和彦さんが京子さんに最後に会ったのは、京子さんの遺体が見つかる約1か月前の7月2日だった。
「その日実家に行くと、明らかに母は体調が悪そうにしていました。なぜ体調が悪いのかと聞いたら、親友が眠る舞子まで行っていたんだと言うんです。『せっかく孫を連れて遊びに来てるのに、そんなに体調が悪くなるようなことをするなんて、何を考えてるんだ!』ってつい言っちゃったんです」
和彦さんからしたら、何よりも自分の体調を第一に考えてほしかった。
京子さんは30年くらい前からうつ病を患っていた。
心療内科の医師にも舞子行きを止められたが、最終的には行かないことへの負い目を感じるよりはいいと、許可をもらったと京子さんは反論した。
「それは許可じゃない、と言い合いになりました。この歳になると普通の親子関係では、怒ったり怒られたりすることなんてないじゃないですか。それが母の舞子行きを巡って久し振りに口論をしちゃったんです。母からすると、これだけ大事に考えていることを子供にさんざん言われて、とても怒っていたんだと思います。あのとき、舞子に行けて良かったねと一言優しい言葉をかけてあげれば良かった……」
それが京子さんの生前の最後の会話になるとは思いもしなかった。
「メールも電話もするな!」と怒り心頭に発した京子さんの剣幕を見て、しばらく冷却期間を置くことが必要だと考えた。そして、7月下旬に試しに息子の写真をメールに添付して送った。こんなに可愛い写真を送ったんだから機嫌を直してくれるだろう。そう思っていた。
しかし、なんの返事もない。まだ怒っているのかなぁと思いつつも、日々の仕事や家庭生活に忙殺され、それ以上深追いすることはなかった。
8月になり、突然京子さんの兄に当たる叔父から和彦さんに電話がかかってきた。
「お中元を妹に送ったが返送されているので心配だ」という内容だった。
そのすぐ後にも今度は叔母からも同様の連絡があった。
「叔父さんと叔母さんの両方に電話をもらって、その日のうちに向かったんです。叔父さんに連絡をもらわなかったら、1か月や2か月、下手したら半年近く発見が遅れていた可能性もあります」
和彦さんは、不運な出来事が連続的に重なってしまったと語った。2月には、京子さんが和彦さんの家の近くに引っ越してくるという話が持ち上がっていたのだ。京子さんから持ち出した話で、珍しく嬉しそうに話を切り出したのを和彦さんは今でもよく憶えている。
「母は東京生まれの東京育ちだし、いつかは東京に帰りたいと言っていたんです。東京のほうが、私や父親、弟とも近くなるし、交通の便や福祉も充実しているし、色々いいことがある。だから物件をネットで探してあげたりしてたんですよ。あのとき、思い切って勢いで引っ越しさせていたら良かった。考えると辛くなるので、こうしていれば……ということはあまり考えないようにしているんですけどね」和彦さんはそう言って悔しそうに下を向いた。
しかし、京子さんの体調が再び悪化したこともあり、その話はいつの間にか立ち消えになってしまった。
さらに京子さんの発見が遅れた大きな理由の一つに、隣人が最近引っ越してしまったということがある。この年の4月まで、隣には何十年来付き合いのある70代の老夫婦が住んでいた。老夫婦と京子さんの関係は円満で、互いに協力していた。
京子さんが足のけがをしたときから、新聞の上げ下げなどをそのご主人が手伝っていたのだ。
「そのご夫婦が引っ越されて、人と話すことも少なくなったみたいです。新聞も取りに行くのが大変だから解約しちゃったんです。毎月の集金もなくなって、寂しかったのかもしれないですね」
京子さんに、お隣さん以外の近所付き合いはほとんどなかった。孤独死の理由として多いのが、ご近所との隔絶である。唯一の外部とのパイプであったご近所を失い、毎日の新聞配達という、何かあったら気付いてもらえるかもしれない最後の可能性も同時に消えてしまったのだ。
また、京子さんは耳が遠いこともあって電話を嫌がった。
家族とのやり取りはタブレットからメールで行っていた。そのタブレットにLINEを入れてもらおう。そう思っていた矢先だった。
「LINEは読んだら既読が付くじゃないですか。1日や2日は既読が付かなくてもそういうこともあるかなという感じですけど、さすがに1週間経ったら気づいていたはずです。倒れていても、まだ生きていて間に合ったかもしれない。あのとき、喧嘩せずにLINEを入れてたら、もしかしたら……と、本当に後悔ばかりです」
暑さと死臭の中に現れた美しい指輪
8月24日。京子さんのお部屋の清掃が行われると聞いて、私は再び千葉の団地を訪れた。
笠原さんは半そでのポロシャツで頭にタオルを巻き付け、手にはコンビニで買ったお茶やジュースなどが入った大きな袋をぶら下げていた。笠原さんの他に、作業員の男性が3人。炎天下の中の特殊清掃や遺品整理の作業は、熱中症などの危険が伴う。冷凍してカチコチにしているらしい大量のペットボトルは、最前線で過酷な作業を行う作業員への笠原さんなりの心遣いだった。
笠原さんは部屋に入ると、一礼をして新品の線香に火をつけた。部屋の臭いを軽減するため、そして死者を弔うために、特殊清掃の作業中は線香の煙を絶やさないのだという。
この日は完全にすべての窓を開け放っての作業となるため、作業員によってカーテンが取り払われる。エアコンは付いておらず、臭いは一段ときつくなっていた。
しかし、すべての窓が開け放たれた京子さんの部屋は、周囲を阻むものが何もない最上階とあって風通しがよく、右から左へと風が抜けていくのがなんとも心地よかった。
窓の外から窓枠にふと目線を下げると、緑のメタリック色の、キラキラと光ってまぶしく反射するものが見えた。無数の蝿の死骸だった。以前この部屋を訪れたときにはカーテンがかかっていたため、その存在に気付かなかったのだ。清掃の初日に殺虫剤で一気に死滅させられた蝿は、窓枠の縁に何十にも折り重なって息絶えていた。
驚き、思わず後ずさりしてしまう。
そんな私を気にする様子もなく、開け放たれた玄関のドアから、笠原さんの指示によって、作業員は慣れた手つきで衣装タンス、2段ベット、食器棚などの大きな家財道具を最初に運び出そうとしていた。
屈強な作業員たちによって、京子さんの家にあった家財道具は軽々と持ち上げられ、4階からバケツリレーの形式であっという間に1階まで運ばれていく。
その間に、笠原さんは本やパンフレットなどから押し入れの布団に至るまで、すべての遺品を一点ずつ中身を確認して仕分けしていく。遺品整理をしていると、本や書類に挟まって写真やアルバム、貴金属、現金などが突然現れることがある。そういったものが紛れていないか、一点ずつチェックして仕分けしていくのだ。大切だと思われる遺品は、段ボールに詰めていく。そして、すべて遺族のもとに送られるのだという。さすがプロといった雰囲気で、ポツリポツリと写真を本の間や書類の間から見つけ出していた。
京子さんと思しき女性が笑顔で赤ちゃんを抱いている写真があった。眼鏡をかけた女性は、ややふくよかでショートカットの髪型をしていた。和彦さんとそっくりの、ややたれ目で優しげな目元をしている。
この人が京子さんなんだ!
私は今まで京子さんの顔を知らなかった。その女性は私ににこやかに笑いかけているようで、いつまでもその写真から目が離せなかった。
笠原さんは、さらに和彦さんたちの学校のテストや落書き帳などの間から、数枚の写真を探し出した。
そこには赤ちゃんを抱いた、まだ20代前半と思しき男女が写っていた。よだれかけをした赤ちゃんは、生まれた直後のようでピンク色のパジャマを着た京子さんが頭を支えている。そして父親と思われるチェックのシャツの男性が赤ちゃんをあやしている。この写真に写っているのは、生まれたばかりの和彦さんと、その父、そして京子さんなのだ。京子さんは、隣の男性の明るい表情とは違って、どことなくそわそわと落ち着かない顔をしている。それが出産直後の一家のワンシーンを切り抜いたかのようで、逆に生々しくもあった。
そう、一つの家族の物語は、きっとここから始まったのだ。私がそうした思いに耽る間にも、一つまた一つと、京子さんを形作っていたものが、少しずつ部屋から失われていく。
そして今まさにこの瞬間に、家族の物語は幕を閉じようとしている。この部屋に詰まった京子さんの生きた証しが消えていくようで、ひりつくような心の痛みを感じずにはいられなかった。