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 そんな私を我に返らせたのは、笠原さんの丁寧な仕事ぶりだった。笠原さんはどんなに古びた本であっても、必ず最初から最後まで中身を開いて、遺族にとって何か大切なものは入っていないか確認していく。無造作にタンスの奥に入っていた赤茶けた書類の束も、時間をかけて1枚ずつ中身を見ている。正直、雑にやろうと思えばいくらでもできるはずだ。そういういい加減な業者も多いと笠原さんは言う。気の遠くなるような作業だが、一つひとつの動作に笠原さんの死者への敬意がにじみ出ていた。
「菅野さん、これ見てください。こんなものが出てきました」
 作業の中、笠原さんは一つの段ボール箱を見せてくれた。子供部屋の押し入れの片隅に眠っていたという、なんの変哲もない30センチ四方のお菓子の段ボール箱だった。
 その箱の中には、赤やオレンジ、緑などの、いくつものピカピカとまばゆい光を放っているものが入っていた。
「わぁ、きれい!」
 目をこらして見ると、細かいビーズをつむいで作られた無数の手作りの指輪だった。思わず声を上げてしまうほどの、美しさ。
 生前に京子さんは、このわずか1ミリほどのビーズを一つひとつ手に取っては糸でつなぎ、いくつもの指輪を完成させていた。なんて繊細な手仕事だろう。
 真夏の熱気が立ち込め、時間が経つにつれて死臭はより一層強くなる。
 作業員は暑さと死臭の中で汗をポタポタと垂らし、奮闘しながら作業を行っている。そして家具の隙間からふわふわと舞うほこりと、数えきれないほどの真っ黒の蛹が転がる床――。
 孤独死のあった夏場の現場は、文字通り修羅場である。そんな中ひょっこりと現れた京子さんのビーズの指輪は、不思議な輝きを帯びているように思えた。
 部屋のものがすべて運ばれると、壁のエアコンが取り外された。
 作業員の男性の一人が、丁寧にベランダにこびりついた泥の清掃をしている。笠原さんは掃除機と塵取りを使って、室内に落ちた蛹や蝿をかき集めていく。
 ベランダにかかった物干し竿がスルスルと折り畳まれ、入り口から回収されていく。そして最後に残された白熱灯の照明が取り外されたときに、ああ、これですべてが終わったんだ、私は漠然とそう思った。この部屋は無に戻ったのだ。もう京子さんのいた痕跡はどこにもない。主と家具を失った部屋はガランとして、初めてこの部屋に入ったときの何倍も広く感じた。
「こんなに、広いんですね」
「そうなんです。こんなに、広いんです。清掃の終わった部屋を見られたご遺族は、こんなにこのお部屋って広かったんですね、ってよく言われるんですよ」
 笠原さんはポタポタ落ちる汗を拭いながら、私に笑いかけた。ベランダからそよぐ風が私と笠原さんの顔をくすぐった。京子さんの思い出が運び出されていくときに感じた心の痛みはなくなっていた。
 ベランダから空の低い場所をゆっくりと流れる雲を眺めながら、京子さんもどこか別の場所へ移動していったのだと思った。

 

後悔だけが後に残った

 京子さんの散骨が終わった10月上旬、私は和彦さんの自宅を訪ねることにした。和彦さんの住まいは、品川区の閑静な住宅街の一角にあるマンションの一室だった。京子さんが2月に思い描いていた東京生活が実現していれば、このマンションの近くに住んでいたのかもしれない。和彦さんが言っていた、叶っていたかもしれない京子さんの東京生活――。それを一瞬目にしたような気がして、私は少し切なくなった。
 和彦さんの住んでいるマンションに伺うと、妻のさおりさん(仮名)も出迎えてくれた。さおりさんは、とても物腰の柔らかい聡明な女性だった。
 あの日以来ずっと、京子さんのことを考え、思い悩む日々を送ってきたという。
「本当にふがいない嫁だったなぁと、そればっかりがこみ上げてきました。なんて薄情だったんだろうと。子供が小さいこともあって、メールとかも全然返せてなかった。でもそれはきっと言い訳ですよね。私も、もっとちゃんとお姑さんと交流を持つようにしておけば良かったんです」
 そう語るさおりさんの言葉は、私と世代的に近いこともあって、色々と考えさせられるものがあった。子育てや家庭生活、目の前の煩雑な日々の中で、時折送ってくる京子さんのはがきやメールに返信できなかったこと――。それをさおりさんは今も後悔し続けていた。
 和彦さんは散骨の写真を見せてくれた。京子さんが散骨を選んだ理由は、大好きだった萩尾望都の『ポーの一族』の影響ではないかと考えているという。なぜなら、その作品の中には、吸血鬼が死を迎えると灰になって消えてしまうシーンがあるからである。そのエピソードを聞いてから再び写真を凝視した。
 スカイブルーの海に、徐々に白い灰が溶けてあっという間になくなる……。それは漫画の幻想世界がそっくりそのまま現実になったような光景だった。
 和彦さんは一冊のアルバムを取り出して私たちに見せてくれた。京子さんが子供たちに残すために作ったもので、新聞へ投書した川柳や絵画などが綺麗にファイリングされている。
「墓も位牌もないけれど、母はこれをちゃんと残してくれた。これが私にとってはお墓なんです」
 和彦さんはそう言ってアルバムを大切そうに撫でた。墓所を購入して墓石を建てたその空間だけが墓なのではない。和彦さんにとって、京子さんが残した言葉が何よりの墓標になるだろう。
 最後のページに残されていたのは、2016年6月16日。冷蔵庫に貼ってあった記事と同じ、毎日新聞に掲載された川柳だった。
【寂しさが夜中のアイス食べさせる】
 これ以降は白紙のページが続いている。京子さんにとっては、これが最後の掲載作品である。あの団地の一室で、京子さんは一人でアイスを食べていたのだろうか。
 京子さんは、寂しかったのだろうか。孤独だったのだろうか。和彦さんのような母親思いの息子がいても、ふいに寂しさが襲ってくることもあっただろう。しかし、孤独と孤独死は、似て非なるものだと思う。少なくとも自ら孤独を選んで生きることと、その死が発見されないこととは結び付いているようで、実はそれほど単純に結び付いてはいないのではないか。京子さんの最後の投稿に、私はそんな思いを巡らせていた。

 私はふと京子さんが冷蔵庫に貼った毎日新聞の記事を思い出した。そして、執筆した滝野隆浩さんに会わなければならないと思った。調べていくと、どうやらあの記事は毎日新聞の首都圏版の切り抜きということがわかった。掲載は、2015年6月20日。京子さんが亡くなる約1年前だ。
 滝野さんの記事は、「私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば、充分」という寺山修司の言葉の引用から始まっている。寺山修司とも親交の深かった多摩美術大学教授の萩原朔美さんのお墓探しのセミナーの講演を中心に構成されたものらしい。
「お墓は、生きている人がその人の死を納得するためのものなんです」
 講演で語られた萩原さんの言葉は記事中でも引用されている。萩原さんの母、葉子さんは作家で、子供のころ寝ている部屋の隣で母は執筆を続けていた。鉛筆を原稿用紙に走らせる音と消しゴムが転がる音が子守歌だったのだという。そんな母と同居して半年余り「介護のまねごと」をした。記事によると、萩原さんの母が84歳で亡くなる10年前に萩原さんに託したのが、「葉子の希い」という一枚のメモであった。そこには、「葬式なし/戒名不要/花、香典不要」と書かれてあった。そう、京子さんが赤のボールペンで囲んでいた箇所だ。
 私は滝野さんに会いたいと思った。
 滝野さんに会って、この事実を伝えなければと思った。一人の女性が滝野さんの文章によって感化されたということを。それは不思議なくらい衝動的だった。
 毎日新聞社に電話で連絡を取ろうかと思ったが、滝野さんの名前をネットで検索すると、ご本人のTwitterやFacebookが出てくることがわかった。私は滝野さんに事情を説明してぜひ会ってほしいとメッセージを送った。
 滝野さんはフランクな方で、すぐに会ってくださるということで、毎日新聞社がある竹橋を訪ねることにした。

 

「孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル(第二章 遺された家族の苦悩)」は、全7回で連日公開予定