二
アパート暮らしが続いている。電車で三十分の通勤を繰り返す。同僚の顔を見ずに過ごせるこのオフィスは心地よかった。ずっとスカートを穿いた記憶がない。いつもジーンズ。上は夏はTシャツ、冬は男物の大き目のセーター。化粧水とファンデーションは持っていても、この鼻に化粧しても意味はなかった。ボブといえば人並だけれど、大きなピンで止めて自分で鋏を入れるだけの髪は、鬱陶しくて邪魔物だった。女を放棄して暮らして、もう長かった。
鍵を開けてオフィスに入る。機器の精度を守るために、一年中二十二度の空調が効いている。昨日から玄関にガーデニアを活けた。冷たい白ではなくて、少しクリーム色が入った上品な花弁だ。でも、香りは昨日も今日も、私には存在しない。
コックピットからテレビ番組を点けた。金閣寺を扱うドキュメンタリーの再放送らしい。七十年前の焼失直後の映像が続き、京都の僧の消え入りそうな声が入る。
「寺ちゅう入れ物だけでのうて、形無い『念』も焼け落ちてもうた」
モノクロ映像が淡々と無常を訴えていく。きらびやかないまの金閣寺に話題が転換したところで、番組を換えた。
「旭川殺人闇サイト。平凡な主婦がなぜ!」
十六対九の枠の隅に、ワイプ画面と煽り文句が並ぶ。午前のワイドショーが中盤で扱っているのは、DV夫に殺意を抱いた妻が、ネットで殺人の実行犯を募って依頼し実際に殺害したという事件だ。
思わず見入る。お嬢様イメージの女子大を出た専業主婦が、結婚十年目に、見知らぬ二十三歳の男に夫を殴殺させた。
彼女がワゴン車に乗せられるときの映像をストップモーションにして、スタジオに画面が替わった。殺したくても実力行使では敵わない女が、現代のインフラを使って実行犯を雇った恐ろしい事件だと、ときどき見る大学の准教授が活き活きと話し立てる。隣に座った女性お笑いコンビの片割れが、止むに止まれぬ手段として金槌の代わりに男を買ったのだと、半ば彼女に同情するニュアンスを漏らす。犯罪心理を語るのは、元検察官を肩書にする初老の白髪男だ。テレビに慣れ、発言の効果的な抑揚を知っている面々が、視聴者の目と耳を意識して巧みにCM前の時間を埋めていく。
「闇サイトには容易に連絡が取れるのです。北海道も沖縄もない。表向きは同好会のようなものを装っていますが、情報を集めると、殺人や強盗のような凶悪行為に加担する仲間どうしを繋いでいることが分かる仕組みです。四つか五つのウェブサイトとSNSを探ると、金で凶悪犯罪を引き受ける人物と接触できる可能性があります。依頼殺人というと古くはロス疑惑がありますが、いまはごく普通の主婦や学生、高齢者、公務員などですね、本来は殺人事件の犯人になり得ない類型の人たちが、見知らぬ人の手を借りて殺人や傷害事件を起こすという実態があります。実際に殺す側は、行為に特化した計画性を備えた緻密な実行犯であることが多く、殺人を確実に完了するという側面が見えてきます」
白髪男の、落ち着いて自信に満ちた言葉が耳に届く。
「確実に完了する殺人……」
背もたれに体を預けて、目を閉じた。健康食品の生CMが入って我に返る。
住宅街の何気ない建物の一室に、一億二千万の国民から特定の容疑者を正確迅速にあぶりだすシステムが動き始めたことを知る者は、巷には一人もいない。
オフィスは西武池袋線の中村橋駅から歩いて十分ほどのところにあった。都心への通勤圏として典型的に過ぎる何の特徴もない街並みの、どこにでもある灰色の鉄骨三階建ての建物が私の仕事場だ。一階には工務店が入っていて、その二階が広告代理店「ステラMT」の第三企画課だ。課員は一名、私だけだ。組織上は「サンキ」と略されるこの部署が何をしているのか、社員たちは知らない。
ステラMTとはラテン語の略で夜明けの金星だ。元自治省官僚が作った企業で、初期は警察の広報仕事を受ける雑役企業の色合いが強かったけれど、いまでは警察に加え、メーカーや団体、大学・研究所のつまらない業界誌作りを請け負うなどしている。
ラミダスの実用化が見えてきたとき、これを使って何が何でも警察と結びつくことを私は狙った。私にとって警察は、警視庁でなければならなかった。同僚からはなぜ警察と関係をつくることに執着するのか怪訝に思われた。それでも会社は警察関連の仕事を任せてくれ、会社と警視庁との協力関係は徐々に築かれていった。
いまやこの六十平米のオフィスに、国民の歩容を正確に見分け得る頭脳のすべてがあった。ラミダスの主要部分はソフトウエアだから、物理的形状は存在しない。ただしそれが載り、機能しているハードウエアは、ダークグレーの大きなスーツケースほどの箱にすっぽりと収まって、部屋の片隅に鎮座している。
ステラMT相手に警視庁が用意したのは、捜査支援分析センター・第二捜査支援・情報分析第二係という耳慣れない部署だった。そこに所属しているのが、吉岡さんと香田だ。
捜査支援分析センターは、犯罪に社会的なテクノロジーが関与する現代において、仕事が増える一方だ。プロファイリング構築やビッグデータ解析など、捜査は刑事の個人技と勘で進めるばかりの時代ではなくなり、デジタルによる網羅的な犯罪解析を武器にすべき局面を迎えている。マイナンバー、パスポート、免許証、DNA、指紋、掌静脈、クレジットカード、銀行口座、ネット契約……。警察が独占できそうな個人情報は、行政に生体に経済に、世の中に溢れている。それを密かに掌握する最前線が捜査支援分析センターだ。
デスクに置いた資料に目を落とした。表紙に大書きされている「ラミダス(仮称)の運用計画について」というタイトルの左には、夜明けの金星をイメージした会社のロゴが躍り、太字で「取り扱い注意。機密水準2」とある。
――機密保持なんてどうでもいいことよ、私にはね。
書類をぽんと拳で叩くと、成し遂げるべきプランに取り掛かった。それを始めるのは、昨日でもよければ明日でもよかった。一週間前でも二か月後でも構わなかった。ラミダスを手にした自分がこのことに手を染めれば、いつ行動を起こしても未来は同じはずだ。あえていえば、たまたまこの日、干からびた蚯蚓のように変形した赤黒い鼻の奥が、何かの拍子に疼いたからかもしれない。
――そうね、理由はそれだけよ。
電話を手にする。相手は香田だった。彼が電話を取ると一気に切り出した。
「香田さん、未解決事件の容疑者の歩容を片っ端からデジタル動画に変換し、常時ラミダスで監視してはどんなものですかね? 迷宮入りしかけている事件の犯人、いえ容疑者の動画ってないでしょうか? それをラミダスと笹本さんの会社の防犯カメラに結びつければ、事件が解決できるかと思うんですよ」
彼は即座に応じた。
「僕はとても魅力的に感じるんです、ラミダス。ただ、先輩はやっぱり最新のテクノロジーとは仲良くできないみたいですね」
「刑事の勘っていうこだわりとは別に、気軽にラミダスを使いに来てくれたらよいのですけれど」
「話してみましょう。いきなり大規模には無理でも」
「そうですね、重要な迷宮入り系の事件だったら、吉岡さんも乗り気になりますか?」
「はい、それなら警察全体としてもアピールポイントになります。アカウンタビリティの点からも、市民の皆さんからの理解を得やすいでしょう」
香田はやはり若い。話を誘導すれば、なびく。そして嘘がつけない。香田を切り口に吉岡さんを説得していけば、重要未解決事件の容疑者のデータはいずれラミダスに投入できるだろう。
「府中の三億円に、かいじん21面相。そのくらい古いと、現場の動画はないですかね?」と、息抜きの話題を出したつもりだったけれど、香田は真っすぐに答えた。
「偽白バイやキツネ目の男に動画は存在しないですよ。それに能勢さん、その辺は時効ですね」
警察全体が勝ち取る正義というストーリーが、純粋な彼には魅力的に映ることが分かった。「頑張ってみます」という一言を引き出してとりあえず終わることにした。