「あっ、メーターが振り切れてしまったようです。ちょっと失礼しますよ」
 店主はそう言って、テキパキとなにかの作業をこなしていった。
「それはいったい何を……?」
「すみません、ちょっとお待ちを……ふぅ、大丈夫だった」
 店主は額に浮かんだ汗を拭った。男は首をかしげながら、
「なにが大丈夫だったんですか」
「雲を飼育するのには温度と湿度を正確に管理する必要があるんですが、今、その温度のほうのメーターが振り切れていたので正常な状態に戻したんです。人が一人増えて、体温で室温が上がったんでしょう」
「ずいぶんデリケートなんですねぇ」
「ええ、手のかかる子供のようです。ですが、面倒をかける子供ほどかわいいと言いますか、その分、やはり愛着を強くもちますね。私も、こうして売り物として出してはいますが、この子たちに首ったけでしてね。それぞれに個性があり、良さがある。もちろん悪いところもありますが、もうかわいくてかわいくて仕方がない。
 ですが、あなたのように正真正銘の純粋をお持ちの方には、快くお譲りしていますので、ご安心ください。興味がおありなんでしょう? お気に召したものを、どうぞお持ち帰りください」
 その言葉を聞いたとたんに男は目を輝かせはじめた。
「本当にいいんですか」
「もちろんです」
「でも、こうたくさんの雲があると、どれにしようか迷いますねぇ……」
 男は、一番近いところにあった水槽を指さした。
「たとえばこれは、どういった性質の雲なんですか?」
 薔薇ばら色の雲だった。
「こいつは、つつけば壊れてしまいそうな繊細さを宿した雲です。だがそれでいて、不思議な力強さも内に秘めている。まさしく、あかつきのごとしです。この雲を眺めているだけで、朝焼けを見るような明るい気持ちになっていきます」
 次に男は別のひとつを指さして、店主に尋ねた。
「こちらの墨色の雲は、どういうものなんですか」
「誤解を恐れずに言えば、気持ちを暗くさせるジメジメした性格のやつです」
「だめじゃないですか」
「いえいえ、こいつもちゃんと役に立つのです」
「といいますと?」
「世の中には恐いもの知らずと呼ばれる人たちがいますが、その厄介な性質をなおすのに一役買うんですよ。
 世の恐いもの知らずたち、当の本人たちはおもしろおかしく毎日を過ごしていても、その周りの人たちはいつもヒヤヒヤするだけでたまったものじゃないでしょう? 周りのほうが、いくつ命があっても足りないくらいです。それで、どうにかその性格を正したい。と、こう思うわけです。
 そこで、この雲を部屋に置いてやるわけです。すると、どうでしょう。さっきまで、今度はビルの間に張った綱をバイクで渡るんだと叫んでいた者が、人が変わったように縮こまってしまう。失敗するに違いないからやめておこう。これからは堅実な人生を歩んで、早く周囲を安心させてあげよう。そうぶつぶつ呟くようになります。家族も一安心です」
「なるほど……」
 と、男はその上に積んであった水槽に目を奪われた。
「これは……」
銀杏いちよう色が美しいでしょう。それはですね……」
「ストップ、一から十、全部話してはつまらない、でしたね。これをいただきます。どういった雲なのかは自分で見極めますよ」
「ふふ、分かりました」
 そう言うと、店主はにこっと笑って奥に引っこんだ。しばらくすると、大きめの金魚袋を手に持って戻ってきて、
「少々お待ちくださいね」
 バッと袋の口を広げ、素早い動きで水槽に浮かぶ雲を押しこんだ。
「はい、どうぞ」
 男は顔をほころばせて店主に深く礼を言った。
「大切にしてやってくださいね」
 男が雲を片手に戸を開くと外は夜のように真っ暗で、雨が吹き上がる勢いでアスファルトを激しく打ちつけていた。
 店主は、誰かの忘れ物だからと言って傘を持たせてくれた。
「エサは、果汁の多く含まれたジュースです。霧吹きで吹きかけてやってください」
 最後まで、穏やかな表情を崩さなかった。
 
 帰宅した男は、窓を開けて空を眺めていた。雨は衰えることを知らず、空にはどんよりとした雲がのっぺりと広がっていた。
 ――うーん、銀杏色の、この表現しがたい深い色合い。なんとも感慨深い雲だ―― しかし、押し入れから引っ張り出しておいた水槽を床に据え、袋の口をゆるめて雲を移し替えようとした、そのときだった。
「ああっ」
 うっかり手元がくるい、雲がパッと飛び出してしまったのだ。突然の事態に、男はパニックに陥った。必死になって手でつかまえようとしたが、雲はスルリと通り抜けてしまう。
「そっちはだめだ」
 男が叫ぶ声もむなしく、雲はまるで何かに導かれるかのようにして、窓からすぅっと雨空に向かって飛んでいってしまった。放心状態の男をよそに、雲はぐんぐん高度を上げ、どんどん大きくなっていく。
 
 店主は、先ほどの客のことを考えていた。読みかけの文庫に栞を挟み腰を上げると、少し開いた戸から顔をのぞかせ空を見上げた。
 ――音がしなくなったと思ったら、いつのまにか雨が上がってる。さっそく、もらわれていったあの子を思い出すことになったなぁ――
 彼は、遠くわが子を思う親のような眼差しでしみじみといつまでも佇んでいた。
 
 突然やんだ雨を不思議に感じながら、街行く人々は思い思いに天を仰いだ。
 そこには、銀杏色の雲。そして、見事な光芒こうぼう
 優しさと希望に満ち溢れた色が、空を引き立て輝いている。その光は、夢幻三丁目の街並みをいっそう妖しく見せたらしい。
 
 男は美しい光景にすっかり骨抜きにされてしまい、さっきまでの混乱も忘れて長いあいだ窓からうっとり空を眺めていた。
 やがて我に返ったとき、男がなんとなく手元に目をやると、そこには銀杏色の繊維が絡みついていた。
 彼がそっとそれを丸めて水槽に浮かべてやると、小さな小さなその雲は、たどたどしくも神々しい一条の光をつむいで見せた。

(了)