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 傘の陰に背丈を持て余しながら彼女がやって来た日は、土砂降りだった。夏の小さな台風が東の海に逸れていく午後、笹本さんは現れた。いつものベージュのスーツの背中に雨染みが広がり、手に提げた布バッグがぐっしょり濡れてしまっている。スキッパーの襟先から滴が落ちた。
「悪かったですね、こんな日に」
「いいえ、せっかく持ち出すことができた宝ですので、早くご覧頂こうと思います」
 小さなタオルを手渡すと、笹本さんは礼をいって前髪と頬を拭った。私は熱い紅茶を出す。「香り、素敵です」と喜んでくれた。発酵茶葉とベルガモットの永遠に分からない香気を空想する。笹本さんがバッグから小さなメモリーカードを取り出した。
「これに、弊社のストレージに繋がるアクセスコードが入っています」
「ありがとうございます。こんなに早く手配してくださって」
「いえ。カメラを低画質に抑えても、一台で年間ざっと八テラバイトに達します。東京、神奈川、千葉、埼玉の一都三県だけで五百近く駅があります。弊社のハードディスクは、ペタバイトオーダーで記憶を入れては消し、入れては消しを繰り返します。データベースを入れておきましたから、量はとんでもなく多くても、ラミダスなら、動画ファイルを整頓しながら探すことは難しくないと思います」
「いいえ、安物のCPUなので、気が遠くなるくらい時間がかかると思うんですよ」
 頭を下げた私に、笹本さんが角2の封筒を手渡してきた。中身を取り出すと、コピー用紙に印刷されたカラー写真だった。
「これって?」
「未解決凶悪犯罪とは逆の話といってもいいかもしれません」
 同じ人物の歩行写真が何枚も並んでいる。明らかに防犯カメラの映像から切り出したものだった。
「人探し……です」
 笹本さんが、颯爽とした大企業の社員から、悩みのある一人の人間に戻ったように見えた。
「行方不明者届を警察に出すと、生活安全課の案件になるんですけど、探して見つけてくれる訳ではないんです」
 写真には、七十代くらいの女性の何気ない姿が写っている。ワインカラーの眼鏡と緑色のセーターに、茶褐色のズボンを穿いている。デパートの紙袋を手に改札機に切符を挿し入れようとする姿は、周辺の空気にまったくといっていいほど同化して、違和感の欠片もない。
「北八王子という駅です、八高線はちこうせんの。これでも都内なのですが、一時間に二本くらいしか電車が来ません」
「どなたですか?」
「私の母です」
 私が訊くと、笹本さんは間髪容れずに答えた。
 沈黙が二人を包んだ。
 少しして、笹本さんがその沈黙を破る。
「警察は一生懸命に見つけようとはしてくれませんでした。いまの職場に来て、管内の駅の防犯カメラの映像を自由に見られる立場になりました。願いはただひとつ。映像を片っ端から見て、母を探すことでした」
 黙ったまま聞いた。彼女は三歳のときに、母親に駅のベンチに置き捨てられたという。時を経て、大きな鉄道会社に入った。入社の動機は、防犯カメラを使って母親を探し出すことだけだった。残された記憶と手元のわずかな写真を頼りに、三十四年前に自分を捨てた親を探し続けたのだ。
「能勢さんは、独学でラミダスを生むシステム工学を学んだのですよね?」と笹本さんが尋ねる。
「いやあ、これは学なんていうものではないんですよ。会社は広告代理店なのに、なぜかファミレスのオーダー受付ロボットをコンピューターで制御するプロジェクトに参入していて……。私は人間と対面するのが得意ではなくて、その代わりロボットやコンピューター相手なら無遠慮にマイペースで仕事できます。それで、ロボットなんかを喜んでいじっているうちに、関心が人体に向かっていって、骨格運動と演算の関係を身に付けたんです。それから、取引相手の親切な大学の先生に、スポーツ医学の基礎実験を見せてもらったりして……」
「凄いですよ。私はそういう能力がなくって、古い写真を片手に、毎晩映像を見続けて、とうとうこの女を見つけました。まるでかくれんぼの鬼」
 女という一言から、笹本さんが母親に向けた愛情とは正反対の心の闇を、一瞬で窺い知った。
「それで、お母さんの身元は」と、私はプリントされた写真を指差した。
「ええ、やっと判明しました、住所まで。偽名を使って暮らしてました」
「会ったのですか?」
「いいえ」
 反射的に「会うのがいいのではないかと……」といいかけた私は強い口調に阻まれた。
「恐ろしいんです、自分が。もしも会ったら、刃物を向けてしまいそうで」
 静寂が戻ってきた。捨てられた子の気持ち。それが想像できない私ではなかった。
「能勢さん……」
 写真から目を上げた。
「一都三県の映像は、これで全部見られます。情報に凹凸はありますが、過去四十か月分はかなり揃います。ほかにもあることは間違いないのですが、とりあえず主だったカメラからです」
「吉岡さんが喜ぶと思います。お蔭様でラミダスの運用が軌道に乗ります」
 笹本さんがアールグレイを飲み干した。玄関へ送り出す。
「ありがとうございました」と深々と頭を下げた私に、扉を開けながら笹本さんが振り返っていった。
「嘘、ついてますよね、能勢さん」
「えっ……」
 隙間から台風の風が吹き込んできた。
「私と能勢さんは、同じ人間の香りがします。ラミダスの使い道は、本当は警察への協力ではありませんよね」
「……」
「私には分かります。あなたも、誰か、人探しをしているということが」
 彼女の瞳が私を包んだ。
「あれだけのシステムを一人で作って、あなた一人で動かしている。いや、あなたしか動かせない。あなただけの世界です。きっとラミダスを使って、あなたはたった一人で誰かを見つけようとしている」
 彼女が微笑んだ。優しい笑みだった。
「いや、ごめんなさい、勝手にそう思っただけです。でも、人にはときに、どうしても探したい相手がいることがあると思います。私は、そういう人探しを応援します」
 彼女の言葉に私の瞳は熱くなり、涙の波が目に膜を張った。
 オフィスを出て、彼女の後ろ姿を見送った。強風にあおられて去っていく彼女の背中が、熱く霞んで見えなくなった。



 夜のコックピットは熱かった、ラミダスを収めたダークグレーの箱の硬質の冷たさとは裏腹に。SIUのデータサーバーに接続する。メモリーカードに書かれた通りのアクセスコードで、映像ファイルすべてにアクセスできることを確かめた。
 ラミダスを起動する。作動音とともにデータ待機画面が見えた。いつものCPUが頼もしく思える。動画ファイルを動かし、歩容のアグリーメント探索をかけていく。
 ――ここまで来たわ。きっとあと一歩ね。
 四桁テラバイトは優に超えそうな動画を、ラミダスが発掘し、照合していく。
「不一致:これらのファイルに類似する歩容はありません:エラーコード11903」
 出かかった舌打ちを止める。最初から運よく狙った獲物が見つかることなど確率論的にあり得ない。
 ――そういえばずうっと演算していたわよね、工藤悟のときだって……。
 何バイトチェックすれば終わるのか分からない。提供された映像にターゲットが含まれているかどうかさえ、何の当てもない。
 ファイルを次々に開く作業を続けていく。ラミダスは自分だけの作品だ。私は話しかけていた。
 ――ラミダス。あなたに任せっきりにはしない。あの男を私も見つけ出すの。そうしないと終えられないから。
 ラミダスが百五十台分の防犯カメラの映像を解析しているときに、私がたった一台の再生映像を見たところで、結果は変わらないかもしれない。しかし、私は確信していた。
 ――これは、私の闘いよ。
 八時間も作業が続いた。ラミダスは働き続け、私は映像を見つめ続けた。歩容照合の進捗を確認する。SIUの室内に随時繋がっているカメラが合計何台なのかは、各時点で厳密には把握されていないそうだ。照合済みの情報量を見ると、この八時間で百台のカメラの半年分くらいの映像は確認しただろう。ラミダスは確かに勤勉だった。でも、これだけ動かしても、世の中の映像のごく一部しか分析できない。
 懸命に動作するダークグレーの箱を見つめた。一晩費やしてもラミダスでチェックできる動画は高が知れている。ふっと溜息をつく。目が腫れている。ソファに横になる。鉛のように体が重い。オフィスの窓のりガラスから東の空の赤橙色をぼんやりと見通した……。