインフルエンサーなんかには届かないのよ。それが、この国の実態。それより、どうしたの。呼び出しもしないのに、自分から来るなんて。それもこんな時間に」
 今回の面会は、天童が自ら訪れたものだった。
「地雷ゲームの勝利宣言かな。あらまあ。勝ったのが、そんなに嬉しかったのかしら。明日の朝が待ちきれないぐらいに。そこまで、あなたがお子ちゃまだとは思わなかったわ」
「今回はノーカウントだ。ハンディを貰いすぎた」
「今どき、オリンピックでも珍しいくらいのフェアプレイ精神じゃない」葛城が嗤う。「五輪も単なるメダルの奪い合いでさ。それに皆が目の色変えちゃって。最近、観てても面白くないのよね」
 息子の福留雄基、そして父親の浩司。より追いつめられていたのはどちらだったか。
 江戸銀行暴力団融資事件を見ても分かるとおり、父親は組織の中で流されながら生きてきた。特に、上司など強者の顔色ばかり窺っていた。彼らの意向に逆らうなど考えたこともなかっただろう。
 そんな浩司にとって、世論やマスコミに流れる意見等はどう作用したか。上司の指示と同等か、それ以上の圧力だと感じてしまったことは想像に難くない。
 父親と較べて、息子の雄基には強靭な精神力があったのではないか。だからこそ、自分の意志で引きこもった。自らを取り巻く、冷たく酷薄な社会に見切りをつけて。どちらが、より崩れやすいかは火を見るより明らかに思えた。
 今回は、筒井が役に立った。浩司が息子を監視していたように、雄基も父親を見ていた。その状況をSNSで報告し続けてきた。筒井が見つけたのは、浩司が包丁を手にする一時間前の書きこみだった。
“昨日から、親父が部屋を出てこなくなった。限界かも知れない”
 到着が遅れ、強行突入となったのは失敗だった。浩司は、自宅内で包丁片手に歩いていただけだ。あとのことは深川署に任せるが、窓ガラスなどの器物損壊や住居不法侵入で訴えられてもおかしくない。
「お前は、おれを使って福留一家を救おうとしたんじゃなかったのか」天童は言った。「父親が追いつめられていることを察知して、未然に犯行を防ごうとした。お優しいのはお前だよ」
「あらまあ」葛城の薄嗤いは続く。「たまたま、息子さんの書きこみをネットで見かけただけよ。“親父を助けて欲しい”って。泣かせるじゃない。どういう意味かよく分からなかったから、あなたに丸投げしたけれど。じゃあ、お休みなさい。いい夢を、天童警視」

 

(第6回につづく)