夢幻三丁目にある綿雲堂ほどおもしろいものは、そうそうない。
今まさに、一人の男が迷路のように入り組んだ路地に迷いこんできた。軒先に虚ろに出ている看板を見つけ、口を半開きにしている。店の宿す摩訶不思議な雰囲気をかぎとったようだ。
「わたぐも堂、かあ」
視界にちらりと入りこんだ空は、すっかり重たい雲に覆われている。
男はすりガラスに顔を寄せ中をのぞきこもうとしたが叶わず、今度はガタガタと木製の戸をぎこちなくスライドさせはじめた。
「いらっしゃい、開きにくいでしょう。この戸はコツがいるんですよ」
すりガラス越しに人影がちらついたかと思うと、空気を含ませたような、優しい微笑を浮かべた男が歩み出てきた。
「さあ、どうぞ中へ」
どうやら店主らしい。彼は男を店に招き入れると奥のカウンターに腰をかけ、メガネをかけた。読みかけの文庫本から栞を抜いて、
「どうぞ、ごゆっくり」
そうにこやかに言って本に目を落とした。
男はここにきてようやく店内に顔を向けた。と、彼は思わず嘆息にも似た声を口の隙間からこぼしそうになった。だが、かすれ声すら流れ出ることを許されなかった。
言葉が見当たらない、どころの話ではなかった。絶句。この一語に尽きた。
――雲だ――
信じられないことに、そこには、ぽっかり切り取られた小さな空の風景が所狭しと並べられていたのだった。乳白色からはじまって、群青、紫紺、紅赤、茜。果ては鼠や鉛の色をした小さな雲たちまで、それぞれ水のない水槽の中にぷかぷかどよどよ漂っていたのだった。
「……」
明るい色のものたちは、直接照明が当たっていないところにあっても、自らが光り輝いているかのように見えた。そうでないのが、黒色系統のものだった。こちらは電気を落としているわけでもないのに、やけに光るのを自重しているように見受けられた。このギャップが決め手となるまでもなく、男の心はたちどころに鷲づかみにされてしまったのだった。
「売り物なんですか、この雲たちは……」
店主は、憎々しいくらいに落ち着き払っていた。
「もちろん、そうですよ」
雲のもつ美しさを、ここまでまざまざと見せつけられたことが、いまだかつてあっただろうか。男は、これまでの観念をめちゃくちゃにされた感じがした。
空が美しいのは、その深遠なるスカイブルーのせいだとばかり思っていた。しかし、空とは、雲が空の良いところを引き出していたからこそ美しかったのだ。雲が空を引き立て、空も雲を引き立てる。そんな甘ったれた相乗効果など存在しえない、確固たる真相を目の当たりにした気がした。雲のない日は、雲のないというその事実のみが空を綺麗に見せていたらしい。
ほんの数瞬のうちに、さまざまな考えが男の頭を駆けめぐった。
「お客さん、どうされましたか。具合でも悪いのでしたら……」
心配した店主が立ち上がった、そのときだった。彼はうっかり天井から吊るしてあった笊に頭をぶつけてしまい、中からこぼれ落ちた小銭が音をたてた。
「あいたた……またやった。吊り場所をもう少し考えないとなあ……」
その音で、男ははっと我に返った。
「表現しようのないほど美しいですねぇ。骨抜きにされるところでしたよ……」
「ありがとうございます」
店主は顔を火照らせて頬をポリポリ掻いた。
「この雲たちは、どうやってつくっているんですか」
「いいえ、つくっているのではないんですよ」
「なら、どうやって。差し支えのない範囲で教えてくださいませんか。ほんの少しだけでもいいんです」
男は夢中になって身を乗り出した。
「だいぶ興味をもたれたようですね。なんだかこちらまでウキウキしてきましたよ。分かりました、お教えしましょう。つまるところがですね、雲を飼育しているわけなんですよ」
「飼育とは? 雲は卵から孵るんですか、それとも……」
そこから先が、どうにもつづかなかった。雲は爬虫類か、哺乳類か。
「幼雲が生まれるのにはいくつか方法があるのですが、代表的なものは二つです。ひとつ目。それは水しぶきから上がる水けむりです。雲はそこから生まれます」
「水けむり?」
「ええ。丹念に調査した結果、いくつかの満たすべき条件があることが分かりましたが、結論だけ簡単に申しあげますと、この近くの山奥にある滝壺から上がるものがそれを満たしておりまして」
「滝ですか」
「私は綿雲ノ滝と呼んでいますが」
「なるほど。それで、どうやって雲を捕まえるんですか」
「これですよ」
店主は引き出しを開け、なにかを取り出した。
「わりばしですか?」
「これをパキッとふたつに割って、と、それっ。で、こんな具合にぐるぐるかき回すんですよ」
「……まるで、綿アメですね」
「ですから、綿雲、それからもじって綿雲堂、と、こう名づけさせていただきました。
それから、わりばしの先には甘い香りのする自家製の液をつけてやります。その方が効率よく雲を捕まえることができますので」
「雲は甘い汁が好きなんですね」
男は微笑した。
「ふたつ目も、お聞きになりますか? 一から十、全部話してはつまらない気もしますが」
「ぜひ、お願いします」
男は少年のように目を輝かせて言った。
「では、お教えしましょう。もうひとつは、温泉の湯けむりです」
「なるほど、ありそうなことです」
「やはり山奥に、温泉の湧き出ているところがあるんですが、そこから立ちのぼる白い湯けむりが鍵となります」
「たしかに湯船に浸かりながら、ずんずん湧き上がってくる湯気をからめとってやりたい気持ちになったことはあります」
「そうです、それですよ、ことの発端は。
私もある日、その秘湯に体を預けながらぼんやり指をクルクルやってみたんですよ。すると、柔らかな繊維が次第に指にからみついてくるではありませんか。のぼせるくらいに長くやりつづけると、かわいい雲のかたまりとなってきた。持って帰って部屋に放せば、ちゃんとふわふわ宙を漂うじゃありませんか。私は、空の縮図をそこに見出しましたよ。そして、あまりの美しさに呆然となりました。さっきのあなたのように」
と、そう言って店主が子供のような無垢な表情で口許をゆるめた、次の瞬間のことだった。突如としてビーッという大きな電子音が空気をかき乱した。
(つづく)
小説
『夢巻』『海色の壜』
あらすじ
古い友人につれられて入ったのは、一軒のシガーバー。店員に渡された葉巻を口にすると、子どもの頃の光景が脳裏によみがえった。この不思議な葉巻を、友人は「夢巻」というのだが――。(『夢巻』表題作) 現代ショートショート作家作家の大注目デビュー作。一話5分で楽しめる、夢と驚きに満ちた世界がここに!
綿雲堂(1/2)(『夢巻』より)
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