風吹きすさぶ大都会。大根ひとつを腰に差し、そいつはぶらりとやってきた。
買物袋を手にもって、私は夕暮れの町を歩いていた。
人気のない通りに差しかかったとき、前方から歩いてくるその人影に気がついたのだった。
はじめ、私は暢気なものだった。あの人も大根を買ったんだなぁ。そんな程度の感想を抱いただけで、さして注意を払うこともなく歩きつづけた。
しかし、距離が縮まるにつれて、その男はこちらにだんだん近寄ってきた。そして、あ、と思ったその瞬間のことだった。すれ違いざまに、男のもっていた大根と私の買物袋とがぶつかってしまったのだった。
「す、すみません」
私はとっさに謝った。しかし、相手の表情を見るなり、ぎょっとした。男は、すさまじい形相でこちらをにらんでいたのだ。
「これがどういうことか、分かってやったことだろうな」
声をあららげながら猛然と迫ってくる男に気圧されて、私はただひたすらに謝った。
「申し訳ありませんでした」
だが、男はさらに、ぐっと顔を寄せてきていった。
「謝ってすむことではない。挑発したのはそっちだろう」
それをきき、私は不愉快な気持ちになった。挑発だって? 冗談じゃない。ぶつかってきたのはそっちだろう。いったいこいつは何なんだ……。
それでも、私は平謝りをつづけた。こういうやつに、下手に刺激を与えるのはよくないことだと考えたからだ。しかし、いつまでたっても男の怒りが収まる様子は皆無だった。
「許さんよ、刀と刀がぶつかったからにはな。一対一で決着をつけるしかない。それが昔からの定めというものだ。それとも、この場で斬り捨ててやろうか」
そういって、男が腰に差した大根にとつぜん手をかけたりしたものだから、私の頭は混乱の渦に巻かれてしまった。
刀だって? こいつはたしかに今、刀といった。だが、刀なんてどこにあるというのだろう。こいつが腰に差しているのは大根じゃないか。
それに、と、私は自分の買物袋に目をやった。刀と刀がぶつかった? それじゃあまるで、私も刀を持っているかのような口ぶりだ。むろん、買物袋に刀など入っているはずもない。あるのはぶりと大根だ。
それから何だっけ。そうだ、斬り捨てる、とこいつはいったんだ。だが、いったいどうやって。大根で叩いてやるぞという意味だろうか……。
いずれにせよ、大根のことを話題にしているのは確かなようだ。私は、おそるおそる切り出した。
「あのぉ、大根でしたら弁償しますので、どうかお許しを……」
「なんだと。この名刀の代わりが簡単に手に入るとでも思ったか。笑止千万」
ははあ。その言葉を聞いて、ようやく私は状況を理解した。なぜかは分からないが、やはりこいつは、大根を刀と思い込んでいるようだった。
それならそうと、話は早い。あまり深く関わらないうちに、逃げるが勝ちだ。
と、そのとき、私の頭に『さや当て』という言葉が浮かんだ。武士の間では、さやとさやがぶつかると無礼にあたり、それをさや当てと呼ぶのだそうだ。ときにはそれが原因で、果たし合いにまで発展してしまうこともあるらしい。こいつは、大根同士がぶつかったのをさや当てになぞらえて、勝負だなどといいだしたのだろう。
自分からぶつかっておいて言いがかりもいいところだが、力説したところでおかしなやつに理屈は通じまい。隙を見て逃げ出そうじゃないか。
からくりが分かると、私はすこし態度に余裕が出はじめた。
「すみませんでした。ですが、まあ、そう怒らなくてもいいじゃないですか。大根に傷が入ったわけではないんですから」
「当たり前だ。傷がつかないから名刀なんだ。そんなことも知らないやつが、一人前に刀など下げおって。恥ずかしいとは思わないのか」
「刀? ああ、そうだった、大根のことですよね。今夜はぶり大根の予定でしてね」
「なんだ、そのぶり何とかというのは。意味の分からぬことをいうやつだ。これ以上おちょくると、本当にここで斬りころすぞ」
そういって男は、腰から大根を抜きとってこちらに構えてみせた。
「危ないですよ、こんなところで振りかざしては」
大根といえども、本気で叩かれるとけがをするだろう。私はそれを下げさせようと、大根に手を伸ばした。
その瞬間のことだった。
男はさっと横によけたかと思うと、突然、ぱっと大根を振りおろしてきた。それは目にも留まらぬ早業で、あっと言う間に私の腕をかすっていった。その刹那、私は思わず声をあげていた。
「あっ」
それだけいって、私は言葉を失った。大根がかすったところから、かすかに血がにじみはじめていたのだった。
「さあ、今度不審なまねをすると、命はないぞ」
私は、だんだんと自分の置かれた状況が呑みこめてきた。あろうことか、大根に腕を傷つけられたのだ。
私が後ずさると、男は大根を構えたままじりじり近づいてきた。
なんとか落ち着こうと、私は必死になって考えた。
待て。これはきっと、大根のなかに刃物が仕込まれているに違いない。大根で物が斬れるわけがないじゃないか……。
そう思い、私はそいつの大根を見つめた。別段、変わったところは見当たらない。ごくごく普通の大根だった。それなら、どうしてこんなことに……。
「た、たすけてくれぇ」
頭が混乱し、私は変な声をあげながら逃げ出した。しかし、その動きを読んでいたのか、男は素早い動きで私の前に立ちはだかった。
「逃げても無駄だ。決着がつくまでは、どこへ逃げようと一生をかけておまえを追いかけてやる」
目の前が真っ暗になるのを感じた。こんなところで自分の人生は終わるのだろうか……。
「い、いのちだけはお助けください……」
私は思わずひざまずき、助命を乞うた。
「哀れなやつだな」
そういって男は大根を腰にしまった。私は安堵の溜息をもらした。
しかし、次の言葉に愕然となった。
「武士の情けだ。三か月やる。それまでに、せいぜいあがいてみることだ。このまま素人を相手にして勝利をおさめても、何のおもしろみもないからな」
「三か月? 勝利? ああ、許してはもらえないんですか……」
「いやなら、今でもいいんだぞ」
「そんな……」
「三か月後に、この場所に来い。逃げようとしても無駄だ。どこへ行こうと、地の果てまでも必ず追いかけてやる」
そういって男は、地図の描かれた一枚の紙を投げてよこした。そして、涙目の私に背を向け、高笑いしながら去って行ったのだった。
ひとり取り残された私は、パニック状態に陥った。
三か月……そのあいだに、いったい何ができるというのだろう。せいぜい身辺整理くらいのものじゃないか……。このままでは、死にに行くようなものだ。いったいどうすればいいのだろう……。
と、そのとき、誰かにとつぜん肩を叩かれた。
(つづく)
小説
『夢巻』『海色の壜』
あらすじ
古い友人につれられて入ったのは、一軒のシガーバー。店員に渡された葉巻を口にすると、子どもの頃の光景が脳裏によみがえった。この不思議な葉巻を、友人は「夢巻」というのだが――。(『夢巻』表題作) 現代ショートショート作家作家の大注目デビュー作。一話5分で楽しめる、夢と驚きに満ちた世界がここに!
大根侍(1/3)(『夢巻』より)
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