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 私は天井の隅に設置されているカメラを指差した。
「ごめんなさい。先ほどこの部屋に入ってきたときの香田さんの映像を使ったんです。それと、練馬の犯人を見つけたのと同じ日の新宿南口前の一日分の映像から、合致する人物を抽出した結果が、これですよ」
「ああっと、参ったなあ。いや、この晩、彼女に花を買って渡そうと思ったもんですから」
 香田が頭をく。
「もっと見ましょうね」と、キーをいくつか入力すると、画面上に一覧表が現れた。
 新宿駅:南口改札、15番ホーム、日暮里駅:10番ホーム、北コンコース、4番ホーム、松戸駅:1番ホーム、中央改札、東口、というデータが並び、その下の階層にカメラ番号の一覧が連なる。自動で画面がスクロールし、計21台という文字が浮かんだ。
「香田さん、新宿から松戸への乗り換えは日暮里ですね。これが、この日の十八時から二十二時までの間に、首都圏の駅構内のカメラ二十一台が捉えた香田さんの足取りなんです。この後どこへ向かったかはあえて捜査しませんけれども」
 ちょっとした沈黙だった。吉岡さんが大口で笑った。
「お前の女さぁ、いつ、松戸の子になったんや? ちょい前まで、下北の子やったのになぁ」
「いや、それはその……、何か月か前の話で」
 マスクをさらに手で覆って笑いをこらえる笹本さんが、救いのジョークを挿んだ。
「下北沢駅は弊社の管内ではありませんから、香田さんがこの晩、松戸から下北沢に移動されましても、動かぬ証拠は手に入りません」
 コックピットの周囲に、笑いと嘆息が入り混じる。吉岡さんが尋ねた。
「これ、いま探したん? この機械が」
 私は笑って頷いた。
「……こりゃぁ、俺らの商い、上がったりや」
 近い将来を考えると、事件が起きたときに犯人の歩きが映っていれば、それをラミダスに取り込んで解析するようになる。データを日本、いや世界中の防犯カメラのリアルタイムの映像と結び、その人物がどこにいるか、正確にいえばどこで歩いたかを、素早く見つけ出すことができる。頭頂部の髪がすっかり寂しくなっている吉岡さんには、足取りの追い方にも長年培ってきた熟練の技があるに違いなかった。しかし、コンピューターが見せるそれは異次元の速さだった。
 呼吸を整えて一気に喋ることにした。
「ここで必要なのは、私のラミダスと、鉄道会社と、警察なんですよ」
 猿人のフィギュアと笹本さんと吉岡さんに、順番に視線を送る。
「今日の検証は、練馬の事件の公開済み動画のコピーを使い、笹本さんから過去三か月分の新宿駅のデータを借りたところで、運よく犯人が見つかったんです。犯人が新宿を通過してくれたのは単に幸運ですよ。先程これが見つかった当日の首都圏全域のデータを笹本さんから頂いたので、犯人がどこで降りたかをいま解析中です。試しに入力した香田さんが、先に松戸で見つかってしまいましたが」
 香田が苦笑した。
「もしこれが進むと、一種の監視社会にもなるので、是非の議論に時間がかかるでしょう」と笹本さんが冷静に発言した。「二十年ちょっと前のことです。ある商店街が防犯カメラを路上に付けたことがありました。そのとき、商店会の会長や大きなスーパーの店長が出てきて、これが警察と結びついたら大変なことになる、カメラを設置しても、私たちが警察に協力することは一切ありませんといって、それが夕方のニュースになりました。ですが、時代は変わりつつあるのでしょうか?」
 私は肯定も否定もしなかった。「事情に詳しいですね」というと、笹本さんはいいえと遠慮がちに首を振った。香田が鼻息を荒くして喋る。
「僕たちの正義が実現に向けて求められる時代です。人権は大切だけど、安全の達成されない社会なんてない。僕は犯罪ゼロの町を夢に見ます」
 目を輝かして画面を注視する香田には、臆する相手がいないかのようだ。ただひたすらに、教科書にありそうな警察官の職責に突き進んでいる。
「まあ、そりゃあ、お前の理想やな」と吉岡さんがやんわりと止めた。
「これは私どもの考えですが、鉄道事業者の中に警察国家を作ることに賛同する会社はまずありません。企業が求めるのは、利用者さんがあの会社なら安心して電車に乗れると思ってくれることだけなのです。それを思って、今回、ご協力差し上げました」
 笹本さんは自らの会社の立ち位置と、社会のあるべき姿を整合させようと懸命だ。彼女のように穏健な優しい知性の持ち主は必ずしも多くない。
 この歩容解析のシステムが完成したとき、「ラミダス」と名付けた。ずいぶん前に日本人の人類学者が、初めて直立二足歩行した最古の人類の化石を東アフリカで見つけた。化石は四百四十万年前のものと断定され、それに付けられた名がラミダス猿人だった。
「このぉ、ラミダスってぇやつは、ホシが普段とちゃう歩きぃやったら、どうなるんやろ?」と吉岡さんが問う。
「歩行走行スピードによって、データは当然異なりますね。分かりやすくいえば、吉岡さんが普通に歩いているときと、百メートル競走をしているときでは違います。でも」私は画面を指差した。「ラミダスなら、多数の関節の動きを総合するので、スピードの違いにはかなりの程度まで対応できます。つまりラミダスは、歩いている映像でも走っている映像でも個人を特定することができます」
 香田が口を半開きにして唖然としている。
「苦手なのは不規則運動をしたときです。匍匐ほふく前進、四つん這い、スキップ、バク転……」
 吉岡さんが大笑いした。
「人刺してからスキップで逃げるホシはおらんやろ。そのぉ宝塚の芝居でもな、そんな奴ぁおらん」
 香田がつづける。
「顔認識は双子を区別できませんでした。そのあたりは……」
「一卵性双子をまったく問題なく識別します。顔は似ていても歩き方や走り方は遺伝では決まらず、後天的なものですから」
「昔のあのなぁ、マラソン選手、双子の。顔そっくりの。テレビぃで兄弟の区別がつかんかった」
「吉岡さん、そう兄弟ですよね?」
 スポーツ科学の動画データベースから、一九七九年の福岡国際マラソンの序盤のシーンを再生する。システムの試運転に何度か使った素材だ。宗兄弟の走る姿を切り出し、二人の照合を試みた。画面に即座に“不一致”の文字が浮かぶ。
「ラミダスの入力パラメターを組み合わせると、この二人をまったく別人と認識します。まあ、当時もマラソンマニアの目は確かで、足よりも腕の振りで二人を区別したのだと聞きますけれども」
 三人とも納得せざるを得ないという表情だった。
「で、ちなみになのですが……」笹本さんが遠慮がちに尋ねてきた。「御社で、このラミダスを動かせるのは、能勢のせさんだけですか?」
 私はゆっくりと応じた。
「ラミダスは、私一人で生んだシステムなんです。いまのところ私にしか動かせません。でも警察の捜査には、ぜひ使用して頂きたいんです」
 笹本さんが何かを考え込むかのように私を見つめた……。

 それから二か月後のことだ。コックピットからネットニュースを覗いた私は、ひとつの見出しに吸い寄せられた。
「練馬一家五人強盗殺人、容疑者逮捕。ベテラン刑事の執念実る。地道な足取り捜査。逃走時の写真と『似てる』」
 詳細を呼び出した。
「……容疑者は工藤くどうさとる。四十三歳。広島県福山市生まれ。事件当時は埼玉県に住む会社員だった。平成十一年五月十二日。現金を奪おうと民家に侵入して気づかれ、五人を殺害……二十年の飽くなき追跡がついに容疑者を追い詰めた……」
 記事からすべてを理解した。あの青とグレーの縞の男が工藤悟であることを。そして、鉄道会社の防犯カメラの関与には触れず、ラミダスの歩容解析はマスコミには知られていない。
 誰もいないコックピットで呟いた。
「ラミダス、これはあなたの最初の手柄よ。でも」大きなディスプレイの隅を人差し指で撫でた。「本当の仕事はこれから、ね」