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 作業が一週間を超えた。この間アパートには帰っていない。毎晩、花瓶に挿したチューベローズが上へ下へと白い花を咲かせた。夜だけ虫を誘うというセクシャルな香気が、ラミダスと私の苦闘を見守っていたはずだ。イライラを募らせながら、なぜこの作業が生理日と被るのかと悪態をつく。エアコンが効いているとはいえ、真夏の連続仕事だ。着替えも尽きて、体のそこかしこから汚物が吹き出しているかのような不快感のなかで、操作を続ける。
 ――必ず、見つけるのよ。
 気が付くと、昼と夜の感覚がなくなっていた。光が邪魔で、窓を段ボールで覆うことにしてからだ。あとは睡魔と空腹だけが時計になる。空腹を満たすのは、コンビニエンスストアのおにぎりだけだった。ディスプレイの右下に置き時計があるけれど、四日目を過ぎるころから、ただの数字と化した。時間すら私を止めることはない。
 どうやら目の限界が来たようだ。腫れぼったさを通り越して、もう痛みしか感じなかった。この動画群にはターゲットは含まれていないのではないかと、気持ちに初めて弱音が覗いた。いい加減アパートに帰ってシャワーを浴びてやり直そうかと思いながらソファに沈み込むと、眠りに捉われた。
 甲高い警報音が私を現実に引き戻す。跳ね起きてコックピットにしがみつく。繰り返されるアラーム音が体の芯まで響き、震えが止まらなくなる。
 画面に赤い矢印が輝いている。
「一致:歩容069‐081C内の検索人物と一致します。誤判定の危険性0パーセント。ほかのファイルからも検索しますか?」と、抑揚のない白文字が画面を占めている。
 ぶるぶる震える手でマウスを操作した。
 カメラ番号 山手線大塚駅新改札総合03
 日時 2019年6月4日07時11分
 画面の基礎データ表示には、そう書かれている。カメラは、改札機の近くから駅前方向を望むアングルのものだ。
 赤い矢印が追う男は、かなりの早足で改札口を歩いてくる。クリックして動画を止める。背が高い。拡大する。白髪だ。歳は五十手前か。意外にも、背広を着て臙脂色のネクタイを締め、一見するとしっかりした身なりの人物だ。
 SIUに繋ぎ、徹底して大塚駅の動画を取り出す。平日の毎朝七時過ぎに必ず、男は乗客の列に混ざって同じ改札を通っていた。
 男は正しい一市民に化けていた。



 どんよりと雲が低く広がっている。清々しさが漂うはずの彼岸過ぎなのに、その日は湿度が高くて、まるで梅雨時のようだった。午前六時四十四分。大塚駅前でバスを待つ振りをして列に並び、男を待った。ひしゃげた鼻先にマスクを押し当てる。目しか見えない格好なのだけれど、仮に素顔をさらしたところで、目の前の私が、二十年前に凌辱の限りを尽くした幼女だと気づくはずはなかった。
 男には分かりやすい目印があった。毎日、褐色の使い込んだ書類鞄を左の小脇に抱えているのだ。
「来たわ」
 心に動揺は生じなかった。なぜならラミダスがあらかじめ未来を教えてくれているからだ。
 バスの停留所の列を外れ、そのまま男の後をつける。改札をくぐり、ホームへ上がり、内回りの山手線を待つ。
 この後の男の動きを私は完全に予知することができる。男は8号車に乗って大崎駅まで行って降りる。最寄りには、階段のないエスカレーターだけの上り口がある。そこを上がると、コインロッカーを掠めながら目立つほどの早足になる。そして南改札口を出て左へ折れ、新東口へ向かう。ペデストリアンデッキが接続し、高層ビルが群れる再開発地域へ繋がるルートだ。男の自宅も勤め先もまだつかめてはいないが、鉄道事業者の敷地を歩く限り、男の動きは日々の習慣ごと完璧に把握できる。百パーセントの確信があった。
 ホームに電車が入ってきた。8号車に乗る。この時間の電車は思ったより空いていた。男は優先席の車両連結部に近いほうに座った。幸いにも三人掛けの真ん中だけが空いている。私は男の右隣に腰を下ろした。
 男の横顔を盗み見た。もみあげと白髪の生え際が目に入った。剃り残しの顎髭にも白がちらちら混ざっていた。書類鞄からスマホを取り出して、操作する。背広は高級品ではなかったけれど、クリーニングは欠かしていないと見え、ズボンには折り目がしっかりついている。ネクタイは紺の地に細い暗褐色の斜線が並んでいる。銀色の地味なタイピンで止まっていた。
 見たところ、普通の会社員だった。
 横から凝視していることに気づかれても、意図が伝わることはあり得ない。少し大胆にスマホを覗きこんだ。株式市況だ。ときどき繰る頁からは、アメリカ政府高官の発言が原油価格の高騰に結びついているという小難しい記事の見出しが目に入った。
 背もたれに体をあずけ、斜め少し後ろから男の横顔をもう一度見た。
 ――思い出せない。
 無駄だった。葬り去った顔の記憶が戻ってくることなどあり得なかった。この品行方正な平均的日本人サラリーマンが、私を力任せに襲い、体を嬲り、性欲の限りを見せつけたあの男なのか。母をめった刺しにしたあの男なのか。
 新宿を過ぎて車内に乗客が増えたかと思うと、渋谷でまた一気に空いた。私の右隣の席が空いた。このままでは不自然だ。やむなく一席空けて、扉側の席に移った。変わらずスマホを操作する男。特徴が無さ過ぎた。電車はもう、ひとつ手前の五反田駅に進入していた。
 ――駄目だ。分からない。
 ブレーキがかかり車体がきしむ。大崎駅に着いた。私は決断した。
 男がスマホをぽんと鞄の中に落とす。男が立ち上がるのを確認して、私も立ち上がる。電車が停止し扉が開く。降りてすぐのエスカレーターに乗る。男が進むに違いないルートの一歩先を歩く。コンコース脇のコインロッカー前で足を速めた。
 目の前に自動改札機が十四台並んでいる。男が必ず通過するのは車椅子対応の幅が広い改札機の右隣、三号機だ。早足で三号機に向かう。ICカードを手に改札機を通ろうとする寸前で、私は突然立ち止まり、マスクをもぎ取って振り向いた。
 予測通り、早足の男は不意に反転した私を避けられず正面からぶつかった。書類鞄が地面に転がる。
 私の鼻は男の顎とマスクの左下の紐を擦った。
 男の大きな舌打ちが聞こえた。けれど、男は私の鼻を見た瞬間、息を呑んで目を見開いた。あわれみと驚きと嫌悪で男の目が満たされていく。壊れた体を不潔とさげすむ目だ。男は鞄を拾い、眉間に皺を寄せて改札口を出ていった。
「コウタっ」
 心の内で絶叫していた。マスクから漏れる男の吐息と、触れた肌からかすかに漂う体臭に、あの臭いを嗅ぎ取っていた。嗅覚のない私の鼻が。



 コックピットに座り、言葉を噛みしめる。
「確実に完了する……殺人」
「入れ物だけでのうて、形無い『念』も……」
 私は、香田からのメールを開いた。
「178‐029Eの解析の件です。お蔭様で巣鴨の易者殺しのホシにたどりつきました。強力な裏が取れて逮捕しました。まもなく報道に出ます。正義がひとつひとつ実現していきます。明日にでも次のヤマをもってまたそちらに行きたいのですが、ご都合はいかがですか? 先輩のお蔭で今度は初めて県警と組むことになり、茨城県岩間というところの女子大生殺……」
 目をつぶってメールを閉じた。そして、新規メールの作成画面を開き、宛先を打ち込む。三つのサイトと四件のツイッターから見つけ出したアドレスだ。メモを見ながら一文字ずつ打ち込んでいく。さして長くもないアドレスを入力するのに、三回もミスタッチした。
 ――私でも、震えているわよ、今日は。
 文面を打ち始めた。
『能勢恵と申します。ご相談したいことがあります。さして恐ろしいことを望んでいる訳ではありません。ただ……』ひしゃげた鼻を撫でた。『ちょっと人探しをして、ある男を見つけました。生きていたときの臭いが消滅するまで、体という入れ物だけでなく、その男のすべてを、焼き尽くしたいのです。会って頂けませんか』
 送信ボタンを押した。背もたれに体を沈めると、返信を待った。猿人のフィギュアが、少し揺れた。

 

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