このびんかい。いいや、熱帯魚をはじめたわけじゃない。
 そのへん、どこでも座ってくれよ。話したいことがあるんだ。
 
 あのバーに初めて入ったのは二年前だった。昔から、おれは見知らぬ店にふらっと一人で入る癖があるだろ。そうやって見つけた良い店に、今度は友だちを連れていく。おまえにも、たくさん店を紹介してきたな。でも、あのバーだけは誰にも教えなかった。
 飲み会の帰りだったんだ。駅までの近道になりそうだと、おれは薄暗い路地に入っていった。そのときだよ、あのバーを見つけたのは。
 おれは、かすかに漂ってくる潮の香りをかぎつけた。こんな都会の真ん中じゃ珍しいだろ。香りの先は、さらに奥まった路地の先、一軒の店へとつづいていた。
 優しい黄色で包まれた、しっとりと落ち着いた雰囲気の小さな店だった。中に入るなり、おれの胸に懐かしさがこみあげてきた。ほのかな潮の香り、寄せる波音。子供のころの記憶がよみがえってくる。
 初老のマスターが一人で経営しているらしい。バックバーには、青いボトルのグラデーションが美しかった。
「初めての方ですね。うちはストレートだけですが、構いませんか」
 その言葉に面喰らったけれど、おれが同意するとマスターは席をすすめてくれた。
 見慣れないボトルばかりだったから、一杯目はメニューを開いて決めようと思った。だけど、メニューを手に取りふたたび驚いた。酒の種類がひとつしかなかったんだ。
 いや、正確にはウメ酒と書かれてある横に、細かく地名の載った地図が描かれてあった。おれは、少し考えて納得した。なるほど、ここは全国のウメ酒を集めたバーなんだって。おれは適当な地名のものをオーダーしてみた。ウメ酒の違いなんて自分に分かるのだろうかと、不安な気持ちになりながら。
 出てきた酒のあまりの美しさに、おれは呆然となった。グラスは、エメラルドグリーン一色に染め上げられていたんだ。気のせいか、表面には細かく波が立っている。こんな酒は見たことない。おれは思わずマスターに酒の名前を尋ねた。
「お客さんがオーダーされた土地の『海酒』です」
「うみ酒? ウメ酒の間違いじゃないんですか」
「初めての方は、だいたいそうおっしゃいます。ここは、全国各地の海を集めた、海酒バーなんですよ」
 マスターは静かに微笑みながら言った。
 慌ててメニューを確認してみると、彼の言う通りだった。おれは『海』という字を読み間違えていたんだ。うろたえるおれに、マスターは優しく声をかけてくれた。
「私は海というやつに幼いころから無性に惹かれる性質たちでしてねぇ。若いころは、全国各地の海を渡り歩いたものです。そのときの経験をもとに、このバーを開きました。ここには、海に面したほとんどすべての土地の海酒がそろっています。ぜんぶ自家製ですよぉ。荒々しい海、いだ海。にごった海、澄んだ海。お好みがあれば、何なりと」
 おれはグラスを掲げ、光にかざしてみた。エメラルドグリーンの底に白い砂地のようなものが見え、時折、波に巻かれたようにそっと舞い上がる。上からのぞき込むと、さざなみがグラスの底にまだら模様を作っている。
 慎重に口に含んでみた。その途端、さわやかな潮風が鼻腔びこうを吹き抜けていった。おれは思わず目を閉じた。無限の海が広がった。
「……三津みつ、という場所の海酒はありませんか」
 おれは、思わずそう口走っていた。
 ああそうだ、おれたちの故郷の名前だよ。あの海への思い入れが、おれはとくべつ強くって。
 小さいころ、亡くなったばあちゃんに手を引かれて、よく通ったんだ。海岸線にそって、ひと駅のあいだを一両電車にことこと揺られてね。
 砂とたわむれたり、貝殻や小石をコレクションしたり。海岸に寄る小さなふぐの群れを網ですくってみたり、浮輪をサーフボードに見立てて小波に乗ってみたり。小さな子供のやる、ほんのささいな遊びに過ぎなかったけど、楽しかったなぁ。
 あのころはほんとにきれいな海だったよな。穏やかに揺れる瑠璃るり色の波を眺めているだけで、自然の美しさというものを幼心に感じることができた。
 木造のぼろぼろの駅舎は、海のすぐそばだった。だから、浜に居たって踏切音が聞こえてくる。のんびり入ってくる電車の音を耳にするたび、おれは過ぎ去っていく時間にたまらなく切ない気持ちになったもんだよ。
 三津はほんとにいい町だった。それもぜんぶ、あの海のおかげだったとおれは思ってる。
 たくましい漁師のおっちゃんたちと、その船を修理する人たち。魚市場は活気にあふれかえっていて、魚売りのリヤカーの周りはいつも賑やかだった。
 海は、町のすべてのみなもとだったよなぁ。
 そうだろ、おまえなら分かってくれると思ってた。おれたちの思い出が、ぎゅっと詰まったところなんだよな、三津の海は。だからこそ、実家に帰ってすっかり汚れてしまった海を目にするたびに、おれは本当にいたたまれない気持ちになるよ。海に寄り添ってきた三津の町も、いまじゃずいぶんさびれてしまった。あの路線が廃線になったのも、もう十年も前のはなしになる。
「ありましたよぉ、三津の海酒。三十年物です」
 奥から戻ってきたマスターは、すっとグラスを差し出した。驚いたよ。まさか本当にあるとは思わなかった。
 おれは、まじまじとグラスを眺めた。その液体は、思い出と寸分たがわぬ色だった。強烈な懐かしさに胸が締めつけられた。しばらくのあいだ、口に含むことすらできなかった。
 グラスの底で、小魚の影がひらめいた。波の音が聞こえてきた。おれは一気に海酒をあおった。
「もう一杯お願いできますか」
 気がつけば、何杯もグラスを重ねていた。酔いが深まるにつれますます鮮やかによみがえってくる瑠璃色の遠い世界に、おれは店が閉まる時間までひたりつづけた。
 それからも、おれはあのバーに通いつづけた。注文するのは決まって同じ海酒だった。ほかのも申し分ないうまさだけど、やっぱり故郷の海にはかなわない。海を愛するマスターとも意気投合し、ずいぶん仲良くなったよ。
 でも、恐れていた日がついに訪れてしまって。
「これが、最後の一杯です」
 マスターは言いにくそうに切り出した。おれは冷静さを装うのがやっとだった。
「……新しく作ることはできないんですか」
「材料さえあれば可能です。ですが、お客さんの思い出の海酒をつくるには、当時の海の材料が必要になる。それがなければ、海酒は完成しないんです」
「材料というのは」
 おれはマスターに詰め寄った。店の秘密を簡単に明かしてもらえるとも思っていなかったけど、彼はあっさり教えてくれた。
「実は、ビーチグラス──浜辺に落ちているガラスのかけらのことですがね、あれを使うんです。ビーチグラスには、長い年月のあいだ波にさらされ丸くなっていく中で、その土地の海のもつあらゆる記憶がすり込まれていくんですよ。それを、度数の高いお酒で一年ほど漬けこむわけです。それから、一番大切なのが海を愛する気持ちです。これが深ければ深いほど美しく酔える上等な海酒ができますが、この点は問題ないでしょう。あとは良質なビーチグラスさえあれば、お望みの海酒もつくることができるんですが……」
 言葉の途中から、居ても立ってもいられなくなった。
 おれはすぐに実家に帰り、屋根裏部屋の荷物置き場を必死で探しまわった。そして、子供のころの宝箱の中に、とうとう見つけたんだ。あのころ拾ったビーチグラスを。
 おれは急いでバーに駆けつけ、マスターに差し出した。すると彼は、一枚のメモ用紙をポケットから取り出した。そこには、海酒の詳細な漬け方が記してあった。
「ご自分で漬けてみてはいかがでしょう。ベースのお酒なら分けてあげます。そのほうが、感慨もひとしおでしょうから」
 マスターの計らいに、おれは心の底から感謝した。自分の海酒が完成しても、このバーとの付き合いは一生つづくに違いない。そう思いながら、おれは飛んで帰って海酒を仕込んだ。
 
 これがちょうど、一年前の話でね。
 察しがいいね、ああそうだ。この大壜は熱帯魚のものじゃない。試してみなよ、海酒の味を。
 ……見えたかい、懐かしいおれたちの海が。むかしはこんなに美しかったんだ、この海は。気を抜くのはまだ早い。聞こえるだろ?
 潮騒しおさいだけじゃないさ。
 踏切音がはじまった。聞こえてきた、ことこと揺れる電車の音が。
 酔いが回れば海のすべてがよみがえる。言っただろ、これが海酒の醍醐味だいごみさ。
 駅舎は歩いてすぐそこだ。
 ああ、今夜はおまえも一緒に帰らないか。昔とおんなじ電車に乗って、海の記憶する、あのころの三津の町へ。

(了)