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 人間はみな過去をどう記憶しておくものだろうか。私には目に焼き付いた光景がある。網戸のある窓だ。陽の入らない北向きだったか。窓には、薄汚れた網戸越しにいつも空が重くのしかかっていた。
 木造二階建てのアパートの端にあった我が家は、そのまま母の仕事場だった。こういう仕事は夜暗くなってから始まるものだという通念があるけれど、母は明るいうちから働いていた。それは、母の後ろからふらっと男がついてきたときに始まる。母が連れてくるのは、その日初めて見る男のこともあれば、一度見たことのある男のときもあった。同じ男が何回も現れることはなかった、ただ一人を除いては。母が「コウタ」と呼ぶ男だけは、珍しいことに家に上がることが十回以上はあっただろう。
「クマさんの所で待ってて」
 男がくると、いつも母はそういい、私に冷蔵庫からパックのイチゴ牛乳を手渡した。私は、イチゴが三つ描かれているパックを握ると近くの公園へ歩いた。時計がなくても、帰るべき時間はわかった。クマの遊具にまたがっていると、通過するバスが見える。そのバスが七台過ぎたらゆっくり帰ればいい。そう母にいわれていたのだった。公園では何もしないことに決めていた。砂場で遊んでいるとバスの通過を見落としてしまうからだけれど、いつのまにかクマに乗っかってぼうっとしているのが苦にならなくなった。ときどき近くの子供が親に連れられてぶらんこで大騒ぎした。でも、冴えないクマには目もくれなかった。
 七台目のバスが来て家に戻ると、母はいつも化粧を落としていた。
「お帰り。お腹空いてないかい?」
 母はよくそう尋ねた。私にとってはたった一人の母だった。
 母はたまに、夜に出かけていくことがあった。帰りは翌朝だ。薄目を開けて盗み見ると、母がどぎつい赤や紫のワンピースの上に冬は黒のコートを羽織り、夏は薄手の若草色の上着をまとって出ていくことを覚えてしまった。もちろん分厚く化粧を重ねて。母が小さな鏡を取り出して顔を作っている最中に、トイレに行きたくなった私が「ママ」と後ろから声をかけたことがある。そのときに振り向いた母は別人だった。顔も別人だったけれど、心も別人だった。
めぐみっ、寝てなさいっ」という声は、それまで聞いたことがないほど冷たかった。「ママはいまからお仕事だから。鍵をかけてくから、静かに寝てなさいっ」
 それきり、母が夜に化粧を始めたら、かかとの高い茶色の靴に足を突っ込み、黙って扉を閉めて出ていくまで、眠っている振りをすることに決めた。
 母の生業は売春だった。バイシュンという言葉を聞いたのは、もう何年か後のことだ。それが何かを正確に知るにはさらにもう少し時間が必要だった。ただ、母の仕事が世の中から蔑まれていること、そして私が踏み込んではいけない世界であることは、幼くても理解できた。
「コウタ」と母が呼ぶ男は、ほかの男と違っていた。あまり間隔を置かずに、ちょくちょく部屋に上がってきた。たいていは明るい時間帯だった。そしていつも吐く息が臭かった。
 五歳の真冬の日だった。母がコップに活けた水仙から甘い香りが満ちていた。ガラス窓と網戸を通して外を見ると、いつもよりにこやかなコウタの腕に母がぶら下がって歩いてくるのが目に入った。コウタといる母に会いたくなくて、ジャンパーを手に家を出ようとしたけれど間に合わなかった。入り口で、二人と鉢合わせになってしまった。
「恵っ、どこ行くのっ」
 呼びかけながら慌てて腕をほどいた母の隣に、シャツの裾をだらしなく垂らしたコウタが立っていた。
「ク、クマさんのところ」
 母がちょっとほっとした顔をした。
 イチゴ牛乳を渡しながら「ゆっくり遊んでらっしゃい」という母の呼びかけと、「気が利く小僧じゃないか」というコウタの声が、背中から聞こえた。コウタは逃げようとする私の手に、割れた板チョコを一枚押し付けた。
「メグちゃんだねぇ」
 頭をごりごりと撫でてくるコウタの掌がたまらなく不快だった。何かが腐ったような臭いが頬に吹きかけられた。私は激しく首を振って後ずさりした。コウタは不愉快そうに口を歪めると、背を向けていった。
「このガキ、可愛くねえ」
 コウタの手を握ったまま、母は私に凍った一瞥いちべつを投げて紅色の唇を動かした。
「恵っ、さっさと行きなさいっ」
 母の目にはもう優しさの欠片かけらもなかった。掌からこぼれ落ちたチョコレートが床に散らばった。
 バスはその日も正確だった。白にくすんだ青い帯の入ったバスは、「清掃工場」と行き先を掲げて走ってくる。側面には亀戸天神近くの和菓子屋の広告か、セーラー服を着たアイドルが微笑む学習塾の宣伝が掲示されていた。
 そして、七台目がバス待ちの作業服の男を乗せて走り去るのを見届けた。
 でも、その日はクマに跨ったままだった。
「帰りたく、ない……」
 そう呟いたのを覚えている。
 息を吐くと、白い霧になった。何度も霧が舞い上がっては消えていく様子を透かし見た。手をずっとジャンパーのポケットに入れっぱなしにしていたのだけれど、どんどん寒さが体に沁み透ってきた。ジャンパーをセーターをシャツを、寒気が射貫いた。それでも帰りたくなかった。
 八台目が走り去り、九台目が来た。ほかにすべきことはなかった。体の芯が氷くらい冷え切ったのが辛くて、白い一息を吐くとクマから降りた。固まった地面を棒のような足先で順番に蹴りながら、家へ向かった。
 路地から窓を見上げると、もう暗い時間なのに電燈が点いていなかった。背筋を冷たいものが通り過ぎた。家の扉を開けた。お帰りという声も、お腹空いた?という言葉もなかった。ほんのり暖かい室内だったけれど、いつもなら赤く見える電気ストーブがついていなかった。
 母の姿がない。
「ママ……」
 薄暗い部屋の蛍光灯を点けようとして、何かにつまずいて靴下がびしょびしょに濡れた。見ると畳に白い花びらが散らばっていて、コップが割れていた。
 そのとき、物陰から誰かに信じられないほど強い力に突き飛ばされ、殴られた。そして、私を布団の上に投げ飛ばすと上から圧し掛かってきた。少し前にかいだ何か腐ったような臭い。コウタだった。
 私は、自分の力では何もすることができなかった。ただ、悲鳴をあげながら、泣きじゃくった。
「痛いっ」
 コウタに口を掌でふさがれると、もう悲鳴を絞り出すこともできなかった。コウタは私の服をすべてはいだ。コウタの手や腹は血まみれだった。
「やめて、殺さないで」
 声にはならなかった。殺されるという恐怖と死を実感できない幼さが、あらゆる反応を体から奪った。コウタの首に巻かれた蜘蛛くもの首飾りが目を突いた。すべての感覚が遠のくなかで、目の痛みが残った。そして……。
 自分でもどう表現するのかわからない痛みが私を貫いた。私が浴びたコウタの臭いは、人間のものではなかった。暴れまわる欲望の塊が、まるで獣のような臭いとなって私の体に滲み込んだ。鬼畜の刻印だった。極限の恐怖で、私の記憶に形あるものは残っていない。
 コウタはどろっとした何かを私の尻にかけ、それを指ですくって私の顔に塗りたくった。それはすべて臭いとなって私を貪った。
 傷口に波打つ血の拍動で目が覚めた。畳に押し付けられた左の頬には、コウタが塗りつけたものが乾いてこびりついていた。辛うじて立ち上がり、電灯の紐に指先を引っかけた。
 灯りの下で畳も襖も血まみれだった。ふらつきながら足元を見まわすと、毛布と掛け布団が奇妙な形に広がっている。布団を剥がすと、そこにあったのは人の体だった。血の海とともに凝固した母だった。