待ち合わせの喫茶店に現れた滝野さんは、落ち着いた雰囲気のとてもフレンドリーな50代後半の男性だった。長年終活をテーマに仕事を続けていて、今は看取りをテーマに取材、執筆をされているという。京子さんの家にこれがあったと、新聞記事の切り抜きのことを伝えると「言葉が出ない。でも、嬉しいですね」と言ってくれた。
「寺山修司の言葉は文句なしにかっこいいし、萩原さんのお母さんの言葉である、『戒名・墓なし』は、団塊の世代が特にそう思っていることです。世代的に、先祖代々の夫の墓に妻である女性たちが否応なしに入れられたり、華美でカネばかりかかる葬送をさんざん見せられてきて、本当にこれでいいのだろうか、これは故人が望んだお葬式なのだろうか、という感覚があるんです。でも伝えたかったのは、そこではないんです」
確かに、70年代を代表する若者のカリスマであった寺山修司の言葉は、今の時代に生きる私でも、ぐっと心を掴まれる魅力に溢れている。
しかし、寺山修司は本人の希望とは裏腹に、八王子に大きな墓を建てられてしまったという。劇団の仲間は、その墓前によく集っているらしい。それは寺山修司が望んだことではないが、残された人がわいわいやれる墓前という場所では、故人と残された仲間や家族が一緒になれる。つまりお墓では生と死が一緒になると滝野さんは感じている。
それは、これまで長く終活を取材してきた滝野さんがたどり着いた、ある意味「身じまい」の理想の形でもあった。
何が正解か、答えはない。滝野さん自身、自分の最期については答えが出ていないし、答えを見つけたとしても、自分が果たして実践できるかはわからない、としみじみと語った。墓について、散骨でいいと言う奥さんと真っ向から意見が分かれていて、その中で逡巡しているとも教えてくれた。
京子さんは、確かに遺書を残した。そこには所々ボールペンで書き加えたり、消されたりした箇所があった。
何かに迷ったりする、それこそがとても人間らしい行為なのではないだろうかと、滝野さんはそんなふうな捉え方をした。なるほどと思った。きっと人は、自分が決めたことでも、最後の最後まで迷い、いつまでも悩むものなのだろうと。
母の孤独死をきっかけに家族が再生
「母の死をきっかけに、家族の中で進展したことがあるんです」
和彦さんは取材の最後に教えてくれた。
京子さんの死後、それまでバラバラだった家族が密に連絡を取り合うようになった。そしてそれがきっかけで、和彦さんの弟さんとお父さんが都内で一緒に住むことになったのだという。一人暮らしをしている父親の孤独死を心配したから、というわけではない。昔から精神的に不安を抱えている弟さんとお父さんが話し合った結果、新しい住居を見つけて2人で一緒に住むことになったのである。母の孤独死によって10年ぶりに再会を果たした家族は、少しずつではあるが、一歩、また一歩とその形を取り戻そうとしているかのようだ。
「葬式の後に、オヤジがうちに来たんですけど、それも10年ぶりだったんです。家族全員で揃ったのが10年ぶり。朝までこの部屋でいろんな話をしました。お姉ちゃんはお母さんがみんなを会わせてくれたんだねって、言ってましたね」
――生別は 死別ではなく いつの日か逢うかもしれず 畏れてをりぬ――
生前、京子さんは、こんな川柳を残している。
京子さんはもうこの世にはいない。しかし、生別していた家族は彼女の死によって、少しずつ小さな糸を紡ぐかのように再生しようとしていた。それは滝野さんが記事で伝えたかったような「故人と生き残った仲間、生と死が一緒になる」場所が、和彦さんの家族に生まれようとしている瞬間でもあった。
「来週引っ越しなので、引っ越し祝いでも持っていこうかなと思っているんです」
和彦さんは少し照れくさそうに、そう話してくれた。さおりさんも、そんな和彦さんを見ながら、にこやかな表情を浮かべた。
京子さんの死によって、家族全員がどのような死を迎えたいか、そのためにはどんなことをすればいいか、積極的に話をするようになった。そして、家族がそれぞれ1冊ずつエンディングノートを書いておくことにした。今のうちから自分の最期や、もしものことがあったときのことについて、自分の希望や伝えておきたいことなどを記しておくためだ。
「もちろん、まだまだ私は死ぬつもりはないんですけどね」
と和彦さんが笑みをこぼす。
一人の孤独死をきっかけに、家族の何かが変わろうとしている……。私は、その瞬間に立ち会えたことを心から嬉しく思った。そして、その姿をこれからも見届けたいと思っている。
孤独死は、残された遺族にとって悲惨であることは間違いない。なぜ連絡を取らなかったのかと生涯自分を責め続ける。遺体は夏場なら腐敗によって強烈な臭いがして、部屋に入ることもままならなくなる。その被害は周囲にも及んで、隣人は引っ越しを余儀なくされることもある。警察の家族への事情聴取では家族関係を根掘り葉掘り聞かれ、二重にショックを受ける。
今回、和彦さんの一家が支払った遺品整理、特殊清掃の代金は108万円。これは通常の遺品整理の約1・5倍の金額だという。業者によってその金額は様々だが、体液が床下深くまで達していると大幅なリフォームが必要な場合もあり、金銭面でもさらに多額の費用がかかることもある。
負担は残された遺族に、否応なく押し付けられてしまう。これが孤独死の偽らざる現状だ。単身者であれば、孤独死は2日間誰とも連絡をとっていなかっただけで、誰の身にでも起こりうる。
私は、特殊清掃業者から若年者の自殺や突然死の遺体発見が遅れた現場も見せてもらった。つまり、毎日連絡をする人が周囲にいないのであれば、孤独死に老若男女は関係ないのである。けれども、孤独死の現状がいくら悲惨だと言ったところで、亡くなってしまった本人はもはやこの世にはいない。残された誰かが、孤独死を処理しなければならないのだ。それが理不尽さをより一層強烈なものにしている。
和彦さんの奥さん、さおりさんは孤独死について「夫や私たちにとって、一生引きずっていかなければならないメガトン級のトラウマになった」と表現した。孤独死がいかに家族に大きな傷を残すかをシンプルに表した言葉だと思う。
しかし、最後の結末が孤独死だからといって、決してその人が不幸な人生だったというわけではない。私は、京子さんが3つのペンネームを使い分けて新聞に投稿していたことを知っている。おちゃめで、少ししたたかで、ユーモアのある女性であったことを知っている。
きっと生前出会っていればお友達になれただろう。
彼女にとっては最後の掲載となった【寂しさが夜中のアイス食べさせる】という川柳。これが掲載されたとき、新聞を見た京子さんはきっと一人でニヤニヤしていたのではないだろうか。「あら。また新聞に載っちゃったわ」なんて――。
人の営みは多面的で、常に一面的な解釈を超えていく。
ボールペンで消され、書き換えられた遺書が証明していた。
滝野さんとの出会いは、私にそれを教えてくれた。「私の墓は、私のことばであれば、充分」と言った寺山修司だったが、最終的に墓を建てられた。それが正しいことなのかはきっと誰にもわからない。正しさなんて言葉が空疎に思えるような次元に死者という存在はいて、私たちに様々な影響を与えて続けている。
それは、京子さんの生前の希望通りの葬儀を実行した、和彦さんの京子さんへの愛についても言える。墓も戒名もなく、散骨をしただけだったが、不在の母を中心にして家族が再編されようとしている。きっとあのアルバムが墓となり、集いの場となり、これからも和彦さんたちに何かを語りかけ続けるのだろう。寺山修司が今もどこかで何かを語り続けているように。
最後に、京子さんが、子供たちのファイリングブックに残した言葉を記しておこう。
「そうなのだ この世こそ パラレルだ いるべきところへわたしは戻ろう」(2013年、日経歌壇)
京子さんはすでにいるべきところにいる。
遺灰は舞子の海に散ったが、彼女の墓はアルバムであり、彼女が残した言葉は、和彦さんたちの中で新しく育っている。
この取材の過程で、滝野さんが笠原さんに会いたいとおっしゃったので、先日3人で集まった。滝野さんは特殊清掃の現場に興味を持ったようで、記事にしたいという。
私は京子さんに導かれて滝野さんと出会い、今度は滝野さんと笠原さんがつながることになった。こうして京子さんの言葉は無限に関係を紡いでいく。京子さんは私の中にもいる。それはきっとあのお洒落な部屋――今はどこにも存在しないけれども――に似た墓標となって生き続け、生涯忘れることはないだろう。
この続きは、書籍にてお楽しみください