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二年前 一一月一〇日 金曜日 一七:〇九

 木曜深夜から金曜にかけて、天童はほぼ徹夜で葛城の身辺調査を行なった。
 神奈川県警外事課室に泊まりこみ、早朝に少しだけ仮眠を取った。シャワー等の身支度は県警庁舎内で行なった。着替え類などは以前から課内に用意してあった。
 葛城は各種SNSにご執心だった。経歴等の個人情報は、ほぼさらけ出していると言っていい。
 学校その他公的機関等に照会が必要なものは、整理して夜明けを待った。神奈川県外事課長からの問い合わせは、一般の公務員には奇妙に感じられたようだ。
 天童は、正午前から有給休暇を取ることにした。課長だからか、お飾りのためか、唐突な申し出にも、上司や部下からの不満は出なかった。
 横浜から埼玉県上尾市へ向かった。移動には電車を使った。収集した情報を基に、葛城の関係者──担任教師や同級生などへの聞きこみに半日を費やした。
 こうして得た情報をまとめると、葛城の人となりは次のとおりとなる。


   *

 葛城亜樹子は年齢四一歳、独身。結婚歴はない。埼玉県上尾市出身で、市郊外の一軒家に現在も居住している。
 父親は埼玉県内の地方銀行に勤めている。母親は専業主婦で、兄弟はいない。
 県内の公立小中高校を卒業後、都内の私立女子大学へ進んだ。学業、スポーツともに中の上。目立たない生徒だったという。
 女子大卒業後は、地元上尾市内の会計事務所へ就職。現在も勤務している。
 夕刻が近づいていた。葛城のテロ扇動について、証拠や決め手はまったくない。だが、休暇まで取っての単独捜査だ。埼玉から、このまま手ぶらで帰るのも気が進まなかった。
 天童は葛城の自宅を訪問することにした。令状などは当然持っていないが、任意の聴取程度ならば問題ないだろう。
 葛城宅の固定電話らしき番号は調べてあるが、あえて連絡は避けた。突然訪問し、反応を窺いたかったからだ。
 タクシーで移動した。バブル期以降にできたのだろうか、比較的新興の住宅地だった。似た規模の住宅が数え切れないほど並ぶ。建屋の形状もよく似ていて、各戸がマイナーチェンジし合っているようにしか見えなかった。
 葛城宅は、もっとも奥の一角を占めていた。外壁はごく薄いベージュで、近隣よりはるかに地味だった。駐車場に見えるトヨタ・カローラは、一〇年以上前のモデルだ。
 表札を確認し、インターフォンを押した。
「はい」少しして、中から女性の声がした。
「神奈川県警の者ですが」天童は言った。「葛城亜樹子さんは、ご在宅でしょうか」
 自分だと女性は答えた。解錠音とともに、ドアが開かれた。
 葛城は大人しい顔立ちだった。背は高くない。化粧っ気もなく、ボストン型フレームの眼鏡をかけている。黒い髪は肩甲骨辺りまであった。白いシャツにジーンズと軽装だ。
 天童は名刺を差し出した。ドアチェーンは外されている。
「外事課長さん」葛城は呟いた。「おやまあ。お偉い方ですのね」
 なぜ、埼玉県警ではないのか。そうしたことは一切訊かれなかった。
 葛城は風邪気味で、勤め先を欠勤していた。両親は所用で、朝から不在にしていると言った。
「ここでは何ですから、どうぞお入りになって。狭い家で、お恥ずかしいけれど」
 玄関先で良いという天童を、葛城は中へ招き入れた。
 板張りの廊下は奥へと続いている。灯りは点されておらず、夕暮れを迎え薄暗かった。靴を脱ぎ、天童は葛城のあとを追った。三〇センチ近く、身長差があるようだった。
「少々お待ちになって」葛城が、こちらを向く。「玄関の鍵を閉め忘れましたので」
 天童の傍をすり抜け、葛城が戻っていく。香水や化粧品の匂いはしなかった。微かに、石鹸の香りがしただけだった。
 違和感を覚えた。足音の立ち去る気配がない。石鹸の香りも留まっている。
 振り返ると、背後に立つ葛城と視線が合った。眼が輝いている。その右手には、ペティナイフが握られていた。


現在 17:53

「江戸銀行新宿支店長だった福留浩司は──」金村は説明を始めた。
 情報を補強して、あとで報告したい。そう言って外出した金村は、二時間ほどで戻ってきた。天童と、ふたたび取調室で向かい合っている。
「今年で七五歳になりました。妻とは五年前に死別しています。銀行退職後の再就職先からも退き、現在は無職です」
 金村はスマートフォンを差し出した。アナログ極まりない男だが、スマートフォンはかろうじて使えるようだ。
 ディスプレイには高齢の男性が映っている。写真は数枚あるそうだ。
 まずは、福留浩司のバストサイズ写真だった。真面目そうな顔つきで、頭髪は薄い。
 天童はディスプレイに指を這わせ、次の写真を見た。全身像から判断するに、身長は一七〇センチ前後で中肉だ。写真はどちらも、隠し撮りしたものにしか見えない。
「この写真は、武張組から?」
「ええ」天童の問いに、金村は複雑な表情を見せた。「福留と武張組。表向きの関係は切れてるんですが、準構成員辺りにときどき動向を監視させているようです。ああいう連中は、一度喰らいついた相手にはしつこいですからな」
 実感を伴う台詞に聞こえた。その“しつこさ”を利用して、金村は今も暴力団情報を入手している。
 武張組はじめ関係のあった反社会的勢力へ金村を近づける。危険性は天童も承知していた。だが、その点こそがLO室における彼の存在価値とも言える。
 いつ取りこまれ、反社から利用されるか。それが発覚した場合は切り捨てるしかない。または、逆に警察側が利用するか。どちらにしても、金村にとってはさらなる地獄でしかないだろう。
 労いこそすれ、同情しても始まらなかった。金村自身も身に沁みて分かっていることだ。
「ご存じかとは思いますが」福留浩司に関する説明が続けられる。「幼少のころから優秀と評判だったそうです。東京の有名私大を卒業して、江戸銀行に就職します。定年前には、新宿支店長にまで昇りつめました。新宿支店による武張組への融資が発覚したのは、その定年を迎える二〇〇九年のことでして」
「で、責任を取って辞職した。融資は支店長独断とのことでしたが」
「表向きはそうなんですが」
 金村が得た情報によると、武張組への融資は福留の意志ではなかった。当時の常務取締役が指示したものだった。支店長の福留は、重役の指示に従っただけだという。
「福留は口を噤んだまま、一人で罪を被った形ですな」
 立件されることはなかったが、不祥事として大々的に報道された。金融庁から業務改善命令が出される事態となったものの、当該常務はじめ経営陣は関与を否定。退陣など一切の責任を負わなかった。銀行内では、支店長の依願退職のみで幕引きとされている。
「上役を庇った形ですからな」金村は続ける。「関係団体への再就職も、その常務の紹介です。退職金や年金もありますから、今も経済的な困窮はありません」
「そうですか」天童は訝しんだ。単独テロに結びつくような要素が見当たらない。
 確かに暴力団との癒着に関しては、福留が一人で被った。悪名こそ世間に轟いたとはいえ、本人は納得しているらしい。ならば、十数年も経過してから犯行に及ぶだろうか。
 考えられるのは、関係のない人間がローンオフェンダー化するケースだった。銀行に対し、自分勝手な正義感を燃やした末の犯行だ。それも不祥事が二〇〇九年と古すぎて、今さらといった感が拭えない。天童は訊いた。
「妻とは死別とのことでしたが、福留にはほかに家族は」
「息子が一人」金村は紙の手帳を繰った。「福留雄基、四九歳。独身で無職。もう二○年近く、自宅に引きこもっているそうです。父子の年齢からすると、八〇五〇とか七〇四〇問題と言われるやつですかね。福留に悩みがあるとすれば、この息子のことでしょうな」

「石塚、筒井」天童は取調室を出た。金村がスマートフォンと手帳を手にして、若い二人に見せる。
「その父子について調べてくれ」三人に視線を向け、天童は言った。「至急だ」


二年前 一一月一一日 土曜日 九:〇三

 天童は、横浜市西区みなとみらいにある“けいゆう病院”にいた。昨夜から個室で入院中だ。
 左上腕部の傷は長さ一五センチほどで、二○針縫った。さほど深くはないという。入院が必要とも思われなかったが、神奈川県警は天童を病室へ閉じこめておきたいのだろう。
 キャリア組の外事課長が、遠く埼玉県内で女性から切りつけられた。うろうろ外出してほしくない。非違事案を嫌う神奈川県警の気持ちも分かる。
 入院の建前は、治療の経過観察を行なうためとされた。襲撃の影響によるPTSDなど、メンタル面の検査も必要と言われている。
 葛城は素早かったが、力はなかった。不意を突かれ、左腕を切られたが取り押さえるのは容易かった。念のため、手錠を携行していたのも役に立った。一一〇番通報し、埼玉県警の到着を待った。
 出血の勢いや色から判断して、動脈は損傷していない。ただし、量は激しかった。自前のハンカチを使ったが、右手一本による止血では心許ないほどだった。到着した制服警察官から、救急搬送が必要と判断されたのもやむなしだろう。
 上尾市内の救急病院で、埼玉県警の捜査員に状況を説明。その後、けいゆう病院へ搬送された。
 病室で待っていると、二一時すぎに神奈川県警捜査第一課の捜査員が到着した。キャリアの課長に対してなので口調は丁寧だが、不信感は丸出しだった。埼玉県内で、平日の夕方に何をしていたか。どうして、女性から襲撃を受けることになったのか。手錠を携行し、さらに行使までしたのはなぜか。立場が逆でも、同様の対応を取るだろう。
「確保した葛城亜樹子ですが」天童は手短に言った。「水田市郎及び片岡将大の犯行を、彼女が教唆した疑いがあります」
 二〇年間逃亡していた極左過激派。加えて、世間を騒がせている神奈川県知事毒殺未遂犯。彼らのテロを唆した人間がいる。説明し、説得させるまでには軽く一時間を要した。
 天童の供述を受け、葛城の身柄は神奈川県警へ移送された。厄介払いできた埼玉県警は喜んだだろうが、困ったのは神奈川県警の方だ。以後のことは、天童の手を離れて行なわれた。
 神奈川県警は事態を重く見た。というより面倒だったのだろう。悩んだことは想像に難くないが、県警は早々の送致を決定した。
 内容は天童への傷害と、県知事毒殺に対する殺人教唆未遂だけだった。水田市郎に関しては、極左セクトへの参加を促しただけでは罪にも問えない。余罪を追及するにも、そもそも時効ではないか。判断保留のまま、横浜地検へ丸投げされた。
 なお、水田は責任能力が認められ、公判が開始された。葛城の証言も、一定の効果はあったらしい。第一審の死刑判決を不服として、水田側は控訴している。
 送致後の葛城側は、検察を翻弄するような供述を続けた。とても、起訴できる状況ではなかった。
 県警から強引にバトンを渡された横浜地検は、裁判所へ押しつけることにした。天童への傷害と、県知事毒殺未遂の教唆事案を無理やり立件した。公判が始まり、担当は黒埼となった。
 葛城は自供を裁判で撤回したり、アリバイを示したりした。かと思えば、罪を懺悔してみせることもあった。裁判官や検察官、自身の国選弁護人まで翻弄しているような感じだったという。
 立件自体が、実行犯の片岡将大による自白頼みだった。葛城が指示したという形跡は、SNSや片岡のパソコンからは発見できなかった。事前に消去していたか、インターネット自体使用していないか。スマートフォンによる通話履歴も見つかっていない。
 結果、天童への傷害未遂事案のみ有罪判決が出た。ただし、執行猶予つきだ。県知事毒殺教唆未遂は証拠不十分、葛城に弄ばれた挙げ句の無罪判決となった。
 ほかの事案による立件及び有罪判決を目指せ。
 検察庁から横浜地検は厳命された。葛城の勾留は続き、余罪の追及及び公判準備に血道を上げている。そうした検察の意地を、葛城は嘲笑っているようでもあった。


   *

 天童は一週間ほどの入院を経て、退院とほぼ同時に警察庁本庁へ呼び戻されていた。非常に早いペースの異動で、異例のことだった。
「お前さんが以前から提唱していたローンオフェンダー対策室構想だが」
 正源寺によって、天童は官房長室へ呼び出されていた。警視監の官房長と、昇任したての警視。階級や役職の違いはもちろん、二〇以上の年齢差もある。
「設立準備に入れ。おれが後押ししてやる」
 単独テロが横行している日本の現状に鑑み、警察庁内へ専門のセクションを設立する。天童の案を正源寺は高く評価していたという。異例の人事も官房長が手を回したらしい。葛城逮捕を好機と捉え、本格的な設置に乗り出した形だった。
「了解しました」短い一言で、天童は承諾した。官房長の命令なら、断れる余地など元々存在しないのだが。「早速、取りかかります」
 本庁舎内の公安課からデスク一つを借り受け、LO室設置準備係はスタートを切った。石塚や筒井、金村といったメンバー集めと併せて、天童は膨大な書類作成に取り組んだ。
 中央官庁は自身の政策を推進するため、地方公共団体に対し各種公文書を駆使する。端的に言えば、国の機関は紙切れ一枚で日本中を動かすことができる。警察庁も例外ではない。
 天童が行なっているのも同じことだった。持ち前の事務処理能力を発揮し、通達や要綱を連発した。そうして、各都道府県警察がLO室と協力せざるを得ないようがんじがらめにしていった。各都道府県警察が捜査主体に、LO室はオブザーバーとなるように。もっとも中核となる通達にはこうある。
「ローンオフェンダー対策室からテロ予測情報を提供された各都道府県警察は、オブザーバーである同室と緊密に連携を図るとともに、同警察の責任において主体的かつ積極的な捜査活動を行なうこと」
 そんな日々が続いていたある日のこと。天童は拘置中の葛城から呼び出された。
「あのときはごめんなさいね。傷は大丈夫かしら」
「執行猶予になってくれて嬉しいよ。まるで我が身を切られるみたいだ」
「おやまあ。そんな嫌味が言えるようなら何よりね。せっかくお近づきになれたことだし、仲良くしましょう。ところで、あなた。面白いことを始めているそうじゃない?」
 葛城は、天童がLO室を設立準備中と知っていた。黒埼から訊き出したらしい。
 彼女の目を見た。輝いているように感じた。天童を襲撃した際と同じように。
「私にも協力させてもらえないかしら」 


   *

 葛城逮捕から二年が経過した。その間、天童はときどき考えることがあった。あのとき、彼女はわざと捕まったのではなかったか。
 葛城に殺意があったとは思えなかった。襲撃を受けた際、天童は名乗って名刺を渡しただけだ。訪問の意図は伝えず、過激派や知事毒殺未遂犯の名前さえ出していない。
 単独テロを唆してきた葛城には、当時から警察捜査に関する知識があったと思われる。その後何度も話して、そのことは痛感させられてきた。天童の訪問が、任意の聴取に過ぎないと分かっていたはずだ。やり過ごすのは容易く、いきなり襲いかかる必要などない。
 たとえ本当に殺す気だったとしても、もっとほかの方法も取れただろう。凶器は小型の果物ナイフ。ふり返られたとはいえ、背後を取りながら左腕に切りつけただけで終わっている。
 天童は一度問うたことがあった。葛城が東京拘置所相模原女性支所に移管されて、すぐのことだ。
「なぜあのとき、おれに切りかかってきた?」
「怖かったから。いきなり神奈川県警の外事課長なんて、よく分からない人が家へ来たんだもの。一体何をされるのかと、不安になって当然じゃない? か弱い女性なのよ。そう供述しているでしょ」
 確かに警察及び検察に対しても、そう自供している。正常な思考回路の持ち主が言うこととも思えない。だが、その後“私生活で悩みがあり、精神的に不安定だった”などと翻してもいる。まともに供述する気があったかどうかさえ疑問だ。
「そんな、おためごかしはいい。もっと大きな事を構えるために、自身の存在を誇示したかったとか。そういうことじゃないのか」
「天童くん、ちょっと何言ってるか分からない」
 葛城が鼻で嗤う。実に楽しそうだ。
「私好きなのよね、あのお笑いコンビ」
「拘置所に入ってしまえば、より安定した場を確保できる」天童は続けた。「一般社会に身を潜めながら活動するより、かえって安心かも知れないしな」
「で、拘置所で臭い飯を自分から? おやまあ。そこまで馬鹿じゃないわよ、私」
「それとも警察組織自体に衝撃を与えて、自身を高く売りつけるためか」
「対人関係でハッタリをかますタイプってこと?」
「お巡りやブン屋にはそういう人間が多いそうだ。ただ、捜査協力を申し出ただけでは黙殺される。そう考えたんじゃないのか」
「私、会計事務所勤務なのよ」葛城の笑みが大きくなった。「あなたを襲えば、話を聞いてもらえるって? あらまあ。ずいぶん大物なのね、天童警視」
 問答と同じく、思考も堂々巡りを繰り返すだけだった。結論など出てこない。
 天童は、葛城の読めない真意を恐れている。面会を了承し続けているのも、テロ防止の助言を求めるためだけではない。葛城の動向監視も、目的の一つだ。
 天童や検事の黒埼がいくら調べても、葛城の過去から特別なトラウマ等は出てこなかった。
「私は、きわめて平凡な普通の人生を歩んできたわ」葛城は言う。「だからこそ今の日本社会が、とてもおかしいと感じてしまうのよ。そうは思わない?」
 天童は、過去に一線を越えた。それは傷となり、自身を囚える枷となってはいないか。いつも自問してきた。それゆえだろう。葛城の言動を信じ切れず、猜疑心を抱き続けている。
「平凡な普通の人生」天童は我が身をふり返っていた。「そんなものが、この世界に存在するのかね」

 

(第5回につづく)