12月10日 水曜日 2:07
下園慧は疲れ果てていた。
大学を卒業して三年になる。都内の有名私立だ。勤務している関東証券株式会社は規模こそ中堅だが、名は通っていた。その営業課所属なら、社会的地位も保証されている。
本来なら生活に不満などないはずだが、そんな単純なものではない。ならば、日本人は皆もっと幸せなはずだ。会社勤務も、下園には気持ちを重くしている原因の一つに過ぎなかった。
下園は元々、小説家志望だった。貧しい実家に足を引っ張られる形で、今の生活を続けている。
地元岡山の繊維会社に勤務していた父親は、平成の大不況でリストラされた。多少の貯えと祖父が遺した土地を使い、コンビニエンスストアのフランチャイズ経営に乗り出した。専業主婦だった母も手伝った。
最初は、経営も順調だった。転落の契機となったのは叔父──父の弟が、怪しげな投機話に乗ったことだった。莫大な借金を抱え、当人の叔父は夜逃げしてしまった。
莫大な借金は、連帯保証人である父の肩にのしかかった。下園は高校生だった。そのころから、店の業績が悪化していった。悪いことは続くものだ。借金と経営難から来る心労と過労で、父は体調を崩した。結局、コンビニ経営から撤退せざるを得なくなった。
あとには、借金だけが残った。
「早く仕送りしないとな」
下園は、一人呟いた。明日いや、もう今日になる。早々に送金しないと、実家の母親から必ず催促が来る。考えるだけで、気が重くなった。
大学進学時には、コンビニの経営は続いていたが、収入は借金の返済に回されていた。実家の経済状態はすでに苦しかった。当然、両親からは地元の国公立大学への進学を勧められたが、東京の私立大学文学部を志望した。学費と一人暮らしの費用に、下園は奨学金を受けた。現在、その返済にも追われている。
東京の大学を目指したのは、現役の小説家が実践指導を行なうというゼミがあったからだ。
「君には、独特の才能があるねえ」
一度だけ、特任教授から太鼓判を押された。そこそこ有名な作家からの言葉は、自信になった。自分には才能がある──下園は確信した。
就職を考える時期が来た。両親からは帰郷を乞われた。実家に戻って、借金返済のために働けとのことだった。コンビニはすでになく、母のパートだけに頼っている。日々の生活に追われ、執筆時間が取れなくなるのではないか。下園は恐れた。
「東京にいちゃ駄目かな」両親を説き伏せた。「仕送りはするからさ」
多額の仕送りを約束し、東京に留まった。死に物狂いで就職活動に励んだ。業種は問わなかった。雇ってくれるなら、どこでも良かった。ただし、大手に限った。給料が良くないと、実家へ約束した額を送金できない。
景気は依然悪く、どこも軒並み駄目だったが、何とか関東証券に滑りこむことができた。株式など、門外漢で興味もない。ほかに選択肢がなかっただけだ。中堅どころの企業だが給与は平均以上で、そこだけ魅力だった。
入社してすぐ、株の仕事は向いていないことに気づいた。転職も考えたが、大企業は何のスキルもない自分を採ってくれないだろう。中小企業では、給与等の金銭面で厳しくなる。
フリーターは論外だった。アルバイトしながらの作家修業など贅沢極まる。実家の経済状態が許すはずもない。恵まれた環境出身の作家は多い。経済的心配など無用、小説さえ書いていれば華々しいデビューを飾れる。下園とは正反対と言えた。彼らの成功談を読むたびに、嫉妬に胸を掻きむしられた。
今日も深夜まで勤務し、終電での帰宅となった。実家への仕送りに、奨学金の返済。給料からそれらを差し引くと、飢え死にしない程度の金しか残らなくなる。貯蓄などできない。
家賃も安く抑える必要があった。引っ越し代もなく、学生時代から住む八王子の安アパートから出られない。月四万円で六畳一間の和室と、狭いキッチンにユニットバスという学生用ワンルームだ。
丸の内の会社までは、通勤に一時間かかる。この働き方改革の時代に、始業時刻は午前八時三〇分のままだった。明日も、早朝に起床しなければならない。これも、かなりの負担だった。
さっとシャワーを浴び、コンビニ弁当で夕食を済ませた。
「さて、やるか」
今日も小説を書く。ひたすら書く。書くしかない。ガラステーブルの前に胡坐をかき、パソコンを起ち上げた。
完成した原稿は、小説投稿サイトへアップしていく。下園は“作家を目指せ”略称“サカメザ”というサイトを利用していた。今まで何度も投稿し、読者も一定数いるものの、書籍化などメジャーデビューはまだだ。
自分には才能がある。心の中で何度も繰り返してきた。まだ世の中が、下園に追いついていないだけだ。早晩、世間は自分を見出してしまうだろう。そう信じて執筆を続けてきた。
「今に見てろよ」
日中は激務をこなし、帰宅後は深夜から早朝まで小説を書く。そんな生活も、この先そう長いことではない。
世界はもうすぐ、下園の才能に驚愕することとなるからだ。
9:25
「室長、小説って読む人ですか」
「読むよ」筒井史帆の質問に、天童怜央は即答した。読書は唯一の趣味と言っていい。「最近は、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を再読してる。文庫化されたんでね」
「何ですか、それ」筒井の頭でツインテールが跳ねる。「そういう変なのじゃなくて。小説投稿サイトなんですけど」
「いや、変って」
「変は、お前じゃねえか。室長が読むわけねえだろ、そんなヲタ臭えもん」
石塚祐一が、二の句が継げない天童を引き取った。筒井は「変なヲタは、あんた」と返す。通常運転の険悪さだ。
LO室の窓からは、冬の日差しが射しこんでいる。空は晴れ、放射冷却により気温は低い。
「“作家を目指せ”、皆“サカメザ”って呼んでるサイトが最近人気なんですけど。そこに変な小説がアップされてるんですよ」
筒井によると、その小説投稿サイトに『バッドアップル』という作品が掲載されている。作者名はSATOSHI。まだ一回分のみだ。
「“サカメザ”は週に一度更新されるんですけど、作者が日曜までに投稿しておくと、月曜日には新しい原稿がアップされる仕組み、って分かります?」
「分かったことにしておく」天童はうなずいてみせた。
小説には次のようなことが書かれてあったという。深夜のうちに、区役所前に遅乾性のワックスを撒いておく。早朝、出勤してきた職員や来庁者が転ぶ。その様子を通行人などが撮影し、インターネットで拡散する。
「今朝その小説の内容と、よく似た犯罪が行なわれたんですよ」
開庁前の新宿区役所で、同様の騒ぎが起こった。エントランス前に、遅乾性のワックスが大量に撒かれていた。軽症だが、複数の怪我人も出ている。
「偶然とは思えないんですよね。作者か、少なくとも小説を読んだ奴がやったんじゃないかって」
「作者はねえよ」筒井の言葉に、石塚が首を傾げる。「捕まえてくれって言ってるようなもんだろ」
「注意した方がいいんじゃないかなあって」石塚の意見は無視された。「今は大したことなくても、エスカレートしちゃったりとか」
「バッドアップル」天童は呟いた。「“腐った林檎”か。日本語なら“腐ったミカン”ってとこだな」
腐った林檎──周囲に悪影響を与える要注意人物の意味だ。林檎とミカン。英語と日本語で、表現が似ている珍しいケースと言える。
作中におけるバッドアップルとは、その犯行を行なった人物を指す。謎のダークヒーローとして扱われているそうだ。
「自分から、そこまでマジに働くなんて珍しいじゃん」石塚が鼻を鳴らす。
「正真正銘の公務員様だから」筒井も鼻を鳴らし返す。「あんたみたいに、お気楽なフリーターとは違うし」
天童はパソコンへ向かった。飽きもせず、やり合い始めた石塚と筒井は放っておく。
要点は筒井から聞いたが、原稿全体に目を通しておいた方がいいだろう。小説投稿サイト“作家を目指せ”を検索し、『バッドアップル』を開いて読み始める。
「あんたなんか絶対、警察の採用試験には合格できないから」
「お前にでもできる幼稚な試験、受けてみようとも思わねえし」
そろそろ止めないと、上司としての管理能力を問われる。誰に聞かれているわけでもないが。
「おい、石塚。この『バッドアップル』の作者、SATOSHIの身元を調べろ」
「いや、室長。今それどころじゃないんで」石塚が左手を振る。
「“それどころ”だよ!」さすがの天童も声を荒らげた。
14:37
下園は思う。白雪姫に出てくる、お妃さまの鏡になった気分だ。
「鏡よ、鏡。世界で一番美しいのは誰?」
「お妃さまでっせ」と権力者に媚びを売っているうちは良かった。何を思ったか、鏡は突然、社会正義に目覚めてしまう。
「そんなもん、白雪姫に決まってまんがな」
あとのトラブルは、ご存じのとおりだ。鏡は、社会人としてどうかしている。今までどおりおべんちゃらを並べ立てておけば、万事丸く収まっていたはずで、白雪姫は毒林檎を齧らずに済んだ。王子様とは出会えなかったかもしれないが。
下園も顧客や上司に対して、上手く振る舞うことができない。特別にプライドが高いつもりはなかった。むしろ、自意識は捨てて仕事に取り組んでいる。だが、結果に繋がらない。
今回も、ノルマが達成できなかった。下園は、営業課長の松本広志に呼び出されていた。
「お前、この会社に入って何年?」
「三年です」
そう答えると、嫌味な上司は露骨に顔をしかめた。粘つく声で続ける。
「三日の間違いじゃねえの。これくらいのノルマさあ、幼稚園児でも達成できるっての!」
同時に、松本は自分のデスクを掌で叩いた。思わず身がすくむ。
関東証券株式会社の本社ビルは、東京丸の内にある。営業課はその三階だった。
下園は、課長席の前に立たされていた。叱責は、もう一〇分以上に及んでいる。ネチネチネチネチ──執拗で粘着質な説教が、鼓膜に貼りついて離れない。
仕事が上手く行かないのは、自分のせいではない。学生時代は優秀だった。小説の才能もある。業績不振の原因は、周りが無能だからだ。
関東証券はクソみたいな会社だ。時代遅れのパワハラ野郎が幅を利かせていることでも、レベルの低さが分かる。丸の内に構える中堅企業がこの様では、日本経済の衰退も納得がいくというものだろう。
会社の営業方針も最悪だった。今の時代に、ネット証券よりも対人営業を重視している。それも、高齢者が主な対象だった。年寄りの箪笥貯金頼みな証券会社など、先行きに不安しかない。
「佐藤様からも連絡いただいてさあ、担当替えてくれって」
佐藤は、下園が担当する顧客の一人だ。やはり、八〇歳を超える高齢者だった。
「お前さあ、何で年寄りが喜ぶトークの一つもできないわけ、ねえ?」
高齢者を騙して小銭を巻き上げるなら、特殊詐欺の半グレと大差ない。そんなスキルをひけらかして恥じるところがないのは、人としてのレベルも半グレと同等だからだ。
やる気あるのか。松本の問いに、ありますと答えた。
「おい! 誰か、この“やる気あるある詐欺”の給料泥棒に仕事を教えてやってちょうだいよ、頼むからさあ。おーい、無視すんな」
三階のフロアは、すべて営業課が占めている。その広い空間は静まり返っていた。半数近くの社員が外回りで出払っている状態だ。残りは自分のデスクで作業中だが、顔を上げる者はいなかった。
同僚は皆、腹の中で舌を出していることだろう。ノルマを達成できなかったダメ社員への侮蔑。叱責されているのが自分ではない安堵。そんな醜い優越感に浸っているはずだった。
この会社では、無能でも声の大きい人間ほど評価される。この課長もそうだ。中でも、代表格は社長の坂巻健吾だろう。前社長、現会長の入り婿だった。色男だが、無能で人望がないと評判だったらしい。
辞めない理由は二つだけしかない。実家への仕送りと、奨学金の返済だ。このままでは、自分の人生がゴミと化してしまう。一日も早く小説家としてデビューしなければ。そう思って、今までやって来た。
「“僕のせいで、課の業績が落ちてすみません”って課の皆に謝って回れよ、なあ」
松本の罵詈雑言は続いた。下園が課長から解放されたのは、さらに一〇分後のことだった。
早くこの空間から抜け出したい、逃げるように、下園は外回りの準備を始めた。
「営業に行くんだよねえ」出かけようとする下園の背中に、松本の声が飛んできた。「何しに行くか分かってる? 株を売るのよ、株を!」
下園は、営業課から廊下へ出た。関東証券の社員は、スマートフォンを二種類持っている。個人の持ち物と、会社から支給される業務用だ。個人用に、SNSのメッセージが届いていた。
実家からだった。内容は見るまでもない。仕送りの催促は、放っておくと日に最低三度は来る。
両親への送金は、スマートフォンの銀行アプリでできる。昨夜から今まで、その暇さえなかった。
懐でスマートフォンが震えた。今度は業務用の方だ。
「営業課の下園さんですか」受付の女性からだった。「ロビーで、お客様がお待ちです」