知り合って間もなく、笠原さんから連絡が来た。
それが和彦さんのお母さんが亡くなられた物件だった。
きっと笠原さんの熱意が通じたのだと思う。私が取材意図を説明すると、和彦さんはお母さんが亡くなられたばかりの大変な時期にもかかわらず、取材に全面協力してくれることになった。
「あのとき母にもっとこうしていれば良かった、という後悔が、僕たち家族には山ほどあるんです。今は核家族化で母のような単身者も多いですし、今後母のような孤独死は増えていくんでしょうね。この体験を何か社会の役に立ててもらえるなら、母も喜ぶと思うんです」
和彦さんは、お母さんが亡くなった部屋の様子をすべて見せてくれた。そして、本来ならば触れてほしくないであろう家族関係の核心部分まで、包み隠さず話してくださった。私はそんな一家の全面協力もあって、和彦さんだけでなく、和彦さんの奥さんにも話を聞くことができた。和彦さんは、この章で紹介した2人の男性の孤独死のケースと異なり、母親と定期的に連絡を取っていたし、シーズンごとに家にも訪れていた。
なぜ、そんなごくごく普通の親子関係がありながら、孤独死が起こってしまったのか。そして、孤独死を目の当たりにした家族は何を思い、何を考えたのか――。以下にその詳細をできるだけ丁寧に記述していきたいと思う。一読していただければ、孤独死というものが誰にでも関係のある、誰もが逃れられない問題であることを痛感してもらえるだろう。
故人が愛した世界そのもの
京子さんの遺体発見から2週間後、和彦さんは実家である団地にアルバムなどの遺品を探しに来ていた。和彦さんが長年慣れ親しんだ実家に帰るのは、残念ながらこれが最後となる。
この団地はURの賃貸住宅ということもあり、遺品整理が終わった後は特殊清掃を入れて引き払ってしまうからだ。わずか数日後には、京子さんとその家族が生きた痕跡は、わずかな遺品を除いてすべて処分されて消え去ってしまう。
私はそうなる前に、京子さんが日ごろどんな生活を送っていたのか知りたかった。そして、京子さんが孤独死した現場をこの目で見ておきたいと思った。すでに笠原さんと和彦さんは特殊清掃費用の見積もりのため何度か現場に足を運んでいる。この2人とともに訪問するとはいえ、笠原さんから「まだ生々しい痕跡が残っている」と聞いていたため、少し緊張していた。
千葉市内の某駅から歩くこと20分ほどのところに、その団地は佇んでいた。4000戸以上を擁するマンモス団地は、東京湾の埋め立てによって作られた。団地の目の前には、つい最近廃校になった小学校の校舎がそのままの状態で残されていた。かつて活気のあったマンモス団地は息をひそめ、その役目を終えたかのように、微かな哀愁と寂しげな雰囲気を漂わせながら、まるで巨大な墓石の群れのように黙して佇んでいた。
笠原さんと一緒に目的の団地の前で足を止めると、そこにはオフらしく短パンにTシャツといういでたちの和彦さんが待っていてくれた。
「わざわざ来ていただいて、ありがとうございます。正直言うと、部屋の中は臭いですからね。マスクをしていただいて大丈夫ですよ」
孤独死があった部屋の臭いが強烈なのは、これまでの取材で十分に知っている。和彦さんの、他人である私への気遣いはとてもありがたかった。しかし和彦さんにとっては、小学校時代から大学まで生まれ育った実家なのだ。マスクを着けることは、まるでその実家が“汚れている”と言っていることになるような気がして、笠原さんに事前に渡され、手に持っていたマスクをポケットに押し込んだ。和彦さんはそんな私の様子を見ると、少しホッとしたような表情で語り始めた。
「私も久々に駅からここまで歩いてみたんですけど、駅からも遠いし、老いていく街というのをもろに感じましたね。ここで母が何十年も暮らしていたんだなぁと思うと、気が滅入りました。小さいころは3クラス、4クラスが普通で子供も多かったんですよ。でも、今日この付近を歩いてみると、高齢者しか見当たらなかったです」
京子さんが住んでいたのはこの団地の4階。エレベーターはないので、階段で上がるしかない。エレベーターのない4階まで階段で上がるのは、30代の私でもきつい。今のマンションに比べて明らかに傾斜の激しいコンクリートの階段を一段一段進んでいくと、自分でもハアハアと息が上がるのがわかる。これはしんどい。
60代の京子さんにとって、買い物などのときの階段の上り下りはさぞかし大変だっただろう、そう感じずにはいられなかった。
目的の4階に近づくなり、酸っぱいような、甘ったるいような独特の臭いが鼻をつくのがわかる。臭いがひと際強くなった階段の先にあるドアに、紫色の小さなカードのようなものが目に入った。
鼠色の鉄製の扉のドアノブと鍵穴の間に貼られた、「恵比寿大明神」と書かれた紫色のお守りだった。それは、この部屋で人が亡くなったということを確かに示していた。
笠原さんが鍵を取り出してドアを開けると、ギギィーと大きな音を立ててドアが開いた。夏場に孤独死のあった物件は2~3日で遺体が腐敗するため、臭いをカットする専用マスクを装着しなければそのまま入ることができないことも多い。笠原さんは遺族が遺品探しなどで中に入れる状態にするために、1週間前からオゾンの脱臭機をセットしていた。
それでも部屋に入ると、体にまとわりつくような臭いは強烈で、さらにヒヤッとするような冷気を肌に感じた。エアコンが付けっぱなしになっているのだ。笠原さんによると、これも部屋に染み付いた死臭を和らげるための手段とのことだ。
その玄関に、無数の蝿の死骸と、小豆をまき散らしたようなものが目に付き、思わずぎょっとさせられる。
動物の死体を放置すると腐敗・膨張するのと同様に、人も死後1時間足らずで体内の腸内細菌などが増殖し、腐敗ガスが発生し始める。そして、そのわずかな臭いを頼りにどこからともなく蝿が群がるのだ。密閉された室内でも、わずかな隙間や吸気口などから侵入してくるという。蝿は、まず鼻の穴や口腔などの粘膜部分に卵を産み付け、それはすぐ蛆虫になって蛹になる。そして、その蛹から蝿が生まれる……。そして、腐敗部位が拡大するにつれて、さらに産卵の範囲も拡大して、また蛹→蝿→蛆虫というループを繰り返す。これが何サイクル目かがわかれば、だいたいの死亡時期も割り出せるという。
蛹は、ピンク色を基調とした部屋中のいたるところにバラまかれ、これでもかと自らの異形ぶりをアピールしているかのようだった。清潔感のある部屋の内装とちぐはぐで、それがかえって孤独死の衝撃を際立たせていた。
「これが一番きれいなスリッパなので、良かったら使ってください」
私が玄関でモジモジしていると、和彦さんは私に新品のような茶色のスリッパを差し出してくれた。靴を脱いでそのスリッパに足を入れると、女性用らしく私の足にスッポリと収まった。
そうか。これは京子さんの足のサイズなのだ。
廊下にはハートに形取られたピンク色のクッションマットが敷いてあり、踏みしめるとキュッキュッと音を立てる。
一般的な団地の間取りの2LDK――。かつてはこの一室で母子4人家族が暮らしていたのだ。向かって右側の約6畳の部屋には、子供用の2段ベットが置かれていた。和彦さんはその部屋の押し入れを開け、箱の中からアルバムを取り出していた。
キッチンには、薄ピンク色と白の水玉模様のタオルがぶら下がっている。
床にはふわふわとした黄色と水色とピンクのキノコ型のキッチンマットが敷かれていた。キッチンと隣接する居間には大きな長椅子が置かれており、ここが京子さんの生活の中心だったことを物語っていた。
その椅子の下に、私は小さなスリッパを見つけた。
ウサギのマークがついた黄色のスリッパは、なぜだか片足だけ椅子の下にポツンと投げ出されていた。あり得ない場所に荒っぽく投げ出されたスリッパは、京子さんの身に何か突発的な異変が起こったことを表していた。
きっと京子さんは、このスリッパを亡くなってからもずっと履いていたのだろう。そして、遺体が運び出されたときにストンと脱け落ちてしまったに違いない。そう確信したのは、スリッパの底の部分が体液で茶色く変色していたからだ。
もう片方のスリッパも探してはみたが、警察が持っていったのか、誰かが片付けたのか、どこにも見当たらなかった。