序
国道沿いをしばらく進んだ後、交差点を左に折れた。手押し車を押すばあちゃんは、迷っている様子がなく、地理はちゃんと覚えているようだった。
ホームセンターの少し手前で、左側にあるマンション駐車場から出ようとする白いバンと出くわした。バンは、歩道に注意を払わないで道路に出ようとしたようで、前を歩いていたばあちゃんにぶつかりそうになり、光一は「あっ」と声を漏らした。
次の瞬間それが「えっ?」に変わった。
白いバンは、急ブレーキをかけて、スリップ音と共に、すんでのところで停止した。
車体が一瞬沈んでから揺れるのが判った。運転席にいる若い男もつんのめり、シートベルトによって引き戻されていた。
ところが、ばあちゃんは、左手でバンを制するような姿勢を取りながら、いつの間にか二歩ほど後退して、光一とぶつかりそうなぐらい目の前に立っていた。手押し車は……バンの前を通り過ぎた先に倒れている。
何があった?
一
イヤホンからは、タイトルは忘れたが、レニー・クラヴィッツの曲が流れていた。駅ホームのベンチに座っていた真崎光一が、足で軽くリズムを取りながら聴いていると、一人分置いて右隣に座っていた母ちゃんが、何か言ったようだった。
「へ?」光一はイヤホンを外して問い返した。
「ほら、貧乏揺すり」
母ちゃんは険しい顔で、あごで光一のひざをさした。
違うっての。しかし光一は面倒臭いのでいちいち言い返さず、スマホで時間を確認してから、ジャージのポケットにしまった。午後二時十分。あと二分で、ばあちゃんが乗っている特急が到着する。
ホーム内に人はまばらだった。天気がいいせいか、こうしてベンチに座っていると、妙なけだるさを感じる。ゴールデンウィークの後の脱力感も関係しているのかもしれない。
といっても、受験浪人の光一にとっての今年のゴールデンウィークは、だらだらと自室で問題集を解いているふりをしつつ、ノートパソコンでアダルトサイトを見たり、女子プロレスラー宮浦めぐみのブログに応援コメントを書き込んだり、ネットで彼女の画像や動画を探してコピーしたりという、元からけだるい日々だった。
母ちゃんが何か言いたそうな顔で見ている。低い鼻に分厚い唇。少し離れた両目。きっと前世は半魚人だな。
「何だよ」
「ジャージなんかで。もうちょっと、ましな格好、できたでしょうに」
半魚人は嫌味ったらしく口の片方の端を歪めた。
光一はシルバーグレー系ジャージの上下に、黒いスニーカーという格好だった。ジャージもスニーカーも特売品で、もう二年近く前から使っているが、一応は有名スポーツメーカーのものだ。
「別にいいだろ。ばあちゃんが階段降りるときとか、手助けしなきゃなんないかもしれねえんだから、身軽な格好の方がいいじゃんか」
光一は母ちゃんの姿を見やった。趣味の悪い柄がら物もののサマーセーターに、はき古したジーンズ。脚が短いから、ジーンズの裾を折り返してる。おまけに、ジーンズなのにウエスト部分はゴム入りのやつだ。そういう服着てる奴が言うなっての。
最近、母ちゃんの言葉には苛立ちが混じるようになった。中三の妹、光来が反抗的になってストレスが溜まっているせいだろう。光来は、中二の秋ぐらいから眉毛を剃ったり化粧をしたりするようになり、つき合う友達の種類も変わってきた。それをとがめる母ちゃんに対して光来は最初のうち、派手な口喧嘩で応じていたが、やがて「うっせー」「黙れ」「死ね」みたいな短い返事になり、最近ではそれが無視という対話拒絶モードになった。夕食よりも帰宅が遅いのが今では当たり前で、週末には友達のところに外泊したりもしている。温厚だが口下手で気が弱いところがある父ちゃんは、「まあ、もう少し様子を見とけばどうだ」みたいな、あまりかかわりたくないという態度を続けており、そのこともさらに母ちゃんを苛つかせているようだ。
間もなく到着することになっているはずの特急が二十分ほど遅れることを知らせるアナウンスが流れた。遅れる理由は言わなかった。
母ちゃんは「えーっ、何でー」と顔をしかめて、溜息をついた。「三時までに店に戻るって言ってあるんだけど、大丈夫かなあ」
母ちゃんは、大吉という名前の小さな総菜店でパート仕事をしている。オーナー兼店長の馬場下さんというおばさんは、光一が小学校低学年のときに同級生だった馬場下君の母ちゃんで、母ちゃんとはいわゆるママ友同士なのだが、光一と馬場下君とはその後ずっと疎遠だった。馬場下君がそこそこいい私立大学の工学部か何かに受かったという話を聞いた覚えがあるが、どうでもいいので詳しいことは忘れた。
光一は、わざと嫌味を込めて「なに。今日は店、忙しいの?」と聞いた。
「そういうわけじゃないけど、馬場下さん、予定が狂うと機嫌が悪くなる人だから」
四月の中旬頃、母ちゃんが出勤する父ちゃんを玄関で見送るときに、こんなことを言っていた。
──大吉の経営状態が悪いから馬場下さんはもう店をたたむかもしれない、そうなったらまた別のパートを探さないといけないけど、すぐにいいのが見つからないかもしれないし、家計がますます厳しくなるから、光一にはやっぱり国公立大学を目指すよう、はっきりと言っておいた方がいいんじゃないかしら。
光一はそれをトイレの中で聞いた。もちろん、たまたまだ。そのため、トイレから出るに出られなくなり、しばらく時間を潰して、母ちゃんが洗濯物を干しに外に出るのを待って、足音を忍ばせて階段を上がったのだった。
以来、その話が母ちゃんの口からいつ出るかと身構えていたのだが、今のところ言われていない。理由は、伯父の栄一郎さんが急死して、その栄一郎さんと同居していたばあちゃんをうちが引き取ることになったことと大きく関係しているのだろうと思っている。
ばあちゃんはもう八十五ぐらいで、不謹慎な表現ではあるが、そう長くはない。行く当てのない老女を引き取ってあげるんだから、家計の苦しさをそれとなく伝えたら、孫の学費を援助してくれるぐらいのことは、あってもいいはず──そんなところだろう。
もっとも、ばあちゃんがどれぐらいの財産を持っているか、光一は全く知らないのだが。
ばあちゃんとは、数えるほどしか会ったことがない。何度かうちに泊まりに来たことはあるが、それも光一が中二ぐらいまでの話で、最後に直接会ったのはつい先日、家族みんなでゴールデンウィーク直前に、在来線と新幹線を乗り継いで栄一郎さんの葬儀に出向いたときだった。そのときばあちゃんは、喪主としていろいろやることがあったようで、あまり話をする機会がなかったのだが、背中もしゃんとしていて、耳も遠くないようで、少なくとも見た目は元気そうだった。
「ねえ。栄一郎さんと父ちゃんって、年がかなり離れてるんでしょ」
そう聞いてみると、母ちゃんは「確か、十一違ってたんじゃないかしら。だから、あまり遊んでもらった覚えがないって言ってたよ、お父さん。でも兄弟仲はよかったはずよ。年が離れてる分、小遣いもらったり、勉強教えてもらったりしてたって」と答えた。
栄一郎さんの死因は溺死だった。自宅近くの水路に幼児が沈んでいるのを見つけて、助けようとして溺れたのだという。栄一郎さんは若い頃にバイク事故を起こして、右腕が少ししか上がらず、どちら側か忘れたが片足も引きずるようにしていた。あまり深くない水路で溺れたのは、そういう事情もあった。
そして栄一郎さんの死は、人命救助にはつながらなかった。沈んでいたのは本物の幼児ではなくて、子供のマネキンだったからだ。その後、近所に住む中学生の悪ガキ二人が、潰れた洋品店の車庫に放置されてあったマネキンを水路に放り込んだことが判明したのだが、もちろん栄一郎さんが死亡したこととの因果関係を問うことはできない。また、ネットで調べてみたところ、この騒動は地元では笑い話みたいな感じで語られているようであり、そのせいか、近親者とご近所の人たちだけによる葬儀は、あまり沈痛な雰囲気ではなく、そのうちに誰かが噴き出すんじゃないかという倒錯した緊張感があった。
そのとき光一は気づいた。栄一郎さんは若い頃に離婚しており、子供もおらず、ずっと独り身だった。ということは、遺産相続ってやつがあったはずだ。
「栄一郎さんの遺産って、ばあちゃんが相続したわけ?」
「そうよ」
「どれぐらい?」
「そんなこと、あんたが気にしなくてもいいの」母ちゃんは露骨に顔をしかめて片手を振ってから、「おばあちゃんに余計なこと聞いたりしないでよ」と釘を刺した。
ははあ、そこそこの相続があったわけだ。光一は、そのせいで、聞きにくかったことを口にしてみる気になった。
「俺さ、来年は一応、国公立に受かるつもりで勉強するけどさ」
「当たり前でしょう」
「もし失敗したとき、私立の大学って行けるのかな」
「あんたね、最初からそういうこと言ってたら、勉強に身が入らなくなってまた失敗することになるでしょうが。何が何でも国公立だって気持ちでやらないと駄目でしょ」
「判ってるって」
目の前を同年代ぐらいの若い女の子二人が通り過ぎたので、光一は「うっせえな」という続きの言葉を飲み込んだ。
しばらくしてから母ちゃんが「遺産なんて、ほとんどなかったわよ」と言った。
「何で」
「栄一郎さん、耕耘機とか作る会社で働いてたでしょ」
「知らないって、そんなの」
「二年前に退職して、元同僚の人たちと一緒に地元のお米を直販する会社を立ち上げたんだけど、軌道に乗らないまま潰れちゃってね、退職金とか自宅とか、ほとんど借金の返済で消えちゃったんだって」
「まじかー」
「あんたまさか、おばあちゃんのおカネで私立の大学に行けるなんて虫のいいことを思ってたんじゃないでしょうね」
「思ってないって。何言ってんだよ」
実は思っていた。
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