猿人を模した小さなフィギュアがマウスの動きに合わせてかすかに揺れている。無機質なグレーのデスクに、赤褐色に塗られた可愛い笑顔の化石人類はかなり不釣り合いに見えた。七十インチのディスプレイが置かれたデスクを、いつのまにかコックピットと呼ぶようになっていた。考えなくても一定の軌跡を描く右手でクリックしていく。画面中央には先週から幾度となく見続けている改札口の動画が一時停止の状態で現れていた。構内から駅の外を見渡す画角にはターミナルに出入りする高速バスが何台も連なり、構内へ入ってくる無数の客が映る。円柱に隔てられて合計十四台並んだ自動改札機が捌く乗降客の波は、生身の人間の集まりというより、ベルトコンベアで流れていく工業製品の列に見えた。
「南口やろかぁ」
右に座る吉岡さんが呟く。
「ここは、一台のカメラに映るお客様が、弊社で、いいえ、日本の鉄道駅で最大級に多い場所といってもよろしいです」
コックピットの左後ろの椅子から笹本さんが説明を加えた。いつもベージュのスーツを颯爽と着こなす、鉄道会社に勤めるエリートだ。営業という文字の入った名刺を持っているけれど、この部屋にいるということは、本当の職務は字義通りではない。実際には、システム・イノベーション・ユニット、略して「SIU」という社内で公に認知されていない部署のスタッフだ。学生時代はバスケットボールをしていたという三十七歳は、ここにいる四人の中で一番背が高い。素敵な栗色の髪は肩甲骨の下まで伸びている。
「先輩、毎日この前を通って通ってますよ、僕」
SS128とナンバリングされたカメラの映像を見て、香田が話す。気安く先輩と呼ばれるにしてはかなり年上の吉岡さんが、じっとその映像を見つめている。経験豊富な吉岡さんと正義感一本の若い香田。二人の刑事はいいコンビを見せていた。
ディスプレイの左下に映り込んでいる深緑色の菱形のアイコンをダブルクリックし、現れた入力カラムに、CY32673と打つ。一週間前から何度となく打ち込んでいる映像の識別コードを入力し、リターンキーを叩いた。
一時停止していた新宿駅南口改札の映像が動き出す。三倍速に設定した。男も女も子供も老人もみな、早歩きを続けていく。十五秒ほど待った。
突如スピーカーから警報が響く。十回鳴ると同時に、矢印が出る画面に切り替わる設定になっている。やがて現れた赤い矢印は、画面左手から現れた人間の肩にまとわりついた。
「男だ、背の低い」と香田が口にする。
人の波が自動改札機の数だけ分岐して小さな空間ができたとき、矢印が指す人間のほぼ全身が映った。青とグレーの横縞のセーターに黒いズボンを穿き、右肩から黒いバッグを提げている。男は足早に女子高生二人を追い抜くと、小さく“9”とシールが貼られた改札機を通過した。
「止めろっ」
吉岡さんの声よりも、私がマウスで停止コマンドを押す方が一瞬早かった。周囲の空気が張り詰める。
「こいつが……?」
「練馬一家五人殺害事件の、犯人ですよ」
私は冷静にいった。
笹本さんが、ううんともはあともつかない吐息を漏らす。吉岡さんが声を張り上げた。
「名も住所も職業も分からへん。こいつぁ何もんや。だれにも分からへん。そんでも……」
私は快感を覚えながら答えた。
「夫婦を刃物でめった刺しにし、三人の子供を扼殺し、すべてを終えてから、劇団のサイトを楽しんで、冷蔵庫のピザを焼いて食べて立ち去った、その犯人ですよ」
吉岡さんが舌打ちをした。悔しいからではない。ほかにすべき反応が分からなかったからだろう。
「信じれぇへん。寄席の色もんかいな」
「先輩、この装置って、一体……」
香田が呆気に取られて、指で額を叩いている。私と視線が合うと香田は目を逸らす。香田は表面を繕うことがまったくできない男だ。
「これは完璧な歩容解析なんです。歩容、つまり、歩き方は、人間一人一人、すべて固有です。指紋以上の精度で人物を正確に見分けますよ。信頼性にはもう何も問題のない実用段階。容疑者の顔が分からなくても、画面上で歩いてくれさえすれば、個人が特定でき……」
私はディスプレイに向かい、路上の防犯カメラが捉えた練馬一家五人殺害事件の容疑者の犯行当日の映像を呼び出した。現場から歩き去る犯人の後ろ姿を映像から切り抜いてシルエット化し、三次元的に回転する操作をやってみせた。切り抜いた人型をモデルにはめ込み、計算を実行させる。少し待つとアラームが鳴った。腕時計に目をやって口を開いた。
「いまかかった時間は四十七秒ですけれど、このカメラの一週間分の人間をすべて調べ終えましたよ。そのなかに、二十年前の練馬の事件、その防犯カメラの映像と同じ人物を一人だけ見つけ出したんです」
「凄いです」と笹本さんが感嘆の声を上げた。
「先輩っ」香田が吉岡さんに話しかける。「これ、見えませんね。眼鏡はないけれど、マスクで顔がよく分かりません。表情も判読が難しい」
私は三人を振り返り、説明を加えた。
「警察の方は、それから、鉄道会社の方も顔認識はよく使われていますよね?」
「ええ、弊社では、正当な切符を購入しない、いわゆるキセル乗車の摘発に使っております。とりあえずは新幹線の改札が主ですが」
笹本さんがいって、少し遅れて吉岡さんが頷いた。
「そのぉ、理屈なぞ分からへんが、とにかく顔似てる思う奴を、確かに機械が見つけ出すなぁ」
「ええ、顔認識それ自体は強力です。ですけれど、目頭に目尻、鼻筋や唇を隠されると使えなくなるんです」
わざと鼻の頭を撫でながら喋った。初対面のとき私を見て俯いてしまった笹本さんが、いまは熱心にこちらを見つめる。
「つまり、インフルエンザや花粉症が流行る季節にマスクをつけ、サングラスでもかけられたら、顔認識は無力ですよ。でも歩き方は違います。人間が人間である以上、歩けば必ず露見するんです。この歩容解析システムから特定の人間が逃れることは……」映像を早戻しして、縞模様のセーターの男を画面の中央で止めた。「絶対にできません」
事実、画面上で二、三歩歩いてくれたら、それだけで十分だった。よほど分析しにくい角度でなければ、人間が画面上で歩いてさえいれば、その個人を識別するだけの特徴を抽出できる。歩容解析システム「ラミダス」は、世の中の人間を歩き方だけで一対一に照合できるのだ。これまでは指紋やDNAゲノム情報が刑事訴訟でもっとも強いデータだった。ラミダスはそれに負けない。いや、積極的に同一人物であることを証明することにおいては、よくあるDNA情報よりも、強い。
加えて照合速度がとても速い。ラミダスはCPUとメモリ次第で、普通の精度の防犯カメラの素材なら、同時に百を超える動画ファイルをチェックしていくことができる。指紋照合を人力でやっていては鑑識の仕事が追いつかないことを吉岡さんに知らされてからは、照合時間の短縮にも気を配ってラミダスを開発した。
「けどなぁ、こりゃあその、カメラぁの写り方にもよるやろ?」
私は、ディスプレイにラミダスのフローチャートをふたつ提示した。
「はい。これまでの歩容解析は、真正面と真横の二面の動画がないと、誤判定、つまり間違える確率が非常に高かったんです。防犯カメラには都合よく正面と側面が映るわけではないので、歩容解析は実用的ではないと見なされてました。でもラミダス、つまりこのシステムは、第一に、任意の角度から撮られた人物の映像を、真正面や真横から撮ったのと同等になるまで三次元空間で回転する演算機能を備えています。そして第二に、ほぼ正面と横に計算し直した人間の歩き方を、膨大な数値情報に置き換え、不特定多数の歩行者のデータと照合します。このふたつの流れで、この星にいる人間すべてを同定できるんですよ」
三人が揃って宙を仰いだ。私は彼らを納得させるとっておきの手法を思いついていた。入力カラムに今度はFK29602と入力し、リターンキーを押す。警報音とともに夜の映像が再生された。甲州街道と平行に、駅の南口を右手に見渡す別のアングルだ。車のヘッドライトが眩い。コックピットから立ち上がると三人の様子を振り返る。
「ふわああああ」
椅子から転げ落ちそうになりながら、誰よりも早く香田が叫び声を上げた。上品な化粧で飾られた笹本さんが目を見開いた。吉岡さんがネクタイの結び目を捏ね回す。
“一致”の文字とともに、赤い矢印が大きな花束を抱えた男を映し出した。香田だった。
しかめっ面の吉岡さんが尋ねた。
「今度ぁ、何が起きたんや?」
小説
人探し
あらすじ
歩き方で個人を特定するシステム「ラミダス」を開発した能勢恵は、鉄道会社の協力を得て凶悪事件の犯人を探し出すことに成功する。警察もラミダスの威力に驚き信頼するが、能勢がラミダスを開発した「真の理由」は別にあった。いったいそれは、どういうことなのだろうか?
人探し(1/8)
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