五
勧められて能勢という苗字になった。私を過去から切り離すことを大人たちは期待するのだろう。ほかの誰とも噛み合わない自分だけの壁を自分で作った。その壁は鉱物の硬い結晶のように、いつまでも私を包んだ。自分だけの時間と空間を心の奥に携えて、独りを生きた。
養護施設から小学校に通うことになった。施設の職員を家族と思ってほしいなどという大人の筋書きには付き合えなかった。それはまるで、演劇や舞台に面白さを感じていない子供を無理やり教育者推薦の品行方正な劇に連れていくような、よくある作られた疑似正義感剥き出しで、吐き気を呼び起こすものだった。
あえていえば、机に向かって知識を蓄えることだけが、自分を安らかにする時間だった。高校に上がるときには、施設の先輩の大学受験の参考書を隅から隅まで暗記していた。論理学、システム工学、統計学、機械工学、解剖学、考古学、英文学から西洋哲学まで、インターネットと本屋での立ち読みで片っ端から理屈を学び、脳に突っ込んだ。様子を見た高校の教師が大学へ行く意志はないのかと尋ねてきたけれど、学歴に関心はさらさらなかった。他人より理屈が多ければそれでよかった。そうこうするうちにコンピューターを操ることが快感になっていった。コンピューターは大人たちより素直だった。
あまり覚えていないけれど、警察には何度も質問を受けた。施設に入る前に少しの間引き取られた、会ったこともなかった叔母の家に刑事が二人組で通ってきては尋ねた。コウタの顔、身長、母との関係、母を刺すところは見ていたのか、コウタのことを母がどのくらい思い詰めていたのか、倒れた母はもう息をしていなかったのか、コウタは嘘の名前だろうからほかの名前を知らないのか。
何度来ても同じことしかいえなかった。私の記憶が、自分を襲った人間の形を思い出すことを拒絶していた。それでもしつこく尋ねられたのは、刃物だった。コウタが母を刺した包丁と思しき凶器は、結局発見されなかった。刃物は誰が部屋に持ってきたのかを考えるのが警察官のもっとも重要な仕事であることに、間もなく気づいた。
――この人たちの関心は、私の埋められない心とは無関係なんだ。
そう知ると、警察署とか刑事とか、犯人捜しに関わるものすべてを遠ざけるようになった。
私にも、なぜ母が刺されたのかは分からなかった。でも、年齢とともに、男女のいさかいがときに殺人につながることが認識できるようになった。自分と母に起こったことを、人間の普遍的な「業」として受け入れるようになっていった。
それでもただひとつ。昨日も今日もいつの瞬間も、離れることのないおぞましい感覚に私は苛まれている。
あの臭いだ。
刑事にしつこく尋問された中身には、いつも、コウタが私にした行為の具体的内容があった。それを訊かれるたびに、私の体のすべてがまたあの臭いに犯されるのだ。
――男が吐き出したあの臭いを、壊さなければ。
ひとたびそう確信すると、嬲られる私の体も息絶えていく母の体も、ことさら特別なものでもなくなった。あの臭いさえ消し去れば、自分に起きたことはどこにでもある汚辱や死滅のひとつでしかないのだ。子供が性の獣に蹂躙されることに何の不思議があろう。体を売ってその日を暮らす女の体が切り刻まれて何が奇妙だ。そんなものは、社会の隅で生きている体と心に時折もたらされる、偶然で一過性の出来事でしかないのだ。
コウタという形ある小汚い加害者を恨む次元に、私はもう立っていなかった。憎悪と苦悶と怨念の向かう果ては、ただ一点に集束した。
――あの臭いさえ、消して失くせば……。
そう思念するようになった。
事件は一時期、『江戸川区売春婦殺し』と名付けられて大きく報じられたらしい。幼女趣味の変質者の犯行として注目を集めたとか。だがやがて、朝のワイドショーでも三流週刊誌でも、面白おかしく騒いで飽きがくると、幕を下ろしたように誰も話題にしなくなったようだ。
胸が膨らんできたのも、突然の経血も、何が起こったかを教えてくれたのは、施設で同級の女の子か近所のおばあちゃんだった。施設からのお小遣いで買える可愛い髪止めやキャミソールやリップクリームやちょっといい生理用品のことは、三年上の女の子から情報を仕入れた。いつの間にか、子供と大人の狭間の時間が過ぎ去っていった。
ただ、地獄の底へ私を引きずるあの臭いだけは、何をしても消し去ることができなかった。
そして十六歳の誕生日。跡形もなく潰すことに決めた、体を蝕む病の巣を。
高校の体育館の外壁は灰白色の冷たいコンクリートだった。その何の凹凸もない平面が私を吸い寄せていく。手には理科準備室にあった水酸化ナトリウム液のガラス瓶を握りしめていた。苦悩もなく恐怖もなく痛覚もなく、絶望さえもなかった。ガラス瓶の中身を鼻腔に思い切り流し込むと、コンクリートに自分の鼻を打ち付けた。
あらゆる物が白黒に見えていたのに、コンクリートを流れる自分の血は美し過ぎた。その滴が飛び散るたびに、私は快感に酔いしれた。劇薬が嗅覚を殺していく。あの臭いに追われるおぞましい自分の体を、これで破壊することができる。
私は何度も何度も何度も、鼻を打ち付けた。
痛みも苦しみも恐れも存在しない自分。その自分が鼻を滅却していく。
――これで勝てる、あの臭いに。
でも、それは幻想に過ぎなかった。鼻を粉々に粉砕したところで、臭いの刻印は永続し、時間とともに強くなっていくばかりだったからだ。
傷が治癒しても、どす黒くひしゃげた鼻は、同級生や教師からの目線を奪っていった。施設でも、親代わりを自称する大人や、兄弟姉妹と思うように躾けられた子供たちにまで、私の鼻は無言の嫌悪と憐憫と恐怖を呼び起こした。私の顔を直視する者は誰もいなくなった。私に残ったのは、潰れた鼻と、あの臭いだけだった。
「男が私の体をどう貪り、どう弄び、どう傷つけたか。男の刃物が私の服をどう切り裂き、肌のどこに突き付けられ、男の指が局部をどのようにいじり回し、男の精液が体のどこにかかり、それはどのくらい生温かく、どのような粘性で顔や胸や下腹や大腿を流れ落ちたのかを知りたいのですよね?」
高校三年のときに施設までやってきた長期未解決事件専従捜査班という舌を噛みそうな肩書の警察官二人に、そんな言葉を投げつけた。
「あなたたちが男を見つけ出して死刑にしても、私の苦悩はまだこの二、三センチ周辺をうろちょろしているだけなんですよ」
そういって鼻を指差すと、二人は慄いた。私は獲物を監禁した快楽殺人鬼のように二人を見下ろして、途轍もなく明るく笑った。
六
初夏の日差しが照りつけてくる。束ねた指で汗を散らしながら弁当をぶら下げて戻ってくると、大きなリュックサックを背負った香田が立っていた。
「あっ、ごめんなさい、来てたの」
「いや、予告しないで訪問してしまってすみません」と、恐縮する香田だった。「僕、目つき悪いかな。下の工務店の人にじろじろ見られました」
笑いながら二人でオフィスに入る。マスクを外すように促すと、「ああ、いい香りですね」と香田が玄関のラベンダーを指差した。花の薄紫色が気に入って買った。花瓶に飾っても、私に香りはない。
香田がリュックサックから黒い小箱を十個ほど出してきた。
「見繕ってきました。大どころの未解決のヤマの、現場近くの映像をまとめて入れてあります。能勢さんが仕事できるようにすぐつくれと先輩がいうもんですから、ファイルの順序は厳密ではないのですが」
ハードディスクだった。香田に謝意を示すと、彼はラミダスを使って、あの事件でもこの事件でも犯人を捕まえたいのだと、笑顔で熱意を語った。私は相槌を打ちながら、香田がオフィスを出るのを待った。彼を見送るとすぐさまハードディスクを片っ端からケーブルで繋ぎ、開いた。フォルダ名が大雑把な事件内容になっていた。
四個めのハードディスクだ。東久留米市ファミコンショップ、江東区マンション女性、西日暮里中学校前路上、北砂質店夫婦、葛飾区女子大生、都立辰巳公園内男性、町屋駐車場外国人、竪川第一公園内、中央区チケットショップ、六本木ビルアメリカ人経営者、八王子市たばこ店母子、上野公園ボート池男性、江戸川区アパート女性、南砂駐車場……。
江戸川区アパート女性という字が目に止まる。フォルダを開き、上から順番にファイルを再生する。
六つめに開いたファイルだった。データ画面を見る。ファイル名「069‐081C」、タイムコード「1999年1月21日18時35分から」、そしてカメラ番号「総武線小岩駅中央口改札02」と表示される。
「これだっ」
思わず叫んでいた。日時は事件当日夕刻のもの。小岩は我が家から十五分の最寄り駅だった。
「あの日よ」
昭和の空気感さえ漂う、東京下町の冴えない駅構内が映し出される。改札の様子を見るだけで、あの日が蘇生する。映像は目の前にいる人間の心の揺らぎを何ら慮ることなく、二十二年前の空気を四角く切り取っていく。
私が証言した犯行時刻付近から始まり終電までのおよそ六時間分だった。画面を凝視する。カメラは、自動改札機を平行に見るアングルで設置されたものだ。左手奥に、町ゆかりの大相撲の横綱、栃錦の銅像が見える。右手真下で人の流れがよどむのは、カメラの手前に当時キヨスクがあったからだろう。
映像は時間を往来し、その日その街で何事も起こらなかったかのように改札口を再現し続ける。近くに勤める会社員らしき人波が列を作って自動改札を通過する。男も女もみなコートをかっちりと身に着けている。堅い職業に就く人たちであることは身なりからすぐ分かる。私を襲ったとき、コウタは返り血にまみれていた。でも真冬をよいことに、きっとコートを羽織って血痕を隠しているだろう。だとすれば、この映像でも発見は難しい。私は画面を見つめ続けた。一時間が経過した。この探し方では何も見つかりそうもないと無念さが漂った。
と、そのとき、ぼうっと落ち込んだ自分の目が、人の波の間から銅像の前を斜めに過ぎるひとつの人影を見出した。何の根拠もなかった。ただ、整然と改札付近を歩く真っ当な通勤者たちと違って、その男の足運びには粗暴で投げやりな空気が醸し出されていたのだ。
カメラに近づき、男は次第に大きくなっていく。けれども、礼儀正しく整列して改札に出入りする行列に隠れて、顔は見えない。ただ、上下する両肩がときどき覗く。
あと六人、五人、四人……。四台の自動改札機に仕分けられて、一人ずつ男の前を塞いでいた人間が剥ぎ取られていく。三人、二人……。
前を歩く最後の一人はソバージュの女性だった。彼女が磁気式定期券を改札機に挿入しようと上半身を傾けた瞬間、一時停止ボタンを押した。彼女の髪のウェーブの間から、男の左胸が、肩が、そして顔が覗いた。ぼやけた映像からは、男の顔はよく見えない。
手作業で、一コマずつ映像を進めていく。
「あっ」
息を呑んだ。
男が磁気カードを胸ポケットから取り出す瞬間、胸元にきらりと光るものが見えた。映像を拡大した。それは、蜘蛛の形をした銀の首飾りだった。