振り向くと、はかま姿のひとりの男が立っていた。さっきのやつと同じように、腰に大根を差している。
 それを見て、私はぞっとした。助けを求めようとしたが、声がでなかった。
「一部始終は見させてもらったよ」
 男はそういって、放心状態の私に名刺を押し付けてきた。大根を抜く様子はなかった。こちらに危害を加えるつもりはないのだろうか……。
 状況が呑みこめないまま名刺を眺めると、師範、と書かれてあるのが目にとまった。男はいった。
「どうだ、弟子になる気はないか」
 唐突な展開に、私の頭はパンク寸前だった。弟子だって? こんどは何が起こったんだ……。
 男は、もう一度ゆっくりいった。
「弟子になる気はないか、と聞いているんだ」
「何の弟子でしょうか……」
 私は相手の表情をうかがいながら尋ねてみた。
「剣術にきまっている。あいつに勝たなければならないんだろう?」
 剣術……つまり、この男はあの得体のしれない危なっかしい大根の扱い方を教えてくれるということだろうか……もしそうなら、願ったりかなったりだ。これで、むざむざと命を捨てにいくこともなくなったのだ。救世主とはこの人のことだ。なんという幸運だろう……。
「ほんとですか」
 私は、大喜びでその申し出に飛びつこうとした。
 だが、すんでのところではっとなり、かろうじて思いとどまった。
 何かがおかしい。あまりに都合がよすぎやしないか……。
 わかった、これは詐欺なのだ。
 冷静に考えてもみろ。やはり、どう考えたって大根で物が斬れるはずがないじゃないか。
 さっきは見落としただけで、どこかに何か仕掛けがあったに違いない。
 あいつの言葉を思い出してもみろ。逃げても無駄だ。絶対に逃がさない……。これは、相手を言葉巧みに追い込んで、精神をコントロールするときの常套じようとう手段じゃないか。
 弟子だって? この男はあいつと組んで、私から金を巻き上げようという算段に違いない。となると、いまに金の話をしはじめるだろう。
「金なら、いらない」
 心が見透かされたのかと思い、私はうろたえた。
「何を躊躇ちゆうちよしている。このまま何もしないでいては、あっさりやられてしまうんだぞ? ……なるほど分かった。さては、私の実力を疑っておいでか。それなら、これでどうだ」
 その瞬間、男は腰を落とし、大根をやぁっと抜き去った。そして、傍にあったポストに斬りかかったかと思うが早いか、ポストはものの見事にまっぷたつになってしまった。なかの手紙がぱらぱら地面へと落ちていく。目にも留まらぬ早業に、私は腰を抜かしてしまった。
「ちょうど後継者を探しているところでもあったのだ。私の代で技が途絶えるのは、わが師に申し訳が立たぬからな」
 目の前で見せつけられると、疑うことなど最早もはやできない。トリックなどではない。なぜかは分からないが、この人は、たしかに大根で物を斬ったのだ……。
「ぜひ、弟子にしてください」
 気がつくと、そう応えていた。
 しかし、大根で物が斬れるとは知らなかった。練習すれば、誰でも簡単にできるようになるものなのだろうか……。
 弟子というからには、厳しい修行を積むのかもしれない。だが、期間はたったの三か月しかないのだ。
 お遊戯会でやるお遊びとは訳が違う。やるだけやって修得できませんでした、ではお話にならない。こちらは命がかかっているのだ。私はだんだん不安になってきた。
「三か月しかありませんが、ほんとに大丈夫なんですか?」
 すると、どなり声が返ってきた。
「おい、なんだ、その偉そうな物言いは。それが師匠に向かっていう言葉か」
 急に怒られたのでめんらった。
「いいか、これからは私が師匠で、おまえが弟子なんだ。以後、言葉づかいには気をつけるように」
「はい……」
 私はしゅんと縮こまってしまった。
「おまえの刀を見せてみろ。なんだこれは。ちゃんばらごっこでもするつもりだったのか」
 男は、私の買物袋から大根を取り出していった。
「いえ、ぶり大根に……」
「なんだそれは。まあいい、まずは刀選びからだ。こんなのではお話にならない。一緒に選んでやるから、私についてこい」
 そういって、男は先に立って歩きはじめた。私は遅れないよう早足でいそいそとついていった。
「まさか、大根で物が斬れるとは知りませんでした。大根以外の野菜でも、物は斬れるんでしょうか」
 男は、こちらを一瞥いちべつしていった。
「当たり前だ」
「では、どうして大根を使うんですか。ほかのでもいいじゃないですか」
「特に扱いやすく、切れ味がもっとも鋭いからだ。しかし、てだれは人参ひとつで大根と互角に渡り合う」
 
 たどりついたのは、大根ばかりおいてある、路地裏の古びた八百屋だった。
「ここの品揃えは、ほかの店とはまるで違う。ふつうのやつは数年したらだめになるが、手入れを怠らなければ、ここのは優に百年はもつ」
「だめになった刀はどうするんです」
 興味本位できいてみた。
「たくあんにするまでだ」
 男は、大根をひとつひとつ、慎重に床に並べはじめた。
「ちょっとあなた、店の人に怒られますよ」
「あなたとは、なんだ。師匠と呼べ」
「はい……師匠、店の人に見つかったらどうするんですか」
「大丈夫だ、ここはそういう店なのだ。
 さあ、このなかに良品がいくつか交ざっている。どれだか分かるか? 当ててみろ。一流を目指すなら、いずれは自分で刀の目利きも行わなければならないからな。
 ……ふむ。はじめてにしては、勘がいい。そう、根元が青いものほど良い刀なのだ。ただし、おまえが選んだようなのは少しレベルが高すぎる。相当の使い手でないと実力を引き出すことはできない。おまえは、これくらいのがいいだろう。これを買ってくるように」
 私は、いわれるままに指示された大根を手にとった。
「いてっ」
 私はとっさに声をあげた。見ると、指が少し切れていた。
「ばかやろう、刃の部分をもつやつがあるか。そんなところから教えなければならないのか。刀は、しっかり根元を持って扱うんだ。先が思いやられるよ」
 私は自分の無知に、ただただ恥じ入るばかりだった。
 
 その日から、男の家に住み込んで、きびしい稽古けいこがはじまった。
 翌日の早朝。夢見心地のところを師匠に叩き起こされ、バケツとぞうきんを渡された。
「なんですか、これは。私の大根はどこです」
 私は寝ぼけまなこのまま師匠にきいた。
「素人が、いきなり刀を扱えるとでも思ったのか。まずはすべての基礎からだ。つまり、廊下の拭き掃除からだ」
「そんな……」
「つべこべいうごとに、食事が減っていくぞ」
 ネギで肩を叩かれた。ネギは竹刀しないのような位置づけなのだろうか。私はしぶしぶ従うよりほかなかった。
 それが終わると庭に立たされ、何も持っていない状態での素振りを命じられた。
「千回だ」
 卒倒しそうになった。
「基礎が大切なのだ」
 私は、いわれるがままに腕を振った。
 すぐに疲れが襲ってきて、だんだん腕が下がってきた。だるくなり、一回一回にかかる時間が長くなってきた。しかし、そのたびにネギでしばかれながら、私は必死に腕を振りつづけた。
 五百回を超えたところで、手に豆ができはじめた。千回に達するころにはそれがつぶれ、手のひらからは血がしたたりおちていた。
「おまえはなかなか筋がいい」
 ほめられたので身が入り、私は追加練習も懸命になって取り組んだ。ひとつのことにこんなに真剣に取り組むなんて、これまでにはなかったことだ。命がかかっているのだから、怠けるなんてとんでもなかった。
 翌日も、翌々日も、同じメニューがつづいたが、素振りの回数だけは倍、倍と増えていった。

(つづく)