「どうしたの、ぼくちゃん、そんなに汗だくで」

 庭で水撒きをしていた伯母が、私を見つけるなり目を丸くした。

「なにかあった?」

「……かけっこの練習してただけ」

 その時の私は、なんとなく本当のことを言えなかった。このドキドキは自分だけのもので、誰かに話すと薄れてしまう気さえしていた。

「そう。ならいいけど……そうだ。夕飯前にお風呂入っちゃってね」

 伯母に促されるまま、私は風呂場に向かった。浴槽には木の香りが漂っている。その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、母の言いつけを守り、百秒をゆっくり数えた。

 風呂から上がると、玄関の方から伯母の話し声が聞こえた。

 誰と話しているのだろう。そう思った瞬間、すぐに気づいた。

 伯父が帰ってきたのだ。

 玄関の上がり框に腰を掛け、革靴を脱いでいる伯父に、私はそっと近寄った。

「やあ、ぼくちゃん、大きくなったね」

 汗で濡れた髪をかきあげて、伯父がにこりと笑いかけてくる。

 伯父がこの町に家を構えたのは、私が小学校に上がったばかりの頃だったと記憶している。郵政省の本省勤務だった伯父が、神奈川に家を買ったのは、横須賀リサーチパークへの出向がすでに決まっていたからだろう。今朝、父が「リサーチパークが開業したから、お義兄さんはようやく通勤が楽になるなぁ」と話していたことを思い出した。

 しかし、私は「りさーちぱーく」という響きにばかり心を奪われ、伯父の人生の転機には無頓着だった。窓の外に広がる緑や点在する家々をぼんやり眺めながら、その言葉を口の中で何度も繰り返していた。「りさーちぱーく」がどんな施設なのか、伯父がそこで作っているという「わいやれすねっとわーく」が何の役に立つものなのか。そのころの私にはまったく想像がつかなかったし、興味を持つ気にもなれなかった。頭に残ったのは「りさーちぱーく」という響きの面白さと、車窓から見えた景色だけだった。

「どうだい、この町は。緑と青、あとは茶色ばかりだろう」

 首筋の汗を拭いながら、愉快そうに笑う伯父を前に、私は曖昧に首をかしげた。

「もしかしたら、退屈な夏休みになるかもしれない。でも、忘れられないひと夏になるかもしれない。いろいろ考えて毎日を過ごすといい」

「夏休みなのに、考えるの?」

「ああ、そうだよ。なにせ、人間は考えるあしだからね」

「あし?」

 知らない言葉に、思わず眉間にしわが寄る。

「そう、葦。細長くて背の高い草。今日もたくさん見たんじゃないかな」

 ああ、海岸線で見たあれが葦という植物なのか。頼りなさそうに揺れる草に、頭の中で名前のラベルを貼る。そして、抱えていたスケッチブックを開き、さっとその姿を描き写した。

「ほお、すごいな」

「だって、一度、見たから」

「見たからって描けるものじゃないよ。聞いてたとおり、絵が巧いだけじゃなくて、記憶力もいいんだね。いやはや、まいった」

 絵の巧さや記憶力を褒められることはこれまでも何度かあった。でも、そんなときはいつも気恥ずかしさが先に立つ。今回も同じだった。照れ隠しのように、私は少しうつむきながら口を開いた。

「ねえ、伯父さん。なんで、人間は葦なの?」

「これも聞いてた通りの好奇心だ。なぜなに坊やのあだ名は伊達じゃないね」

 伯父はひとしきり楽しそうに笑うと、なにか思いついたような表情を浮かべ、私の顔の前で人差し指をぴんと立てた。

「では、知りたがりのぼくちゃんに、おじさんからひとつ宿題を出そう。なんで人間は考える葦なのか。この夏、それを考えてごらん。葦は夏によく育つんだ。だから、ぼくちゃんもこの夏、ひとつ大きくなって──……」

「あなた、いきなり難しい話しないの。それよりお風呂入ってきちゃってよ。夕飯、そろそろできるんだから」

 伯母がさっと割って入ってくる。

「いや、ごめんごめん──さて、じゃあぼくはお風呂に入ってくるよ。汗もかいたしね」

 伯父は肩をすくめると靴を脱ぎ、上がり框に上がった。

 浴室に向けて去っていくその背を目で追っていると、伯母が私に耳打ちをした。

「話半分で聞いたげて。いつもパソコンばっか見てるから人に飢えてるのよ、あの人」

「飢えてるとは言い草だなぁ」

「戻ってこないで、入ってきなさい」

「はいはい。いいかいぼくちゃん、ヒントが欲しければ、文ちゃんに──伯母さんに聞いてね。彼女、国語の先生だから」

 伯父が去ると、玄関は急に沈黙に包まれた。私はその沈黙に耐えきれず、会話の残滓を掬うように、恐る恐る口を開いた。

「……先生、なの?」

「そう。でも、いまはお休みしているの」

「……夏休みだから?」

「そんないいものじゃないわ」

 伯母は少し疲れたように笑った。

「まったく、お父さんはいつもぽんっと渡すだけだから卑怯よね。言葉も、物も」

 憎まれ口を叩いているはずなのに、伯母はどこか楽しげだった。ふたりは仲がいいんだろうな。私は純粋に、そんなことを思った。

 初日の夕ご飯はハンバーグだった。母のデミグラスハンバーグとは違い、伯母のハンバーグにはケチャップがかかっていた。箸がなかなか進まなかったことを、今でもよく覚えている。味が悪いわけではなかった。ただケチャップのハンバーグもおいしいと思うことが、なぜか母への裏切りのように感じられたのだ。

 乾ききっていない髪を揺らしながらビールを啜る伯父。頻りに私におかわりは要らないかと尋ねる伯母。和歌山で起きた毒物事件ばかりを流すテレビ。私はどうにも居心地が悪くて、食べ終えるとすぐ、逃げるようにして二階へ向かった。

「ぼくちゃん」

 そんな私を、伯母が呼び止めた。「おやすみなさい」

「……おやすみなさい」

 布団に転がっても、明日はまだ遠く、私の想像の及ばないところにあった。コオロギの鳴き声と蛙の輪唱が耳をかすめる。慣れない布団は鉄のように硬く、枕は私を押し返すバネのように感じられた。

 寝転んだまま手を伸ばし、リュックサックからゲームボーイを取り出す。

 かちっ、かちっ。

 しかし、何度スイッチを上下させても画面はつかない。一瞬ロゴが浮かんだかと思うと、すっと消えてしまう。きっと行きの車内で遊びすぎて、電池が切れてしまったのだ。

 つまらない箱を布団の端に放り投げ、私はぎゅっと目を瞑った。

 ──自分の電池は、いつ切れるのだろう。母の電池は、まだ保つといいな。

 まぶたの裏に目を凝らすと、妄想が次々と湧き出てきて、どうしても抑えられなくなる。タオルケットを口元に寄せ、勢い任せに寝返りを打つ。嫌な妄想がころんと落ちてしまえばいいと思った。

 そのまま、目をきつくきつく閉じていた。

 いつしか、まぶたの裏に銀河が広がっていく。

 三つ足の彼が、銀河の中心に立っていた。

 

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