10:54
「娘の久実さんは、新型コロナで亡くなってね」
平岡の先導で籔島と天童、金村の順にアパート前を進む。丹生トシ子の部屋は、一階の右端だった。
「美青ちゃんって孫が一人いてね。今朝出かけていくのを見たから、サクラは部屋で一人だろうけど、耳が悪くてほとんど会話にならないのさ。私が先に鍵を開けて入るから、呼んだら来てくれるかい」
宮地サクラの補聴器は、音は拾えるものの声として認識できないという。孫や平岡など慣れた相手なら、唇の動きと併せて何とか判別できるそうだ。
「サクラ、悪いね。入るよ」
鍵を開け、平岡は大きく中へ声をかけた。ドアは開けられたままで、天童たちは外で待った。
「入ってきな」少しして、平岡が戻ってきた。「事情は説明してあるから」
居間はカーテンが閉め切られ薄暗いが、整理整頓が行き届いている。先刻まで横になっていたのか、隅に布団が畳まれていた。
認知能力の低下か、加齢によって風貌が変わっているためか。籔島と顔を合わせても、丹生トシ子──宮地サクラはぴんとこないようだった。
勢いこむ籔島を制して、天童は自身のスマートフォンを掲げた。音声をテキストデータ化し、ディスプレイに映すアプリを起動してある。
「宮地サクラさん。こちらの男性は、籔島研吾さんです。覚えていらっしゃいますか」
宮地は、スマートフォンと籔島を何度も見較べた。そして、静かに涙を流した。
「最近、私は体調を崩してしまって、孫に頼りっぱなしの生活なんです」
アプリを介して、宮地と会話する。彼女は音声が聞き取れないだけで、話すことには支障がない。
「どうも、孫は夜の仕事で生計を立ててくれているようなんです。詳しくは聞かされておりませんけれど。自分に気を使ってか、家では仕事のことを話さないものですから。今日は、朝から出かけております」
「サクラ、大変なところ悪いんだが」
籔島は、天童のスマートフォンに顔を寄せた。そんなに近づかなくても音は拾えるが、あえて言いはしなかった。
「昔預けた腹腹時計のマニュアルと、爆薬の原材料はどうなってる?」
「押入れの衣装ケースに仕舞ったままよ」宮地は目を伏せた。「何度も捨てようと思ったんだけど。どうしてもできなくて……」
「あとは、我々が──」
立ち上がろうとする籔島を制して、天童は金村に目配せした。揃って、白い手袋を嵌める。
宮地に断り、天童は押入れを開けた。衣装ケースの中は空だった。
11:18
「どうしようかな」
丹生美青は、一人呟いた。自転車を押しながら歩いている。
古びたママチャリの前籠には、大ぶりなトートバッグがあった。中には、圧力鍋型の時限爆弾が入っていた。五キロ以上あるので、非力な美青では自転車をふらつかせてしまう。
もう一時間近く、乳ゴールドの周辺をうろうろと歩き回っている。
店が入ったビルは、メインの商店街から一本入った路地にある。昼間に歩くのは久しぶりだった。思ったより人通りが多いことに今さら気づいた。
乳ゴールドに爆弾を仕掛ける。威力は分からないが、火事ぐらいは起こせるだろう。店が上手く全焼すれば、保険金が下りる。そのお金で、店は存続されるはずだ。
生活は苦しく、収入は必要だ。風俗以外の業種も考えられない。だが、よりハードなサービスへの鞍替えは無理だと思う。
店を爆破すれば、再開までには時間がかかるだろう。だがその期間だけ、ほかの店か他業種で辛抱すれば戻って来られる。
祖母のこともある。あまり遠方の勤務先に、長い間は通いたくない。アパートから近い、この店に戻ってきたい。その想いだけだった。
他の方法は考えられなかった。というか考えたくない。もうどうでも良かった。先の生活に自信はないけれど、これしかないと思っていた。
将来の夢や、やりたいことなど何もない。食べるために働き、働くために食べる。合間に、祖母の面倒を看る。それだけしかなかった。
母の夢は美容師だったと聞いた。美青も髪型を整えるのは好きだった。母に似たのかもしれない。
警察に捕まる心配はしていなかった。学もない風俗嬢の美青が、爆弾を製造できるなどとは誰も思わないだろう。使用したマニュアルは、今も持ち歩いている。どこかで焼き捨てる予定だ。
そう決心したまでは良かったが、いざとなると踏ん切りがつかなかった。どこに仕掛ければ、効果的かも分からない。
何回目の往復だろう。店を通りすぎたところで、自転車の後ろの荷台を掴まれた。
「何ですか、あなた!」
思わず声が出た。荷台を掴んでいるのは、長身の整った顔立ちをした男だった。
「運動不足はいけませんね」男は微笑んでいた。「自転車に追いつく自信がなくて、思わず実力行使をしてしまいました」
「放さないと、警察呼びますよ?」
長身の男は、バッジのようなものを広げた。名前の欄に、天童怜央とある。昨日、大家の平岡から見せられた名刺に、書かれていたのと同じ名前だった。
「天童と申します」天童の笑みが大きくなった。「警察にご用でしたら、何なりとお申しつけください」
「ちょっと、自転車の籠を見させていただいてよろしいですか」
警察に逆らうという選択肢はなかった。美青はうなずいた。前に回りこんだ天童が、籠に入ったトートバッグを開いた。
「おやまあ」
言ってから、天童は微かにしまったという顔をした。
「知人の口癖が感染ってしまいました。これはいけません。こんなもの仕掛けたら、店どころかビルごと吹き飛んでしまいますよ」
美青は全身が硬直するのを感じた。一月なのに、背筋を汗が流れる。
「近くの警察署まで、ごいっしょいただけませんか」
「ちょっと待て」野太い声が、背後で響いた。
11:42
「そいつを作ったのは、おれだ」
天童はふり返った。籔島が仁王立ちしていた。シルバー人材センターで、肉体労働をしているだけのことはある。立派な立ち姿だった。
「おれは、過激派崩れの元やくざ者だ。爆弾犯には、うってつけのキャリアを誇ってるだろ」
籔島は一段と胸を張る。ご自慢の経歴らしい。
「すみません」背後から、金村が顔を出した。「いっしょに、あのアパートで待機しているよう説得したんですが、まったく聞かなくてですなあ」
「おれが頼んで、そいつを運ばせていたんだ。その娘は、それが何かも知らない。警察には、おれが行く。とっとと連れてってくれ」
「籔島さん、それは無茶だよ。冗談にもならない。いくらなんでも無理があるってもんだ」
金村が肩に置いた手を、籔島は振り払った。表情は真剣だった。
「結構ですよ、それで」
天童は籔島の目を見た。薄曇りの天気にもかかわらず、澄んだ瞳だった。
「爆弾を製作されたのが、どなたでも構いません。近くの署に連絡しますので、少々お待ちください」
丹生美青は金村に任せ、天童はスマートフォンを取り出した。
17:13
「それで、その籔島って人を本当に連行したわけ? その女の子は放っておいて」
アクリル板の向こうで、葛城が目を瞠る。天童はうなずいた。
「あらまあ。冤罪じゃないの、それ」
「自分から進んで自白したんだから違うだろ」
嗤う葛城を尻目に、天童は短く鼻を鳴らした。
「でも、誤認逮捕よね。そんな手抜きでいいわけ」
「爆弾そのものとマニュアルさえ回収できば、それでいい。爆破は阻止したわけだし、誰が作ったかなどどうでもいい」
ましてや、その後の法的処理などまったく関心がなかった
「おやまあ。お優しいことで。それで地元の警察も納得したわけ? 警視様のご命令だから? 嫌だわ、腐った官僚組織って。で、そのお嬢さんが手塩にかけた爆弾さんは、きちんと爆発するのかしら」
「警視庁の科捜研によると、かなり出来は悪かったそうだ。だけど、係員が言ってたよ。“八〇年以上前にアメリカがばらまいた不発弾でも爆発するんだから、何が起こるか分からない”ってな。早めに押収して感謝されたぐらいさ」
「それにしても、その籔島って人は、どうして自分が罪を被る気になったのかしらね」
籔島は、腹腹時計に関する情報をネットに流していた。筒井からの報告によると、それに反応した若い女性が、どうも丹生美青らしい。
籔島は、そのことに気づいて罪を被ったのか。昔の恋人、その孫が犯した罪を知ったために。
いや──。そもそも、今さら宮地サクラや腹腹時計の行方を探そうと思い立った理由、それは丹生美青の書きこみがきっかけではなかったのか。
「さあな」それだけ、天童は返した。
「その美青って女の子は、これからどうするのかしらね」
「それこそ、どうでもいい」
1月23日 木曜日 1:03
丹生美青はスマートフォンを見ていた。祖母は静かに寝ている。
今日は一体、何が起こったのか。いくら考えても信じられなかった。
実際に爆弾を作った自分は連行されず、見ず知らずのお爺さんがパトカーに乗せられていった。
あのお爺さんは、籔島と呼ばれていた。自分を庇って逮捕されたのか──なぜ。祖母の知り合いらしいが、詳しいことは聞かされなかった。
帰ってから祖母にも訊いてみたが、微笑むばかりではっきりとは答えなかった。
天童という男性が連絡したあと、路地は警察官でいっぱいになった。普通の制服を着た人に交じって、奇妙な防護服を着た人たちもいた。
誰も、美青に注意は払わなかった。事情さえ訊かれない。だが、無視されているわけではなかったようだ。たまに視線を感じた。あの天童という人が、構わなくていいと指示したのだろうか。
爆弾自体とトートバッグは没収されたが、自転車は返され、すぐに帰宅も許された。
「助かったけど──」
一人呟く。自転車は唯一の生活の足だ。没収されていたら、大変なことになっていた。
今日の自分はどうかしていた。万が一、逮捕されていたら祖母はどうなっていたのか。考えるだけで恐ろしかった。
あの籔島という方には感謝しかない。でも、甘えていいものなのだろうか。
乳ゴールドを爆破すれば、店は継続される。今考えると、奇妙な計画だった。そんなに都合よく行くはずもない。
何もかも吹き飛ばしたかった。それが、本音のような気がする。
祖母の介護に追われ、気持ちの悪い仕事をし、あとは食べて寝るだけ。何もかも消えてなくなればいい。そう思っていたのだろう。はっきりと考えはまとまらないのだけれど。
一つだけいいことがあった。あの天童という人がアプリを教えてくれた。言った言葉が、ディスプレイに字幕で出る。使用料はかかるが、祖母との会話には便利だ。
今のおっぱいパブは二か月後になくなる。次の就職先を決めなければならない。
区役所から、祖母トシ子の介護認定に関する決定通知も届いた。デイサービスや、ショートステイも使えるようになる。少しは、手を離すことができるだろう。
何がしたいのか。風俗店の募集を見て回ったあと、美青は美容専門学校のHPを開いた。
母は美容師が夢だったと聞いた。なら、その希望を受け継ぐのも悪くない気がしていた。