京子さんが亡くなった場所は一目でわかった。長椅子の先にある小さなミニテーブルが、ピンク色のバスマットや花柄のフロアマットで何かを隠すかのように不自然に覆われていたからだ。そこに近づくにつれて、臭いが一段ときつくなる。外の階段まで漂ってきた臭いは、どうやらそこから発生しているらしかった。
2枚のマットをそっと外すと、テーブルの上には飲みかけの水とスポーツ飲料の入った2リットルのペットボトル2本、ティッシュペーパーの箱が置いてあった。視線を下に向けていくと、花柄のマグカップと白いマグカップが無残になぎ倒されていて、それらが京子さんの体液なのか皮膚なのかもはや判別がつかなくなった、どす黒いタールのような液体の上に浮かんでいた。すぐにそれは液体というより、液体が干からびた粘着質っぽい塊であることがわかった。テーブルの手前には底の深いお皿があり、どす黒い液体で満たされていた。食べ物と腐敗液が混ざったのだろう。テーブル上の液体は、かなりの量が下に零れ落ちたようで、床に敷かれたイグサのマットにも50センチ四方にわたってしみ込んでいた。
食事中に京子さんの身に何かが起こったのは明らかだった。
京子さんはなんらかの突発的な病気が原因でそこに倒れ込み、机に突っ伏した状態で亡くなってしまったのだと思われた。
「遺体を焼いた棺の中からスプーンが出てきたらしいんです。どうやら母はスプーンを握ったまま亡くなったみたいですね。数年前に脳血栓で倒れたことがあったんです。死因は不明となっていますけど、食事中に同様の病気でいきなり倒れてしまって、そのまま亡くなったのかもしれないですね」
京子さんは30年間専業主婦だったが、モノを作るのが好きな女性だった。部屋の壁には、所々に自らが描いた版画や水彩画などの絵が額に入れて飾られている。そのどれもが、部屋の小物と同じく繊細でパステルカラーの幻想的な色合いを醸し出していた。まるでついさっきまでそこで作業していたかのように、ステッドラーの高級色鉛筆やハサミなどが作業机に置かれたままになっていた。その上の棚には、ピンク色の扇風機やCDプレイヤーがある。
京子さんが倒れていた居間で目に付いたのは、本棚に所狭しと並んだ漫画や小説の数々だった。手塚治虫の『ブッダ』や『アドルフに告ぐ』、『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の5枚組DVDボックス、萩尾望都、くらもちふさこ、吉田秋生などの少女漫画、そして、野沢尚の文庫本などがぎっしり詰まっている。これはすべて京子さんのコレクションだ。
和彦さんによると、京子さんは昔から少女漫画や美術が大好きで、『王家の紋章』などの大作少女漫画をこの本棚に陳列していたこともあったという。少女漫画、美術、小説、そして、パステルカラーの絵――。
自らも詩や絵など、書いた作品を度々新聞に投稿していた京子さん。この部屋は京子さんが愛した表現の世界そのもので、それらがすべて一つの秩序を形作っていた。この空間自体が京子さんの一部であったのだ。
入り口近くにあった冷蔵庫の中を見せてもらった。まだ部屋には電気が通っていて、飲みかけの牛乳や未開封の野菜ジュース、マヨネーズやソースなどの調味料が整然と並べられている。確かに約1か月前まではここに人が住んでいたという息遣いが感じられた。ここで約1か月前まで、京子さんはいつも通りの生活をしていたはずだ。
明日も同じ毎日が来る、そう思いながら。
ある日、プツリと途切れた京子さんの日常。この部屋は、その輪郭だけがそのままの状態でとり残され、いまだに二度と帰ってこない主人を切なげに待ち続けているかのようでもあった。
和彦さんが一枚の新聞の切り抜きを見せてくれた。
そこには赤のボールペンで書き込みがされていて、四角に囲ってあった。
葬式なし 戒名不要 花、香典不要
記事の見出しには、「墓は生と死が一緒になる場所」とある。
冷蔵庫には、それと並ぶ位置に「遺言」と黒のマジックペンで書かれたA4の紙が貼ってあった。
〇直葬 葬儀は無し 〇誰にも知らせないで 本当の友達いないし
〇臓器はすべて提供 〇灰は舞子の海(兵庫県)に捨ててください
2015.10.14(水)
戸田京子 確認
これは明らかに京子さんが家族に残したメッセージだろう。京子さんが死ぬ前に残した遺書だとすると、まず最初に自殺の可能性を疑いたくなるが、和彦さんによるとそうではないらしかった。この紙は約1年前から冷蔵庫にずっと貼ってあったという。
「1年前に実家に行ったときに、『またまたー、お母さん、こんな遺言なんて書いちゃって?』なんて茶化してたんです。印鑑がないとダメだから、印鑑も押したのよなんて言ってましたね。母もいつか死ぬだろうと思ってはいたんでしょうけど、まさか1年後に死ぬつもりで書いたわけではないはずです」
その遺言には、別のペンで書き加えられたり、消されたりした形跡があった。和彦さんも生前からその存在を把握していて、カスタマイズされていく冷蔵庫の遺書をネタに、ときたま冗談として京子さんをからかうこともあった。
世の中は終活ブーム真っ只中。京子さんが自らのエンディングについて考えて何かを残していたとしてもなんら不思議はない。葬式なし、戒名不要、花、香典不要、直葬、散骨……。京子さんはなんとストイックな女性なのだろう。昨今流行りの断捨離ではないが、その潔さに思わずクラクラとしてしまう。
それにしても、なぜ舞子の海なのだろうか。
和彦さんに尋ねると、すぐに答えが返ってきた。京子さんには大切な親友が2人いた。しかし、その2人は去年相次いで自殺していたのだ。そして、その2人が眠る場所が舞子の海なのだという。
京子さんは、新聞に掲載された投稿作品を自作のアルバムに貼ってファイリングしていた。
その親友について、新聞の短歌投稿欄でこう書いている。
【私達 『新宿の女だね』 笑った三人 圭子逝っても 私 生きてる】
そして、その横には、昔、新宿のバイトで知り合った親友2人が、去年の5月と6月に自死とも――。
圭子とは、同時代の演歌歌手である藤圭子のことだろう。
そして、遺書にも登場した舞子の海。そこには京子さんが青春時代をともにした親友2人が死後散骨されているという。だからこそ、そこに帰ることが何よりの京子さんの願いであった。
自分の遺骨を納める場所として、自分のご先祖のそばでもなく、夫や子供たちのそばでもなく、親友のそばを選ぶなんて、月並みな表現だけれども、なんだか永遠の友情を目の当たりにしているようだ。
私はこのエピソードを和彦さんに聞いて以来、京子さんとの距離が一気に縮まった気がした。それは親近感と言ってもいい。
しかし皮肉なことに、その舞子の海を巡っての激しい口論が、京子さんと和彦さんとの最後の別れとなってしまうのであった。
1か月前に激しい口論をしたのが最後だった。
和彦さんがこの団地に移り住んだのは、10歳の時。グラフィックデザイナーである父親の転勤がきっかけだった。和彦さんは3人姉弟。年子の姉と、10歳下の弟がいる。姉は10年前に家を出て沖縄に嫁いでいたが、東京でウェブ関係の仕事に就いている弟は、母親にときたま顔を見せに来ていたという。
和彦さんは、自分の家庭が普通とは違うと感じることがあった。それは他の家のように、父親が家にはいないということだ。
「父は別居していたんですが、離婚してるわけではないので、母に毎月ちゃんと仕送りはしていたみたいなんです。でも、物心ついたときには、一緒に住んではいなかったんですよ」
それでも父親にはいつでも会いたいときに会いに行けるし、生活に不自由した覚えもない。
そのうち和彦さんが大学を卒業し就職すると、独身のころは仕事に忙しく、頻繁に実家に帰ることはなくなった。
しかし、3年前に和彦さん夫婦に息子ができてからは、京子さんにとっては孫になる息子の顔を見せに、シーズンごとに実家に日帰りで訪れていた。