「波の音が聞こえるんです」
 と、老人はベッドの上で弱々しく言った。
「幻聴となると、いよいよですかねぇ。あなたには、本当に世話になりました」
「気は強くもつものですよ。明日は、お孫さんも来るんでしょう。元気な姿を見せなくちゃ」
 老医師は、そばの椅子にゆっくりと腰掛けた。
「それで、どんなふうに波音が聞こえてくるんです」
「外からというよりは、身体のなかから聞こえてくるという感じですかねぇ。まるで、大きな波に揺られているような心地ですよ」
 老人は静かに目を閉じた。
「高く、とても力強い音なんですが、それと同時に優しくもある。昔どこかで聞いたような、なんだか懐かしい音なんです」
 言葉を選ぶようにして、老人は丁寧に言った。
 老医師は、少し間をおいてから応えた。
「それは、年波というやつですよ」
「としなみ?」
「寄る年波、というでしょう」
「は、は、なんだ、冗談ですか。うまいもんですねぇ」
 老人は、か細い笑い声をたてた。
「いえいえ、冗談ではないんです」
 老医師は、微笑みながらもきっぱりと言った。
「それじゃあ、この病気の名前だ」
「それも違います」
 老医師は急にまじめな顔になった。
「年波とは、人に宿る波のことです。人には、生まれたときからずっと、波が宿っているんですよ」
 さとすようにそう言った。
 初めはからかっているのかと思った老人も、老医師の深い瞳に吸い込まれ、静かに言葉の先を待った。
「遥かむかし、人類の祖先が陸にあがり海を離れたとき、私たちの身体には多くの海の名残がのこりました。海水の成分が人間の体液に受け継がれたように、そのとき、波も人の身体に宿ったんです。
 進化の過程でさまざまなものが淘汰とうたされていきましたが、波は消えることなく私たちのなかに残りつづけました。ちょうど、遠くに伝わっていく波の性質そのもののように、世代を超えて、波は人のあいだを伝播でんぱしつづけてきたんです」
 揺らめくカーテンが、老人に沖合で揺れる波を連想させた。
「人と人は、生まれたときから干渉し合い、波は増減を繰り返しながら互いに高さを増していきます。その高まった波音が聞こえるまでになったとき、人はそれを年波と呼ぶんです。
 波の形は人によってさまざまでしてね。ほら、よく波長が合う、と言うでしょう。あれは似たもの同士の波が重なり合い、共鳴し合う現象のことを言ったものなんですよ。そういうとき耳を澄ましてみると、高まった波音が身体のなかからかすかに聞こえてくるものです。あなたが懐かしいと感じるのも、きっと、これまで聞くともなく聞いていた波音を思い出すからでしょう」
 老医師の話を聞くうちに、老人の心から、疑う気持ちがゆっくりと引いていった。理屈ではなかった。波音に身をゆだねていると、彼の言う意味が分かるような気がするのだった。
 老人は、老医師のほうから視線をはずすと、ふたたび瞳を閉じた。
「人の心から滲みだした波は、ときおり外の世界にひょっこり現れることもありましてね。
 小さいころ、私は両親といるときによくそれを目にしたものです。ふっと見上げた天井なんかに、波の模様がたゆたう様子を見ては、これはなんだろうと思いましたよ。ずっとあとになって年波の話をきいたとき、ようやくその答えが分かったわけですが」
 その言葉を聞いて、不意に、老人の心に子供のころの記憶がよみがえってきた。
 彼の目に、雨のなか車を運転する父と、助手席でまどろむ母の姿が浮かんできた。少年だった彼は、黙ったまま、窓を流れる雨粒を目で追っていた。
 ぱらぱらと、金属の薄板を打ちつける音がした。ラジオがかすれた音を立て、ワイパーは単調な音を繰り返す。
 雨をヘッドライトが照らすたびに、車内には海底の砂に映る波模様に似た青い光が満ちる。彼は、波間に揺れるクラゲの気分にひたったものだった──。
 あれこそが老医師の言う、波がつくりだした模様だったのだろう。両親の波と重なり合って高くなり、外に滲みだした姿だったのだ。あのとき、きっと波の音も耳に入ってきていたに違いない。どうりで懐かしさを感じるわけだ。波音は、両親との思い出と結びついた音でもあったのだ。
「波はときどき、いたずら心を起こすようでしてね。つい先日、私も長年愛用してきた老眼鏡をなくしまして。きっと、波のしわざでしょう。
 さて、そろそろ仕事に戻りましょうかね。長話も、たまにはいいものですね」
 老医師は緩慢な動作で立ちあがった。
「いいですか、いつまでも弱気なことを言ってないで、しっかりしなくちゃいけませんよ」
 老人は、横になったまま見送った。
 
 老医師が去ってから、彼は聞こえてくる波音にじっくり耳を傾けた。
 ふと目をあけると、天井でまだら模様が青く揺れていた。老人は、自分のなかで波音が高まっていくのを感じていた。
 と、そのとき、ころりと身体の上を転がるものがあった。弱々しく手を伸ばし目元にもってきてみると、あい色のビー玉だった。
 彼は、小さいころ夢中になった陣取り遊びを思い出した。あのとき使っていたビー玉によく似ているな。
 見舞いに来た孫が忘れていったのだろうか。それとも、波のいたずらか。
 しばらくのあいだ昔を懐かしみ、空想の世界に心を遊ばせていたが、やがて老人は考えるのをやめて、大きなうねりに身をゆだねた。
 彼は、ゆらゆらと波間に揺れている──。
 
 
 翌朝、老医師が病室を訪れると、ベッドはすでにからだった。部屋のなかは青い光であふれていた。
「おじいちゃん」
 朝一番に駆け込んできた少年は、たたずむ老医師に気がついて、思わず足をとめた。
「せんせい、おじいちゃんは」
 老医師は人差し指を口にあて、そっと少年を引き寄せた。
 少年は不思議に思いながらも、口をつぐんだ。そして、言われた通り耳を澄ましてみると、かすかな波音が聞こえてきた。それは外から聞こえてくるようであり、また、自分の内側から聞こえてくるようでもあった。
「なんだか、おじいちゃんみたいだね」
 少年は首をかしげながら、ぽつりとそうこぼした。
 しかし、それは的確ではなかった。いま彼は、老人の波と相まって、はじめて自分の波音を聞いたのである。

(了)