8:29
「手にしている物を床に置け!」
SITの中西班長が鋭く告げる。
「両手を頭の後ろで組み、腹這いになれ」
下園と唐田は、持っていた封筒を床に置いた。ゆっくりと膝をつき、そのまま床へうつ伏せになる。両手を後頭部で組み合わせたところで、SITメンバーが動き始めた。
ボディチェックを済ませ、両腕を背中に回す。素早い動作で手錠をかけた。
ほかのメンバーは、拾い上げた封筒から拳銃──二挺のグロック19と予備弾倉を確保していた。
受付ブース内で、狙撃手の池田がライフルを構えている。被疑者を威嚇するためだろう。これ見よがしに存在を誇示していた。
「すみません」天童は下園たちに近づいた。「僕は、あのままお話ししても良かったんですが。SITの班長が、身柄確保が優先と譲らないものでしてね。さて──」
ロビーの隅へ、視線を向けた。先日、下園と話したテーブルがある。続けて、中西に目で了解を求めた。不承不承といった感じで、SIT班長はうなずいた。
「そのままでは寒いでしょう。床で冷えて、お腹を壊してもいけません。あちらのテーブルに移りませんか。部外者の僕が、社員の方をエスコートするのもおかしな話ですが」
天童は、テーブル席に向けて歩き始めた。下園と唐田を確保しているSITメンバーが、戸惑っているのが分かる。「班長」と小声で指示を求めた。
「警視の言うとおりにしろ」
許可を得たSITメンバーが、下園と唐田の両脇を抱えた。天童の向かいに座らせる。
下園は、天童に目を据えていた。対照的に、唐田は視線を忙しなく右往左往させている。
「何ですか、これ」下園が先に口を開いた。「さっさと警察に連行すればいいじゃないですか。拳銃持ってたんだ。充分、逮捕できるでしょう。思わせぶりな展開は、読者からの評判も悪いんですよ」
「先日も言ったかと思いますが、僕は刑事じゃないんです。あなた方を連行させてしまったら、たぶん二度とお話しできなくなる」
「私なんかと話す必要がありますか」
「ええ」下園の言葉に、天童は返した。「お訊きしたいことはもちろん、聴いていただきたいこともね」
「新宿区役所のワックス騒動」天童は説明を始めた。「今野礼司衆議院議員事務所の放火騒ぎ。これらはすべて下園さん、あなたが唐田さんにやらせたことですね」
唐田の視線が下園を向くが、反応はない。
「下園さんの熱心な読者だった唐田さんに、あなたが指示した。間違いないですね」
下園が反応しないためか、唐田も口を開かなかった。
「構いません。署でもまた同じことを話すのは、面倒でしょうから。それはさておき、今日ここへごいっしょにいらっしゃったのは、言わずもがなですが、社内で事件を起こすためですね。なかなか危険な物をお持ちでしたし」
──下園が、自身の犯行計画を小説で公表したのはなぜか。
葛城の問いかけに対して、天童の答えは合っていたのか。下園の口から確認したかった。
「新宿区役所や今野議員事務所の騒ぎはカムフラージュに予行演習、もしくは心理的アリバイ工作の意味があったのではないですか。本当の狙いを悟らせないようにしたのでしょう」
あえて小説に犯行計画を書き、事前に公表する。その後、小説どおりの犯行が行なわれる。
「小説の作者は犯行に関係がないと、周囲は誤解するはずです」
作者が犯人なら、そんな行動を取るはずがない。自白しているも同然だからだ。何者かが、勝手に小説を真似しただけだろう。たいていの場合は、そう思われる。
「それが、心理的アリバイですか」天童の言葉に、下園が返す。
「ええ。表現が適切かどうかは分かりませんが。特に『バッドアップル』の第三回は、日本企業内で銃撃事件が発生するという内容でした。会社名こそ架空でしたけれど、小説を真似された被害者のあなたが、自分の会社を襲撃するとは誰も考えないでしょう」
こうして邪魔されることなく、下園は凶行に及べるはずだった。
「ですが、下園さん一人では不可能でした。小説の作者が自身で、自作の小説と同じ犯罪に及ぶ。発覚すれば、すべてが水の泡となります。小説を真似されたと周囲に思わせるなら、本当に真似をする人間、つまり協力者を求めた方がいい。成功する確率が高くなりますからね」
協力者が逮捕されても、小説の作者は真似されただけだと惚けることができる。そのあとは、下園単独でも最後まで犯行は可能となる。そういう目論見だった。
「唐田さん」天童は唐田に視線を向けた。「あなたは、自分だけ逮捕されるかも知れなかったんですよ」
「……はい」軽く目を伏せ、唐田が初めて口を開いた。「そのつもりでした。そういう約束でしたから。僕が捕まっても、下園先生が最後まで計画をやり遂げてくれると」
「おやまあ」葛城の口癖が無意識に出た。「ここまで応援してくれる読者は貴重ですね。村上春樹や東野圭吾にもいないんじゃないかな」
「どうやってKAZU、唐田稼頭央くんにたどり着いたんですか」
「ファン心理を利用させていただきました」下園の問いに、天童は答えた。「あまり褒められた手法でもないんですが」
バッドアップルの協力者──唐田を焙り出すため、天童は筒井を使った。
「手持ちのアカウントを駆使して、『バッドアップル』の酷評を広めさせることはできるか」
「楽勝でーす」
筒井は、無数のアカウントを保持している。その一部を使い、下園慧ことSATOSHIに対する辛辣なコメントを広く流布させた。そうすれば、『バッドアップル』を称賛している人間から必ず反応が出る。酷評に反発してきた人間は、『バッドアップル』を称賛している者と見て間違いない。そうしたアカウントをリストアップさせた。
中でもKAZUというアカウントが、もっとも反応が早かった。筒井の酷評に対する反論も、喧嘩腰で一番過激だった。
「SATOSHI先生の作品が理解できない奴は、生きる価値なし。日本の腐敗した権力に支配されている豚。歪んだ社会の産業廃棄物。さっさと死んでください」云々。
KAZUを筆頭に、天童は数人をピックアップしていった。KAZUが数及び質ともに抜きん出ていたが、それだけで確定は早計と判断した。
石塚に、リストの人物を探らせた。彼のハッキングによって、アカウントの持ち主が割れた。
「こいつらの顔写真を入手しろ」
そうして、熱狂的な読者の顔と名前が浮かび上がった。
続けて、新宿区役所と今野議員事務所の防犯カメラ映像を取り寄せた。犯行時のものはないが、そのあとの周辺映像は残されている。
犯人は、犯行の成果をリアルタイムで確認していたのではないか。『バッドアップル』の第一回及び第二回にも、そうした描写があった。
石塚や筒井と手分けして、読者の顔と防犯カメラ映像を照合した。協力しての作業は、彼らの反発を呼んだ。頭から煙を吐きそうな勢いだった。パソコンでも、最近ここまで熱暴走するポンコツはない。
今話題の──特別に高級なクリスマスケーキを、協力作業の交換条件として提示した。
「あの店、宅配不可ですよ」と口を揃える二人に、自分が並んで買ってくると告げた。天童による初の和平交渉は成功に終わった。
「こいつで間違いないですよ、室長」
数分で、筒井が結論づけた。区役所と議員事務所。どちらにおいても、KAZUこと唐田稼頭央は野次馬に紛れて騒動を眺めていた。
石塚に唐田のパソコンをハッキングさせ、ダークウェブ上での取引の形跡も発見した。
「拳銃入手は、唐田さんの担当だったんですね」
掌を唐田に差しむけた。天童が相手を問い詰める際の癖だ。
「あなたが、ダークウェブで拳銃を買った相手ですが。どんな人間かご存じですか」
唐田は目を丸くした。下園も少しだけ眉を動かした。二人とも存じ上げなかったらしい。
「ある暴力団員なんですがね」天童は嗤いをこらえた。「組に内緒で売り払ったそうで。その反社は馴染みの刑事まで巻きこんで、大騒ぎになっていますよ」
「どうやって、今日決行だと分かったのですか」下園は、にこりともしていない。「まさか、クリスマスイブだからなんて言わないですよね」
「唐田さんが協力者と判明してから、彼のお宅を見張らせていただきました。先に動きを見せるのは、拳銃を持っている可能性が高い方だと考えまして。あまり外出しない点も好都合でね。動いたときだけ、あとを追えばいい。その点、下園さんは毎日出勤なさるから、動きが読みにくかったんですよ」
下園は短く嗤った。唐田は心配そうに、視線を動かし続けている。
「自身の犯行計画を、小説という形で事前公表する」天童は下園に視線を向けた。「こうした手法は、かなり面倒なものです。計画を危うくしかねない。薄氷を踏む思いではなかったかと推察します。だが、どうしてもこの方法を取らざるを得なかった。あなたの“文才”という武器を駆使して」
返事はなく、下園は赤味の差した頬を微かに震わせただけだった。
「あなたにとってもう一つの、いや本当の狙いかも知れませんが。それは、バッドアップルという言葉を世間に広めることだった」
宙に漂っていた下園の視線が、天童を向く。
「犯行に及んだきっかけは、原稿にも書かれていたとおりでしょう。社会への不満や、うっ憤を晴らすためだ。不平等で不寛容な社会に反撃する。だが、それだけじゃなかった」
天童も視線を逸らさなかった。
「あなたが最終的に目指したのは、一種のアンチヒーローになることだった。ちょうど、あなたが生み出したキャラクターと同じく。そのためには危ない橋を渡ってでも、小説で書かれていたとおりの犯行が行なわれ、バッドアップルという存在を世間で話題にさせる必要があったわけです。違いますか」
9:07
SIT班長の中西が、腕時計を見ている。
関東証券本社ロビーは、警視庁が封鎖している状況だ。誰もロビーに入らないよう、社の総務課を通して通達してあった。出勤者や来訪者は、下園たちが到着したあと警察官が裏口へ誘導している。
予定時間は超過していた。中西は苛ついているようだ。会社からのクレームを、班長としては心配せざるを得ないのだろう。関東証券の総務課職員らしき人間が、何度か様子を見に来ていた。
上司への気配りは重要だ。官房長の疑問も解消しておこう。『金八先生』を知っているか訊いたが、下園は名前だけと答えた。ドラマを見たことはなく、“腐ったミカン”も知らなかった。
「どうです?」天童は訊いた。「僕の見立ては、大体合っていましたか」
「一つだけ訂正させてください」下園は微笑った。「私には“文才”なんてない。とっくに分かってたことなんですけどね」
「諦めきれませんでしたか」
「そろそろ警察署へ連れていってもらえませんか」下園が首を回した。「会社の人間も焦れているようですから。迷惑かけたくないし。一応、まだ社員なので」
天童はうなずいた。SITメンバーが、下園と唐田を立たせはじめる。
「あ、最後に一つだけ」
腰を上げかけた天童は、手でSITメンバーを制止した。
「私の小説、どうでしたか」
「面白くはなかったですね」
天童の言葉に、下園が苦笑する。
「ですが、興味深かった。面白い小説は、プロアマ問わずいくらでもあります。ですが、新たな価値観に出会えるような興味深い作品は少ない。僕は、そちらの方が好きですね。早すぎたんじゃないですか、自分の才能を見限るのは」
「どうでしょうかね」涙ぐんで見えたのは気のせいか。「分からないな」
「次の作品を期待していますよ」
14:34
警視庁に引き継ぎ、相模原支所へ電話した。通常は取り次がれないが、天童は特別扱いだった。葛城が電話に出た。
「おやまあ。お疲れさま」
「知ってるか。今の日本じゃ、小説を読む人間より書く人間の方が多いそうだ。出版社に勤務している大学の同期が嘆いてたよ」
「分からなくもないわ。今のこの国じゃあ、誰も自己承認欲求が満たされていないもの。そういえば、あなた。文学部出身だったわね」
「文学的な知性が滲み出て困る。今回の下園と唐田だが。お前と、テロを扇動された連中に似ているな」
「あらまあ、やめてくれる? 全然違うわよ。私の行動は、それこそ文学的な知性が滲み出ていたわ。じゃあね、天童警視。メリークリスマス」
17:03
また、石塚と筒井が揉めている。
天童はドアの前で息を吐き、戦略的撤退を検討した。一分ほど立ち聞きして、買ってきたクリスマスケーキが原因と分かった。玉砕覚悟で突撃した。
「あのサンタが、問題の焦点でしてな」
金村がケーキを指差す。レアチーズベースのホールタイプだが、頂上にチョコレートのサンタが載っている。有名ショコラティエの特製らしい。それをどちらが食べるかで、喧嘩になったそうだ。
玉砕戦は金村に任せよう。君子危うきに近寄らず。指揮官とはそういうものだ。
「二つに割ればと言ったら、どちらが頭を取るかで喧嘩になって」
若者同士の諍いを、金村は微笑ましく見ている。人生経験の豊富さゆえだろう。
「クリスマスケーキで喧嘩なんて、娘と息子のものを見て以来ですからな。離婚する前に」
人生経験が豊富でも、楽しいことばかりではないらしい。天童は窓の外を見た。
細かな雪が舞い、万人に等しく降り注いでいる。ホワイトクリスマスなら、多少は気障な真似も赦される。美しい夜を期待して、天童は窓へと近づいていった。