桜の幹にしがみついたクマ蝉たちが、勢いよく声をあげていた。
 それは、夏の景色だった。
 私はなぜか、虫とり網を片手に幹を眺める少年になっているのだった。
 蝉たちを追って、私は木から木へと渡り歩いていた。やがて、いちばん鳴き声の高い桜の前にやってくると、網をかたく握りしめ、低いところから徐々に目線を上げていく。太い幹に張りついた蝉たちを目で追ううちに、いつしか私は天を見上げていた。そこには視界を埋めつくさんばかりの葉っぱが青々と茂っていて、ふと、隙間から見える空の青と雲の白の美しさに気がついてしまう。そのとたん、私は蝉をとることなど忘れてしまって、世界の美しさに胸が苦しくなっていく――。
 気がつくと場面は変わり、私は川べりに座ってきらめく水面を眺めていた。きらきらと移り変わる情景に、時の移ろいを感じている。しばらくすると立ちあがり、ごろごろ転がる小石のうえに足を踏みだす。青く透きとおった川底をハヤの群れが通り過ぎていく。私は平石を見つけると、いつか誰かがやっていた水切りを、見よう見まねで再現しようと試みる。放った小石は、ぼちゃんと鈍い音を立て、波紋がゆっくり広がっていく――。
 夕暮れまぎわのクヌギ林。蚊取線香を腰にさげ、私は樹液のでる木を探していた。湿った腐葉土が、やわらかく足を包む。と、私は太った木肌にぽっかり空いた穴を見つける。懐中電灯で慎重に奥を照らす。そこにコクワガタの姿を見つけると、喜びがじわじわとこみあげてくる――。
 私は、祭りの屋台のにぎわいに夏の終わりを感じている。赤く連なる提灯が、どこまでもつづいていく。そのとき花火がすーっと天に昇っていき、虚空をきれいに彩った。やがてそれは、にじむように消えていき――。
 
 突然、私はわれに返った。
 友人がこちらを見て、にやついていた。
「な、わかっただろ?」
 そう声をかけられてからも、私はしばらく夢と現実の境をさまよっていた。ようやくこちらに戻ってくると、私は深く、感嘆のため息をはいた。
「まるで子供の頃に戻ったみたいだったよ……」
 感じたままの言葉が、口をついて自然にこぼれ落ちた。彼のさっきの反応も、うなずける話だった。こんな不思議なものは、見たことも聞いたこともなかった。
「ご名答。これは子供の思い出が詰まった代物なんだ。単なる比喩じゃなくってね」
 その意味するところが分からずに首をかしげる私を見て、友人は言った。
「夢巻は、子供の作文からつくられる」
 私は思わず目をみはった。
「紙に込められた子供たちの純粋な思い出は、おれたち大人に甘い夢を見させてくれるんだ。想像力ゆたかな子供の書いたものほど、鮮やかなイメージを描きだしてくれてね」
 彼は、私の反応をおもしろそうに眺めながらつづけた。
「そしてその味は、込められた思い出によってひとつひとつ違ってくるんだ。
 夏休みの思い出が刻みこまれた文章は香ばしくって、少女の初恋がつづられた日記は少し酸味を帯びている。宿題へのうらみごとが書かれたものは味が硬くて、ケンカの思い出はニガくなる。
 作りたての夢巻は、どれも幼いだけの青い味のままなんだけど、ヒュミドール――温度と湿度を管理できるボックスの中で時間をかけて熟成させるうちに時に洗練され、しだいに深みが出てくるんだ。そうして、極上の一本ができあがる。年をとるにつれて雑味が加わって味が劣ってしまうから、いちばん多感で素直な小学生くらいまでのものが最高とされててね。
 堕落に導くのはこの店の方針じゃないから、夢を現実逃避に使う人種や、現実主義者のようにからだが受けつけない人には向かないけれど、夢を糧にするタイプの人にとって、これ以上の嗜好品はないよ」
 私は、ただただ夢を見るような思いで彼の話に聞き入った。
 夢巻にゆっくり火がのぼり、灰が落ちる。
 次に彼は、店の人をつかまえて何やら耳打ちした。
 運ばれてきたのは、高級そうな小さな木箱だった。
「これがヒュミドール。特別会員になると、専用のものを持つことができてね。これで、自分の夢巻を保管できるんだ」
「自分のというのは?」
「文字通り、自分が小学生のころに書いた作文でつくった夢巻だよ。むかしの自分の思い出でつくったものだと肌に合うっていうのかな、やっぱりいいもんだ」
「……だから、あんな妙なことを言ったのか」
「そういうこと」
 私は鞄を開いて、色あせた紙の束を取り出した。
「転勤つづきなのに、よく捨てずに取っておいてくれたもんだよ。母親には感謝しなくちゃなぁ」
 それは、彼に言われて持ってきた、小学生のころに書いた作文や絵日記の束だった。こんな紙切れからあんな素晴らしいものがつくられるなんて、にわかには信じがたい話だった。中にはテストの答案もある。想像するだけで口の中が苦くなる。
「でも、こんなむかしのものなんて使い物にならないんじゃ……」
「ヒュミドールで時間をかけて、ゆっくり湿度を戻してやるんだ。技術が必要なんだけど、この店に任せれば間違いない。やがて潤いが戻ってきて、むかしと同じような状態がよみがえる。それからようやく、製造工程に入っていくんだ。少し時間はかかってしまうけど、おまえのそれも預かってもらうといいよ」
 私の中に、瞬時によろこびが広がった。小さいころのさまざまな思い出が駆けめぐる。あの頃と同じ気持ちを同じ目線で二度も味わえるなんて思ってもみなかった。今からできあがりが待ち遠しくなって、なんだかそわそわしてくる始末だった。
「待ちきれないだろうなぁ。分かるよ、その気持ち。おれも、はじめて自分の夢巻をつくったときのことを思い出すよ。実は、おもしろいものがあってね」
 そう言って、彼は別のヒュミドールから一冊の冊子をとりだした。
「何年か前に押入を整理してたら、こんなものが出てきたんだ」
 手渡されたものをパラパラめくる。私はあまりの懐かしさに驚きの声をあげた。
「卒業文集の原本じゃないか」
 保存状態も万全だった。ヒュミドールのおかげだろう、まるでついさっきじたばかりかと見まがうほどの生々しさで、紙の香りが立ち上ってくるほどだった。
「正確には、おれとおまえのページが抜けた、ね」
 私は、その意味するところを瞬時に悟った。
「そしてこれが、それからつくった夢巻ってわけ。ああ、おまえのページでつくった夢巻だよ」
 友人は、自分のヒュミドールから一本の夢巻をとりだした。
「初めは、自分のものだけつくってたんだけどね。今日のために、おまえの分もと思い立ってつくっておいたんだ。まあ、これはおれからのプレゼントってことで」
 友人の粋な計らいに、胸が熱くなった。
 私は、ふと思ったことを尋ねてみた。
「それで、おまえの分は? せっかくなんだから一緒に味わおうじゃないか」
「あいにく、もうないんだよ」
 と、彼は残念そうに言った。
「初めは自分のだけをつくってたって言っただろ。そのときに、ひとりで口にしてしまったんだ。
 あの頃のいろいろなことがよみがえったよ。三角公園で鬼ごっこをした思い出だろ、ダイワ池でフナ釣りをした思い出だろ、それから、夕陽を見ながら抱いた淡い夢物語だろ。大人になってすっかり忘れてしまっていたけど、どれも大切な思い出だった。懐かしさに胸をしめつけられたよ。
 そういえば、さっきからずっと、どうして急に連絡をしたくなったのかって、聞いてたよな」
 友人は、照れ笑いのような表情を浮かべて言った。
「そのすべてに出てきたのが、ほかでもない、おまえだったんだよ。
 それで、たまらなく会いたくなって、連絡先を必死になって調べたというわけなんだ。あの頃いちばん仲がよくって、何をするにも一緒になって笑って泣いた、おまえのね」

(了)