一
フッ、と燭台の火が揺れた。
座敷にいた五人の武士の影が乱れ、会話がとまった。五人はお互いの顔を見合い、外の気配をうかがうように息をひそめた。風の音がした。庭木の枝葉の揺れる音である。他の物音はしなかった。燭台の火が揺れたのは、わずかに開いていた障子の隙間から風が流れ込んできたせいかもしれない。
「人のいる気配は、ないようだ」
鴨井兵助がこわばった顔をくずして言った。
そして、開いている障子を閉めようと立ち上がり、歩きかけたが、ふいにその足がとまり、凍りついたように動かなくなった。
風音のなかに、小枝でも踏むようなかすかな音がした。縁側の先の庭の方である。耳を澄ますと、砂利を踏むような音もする。
「討っ手だ!」
鴨井が声を殺して言った。
一瞬、座していた四人の顔がひき攣り、かたわらに置いていた刀を手にして腰を浮かせた。
「多勢か」
吉井友実が震えを帯びた声で訊いた。
「分からぬが、ひとりやふたりではない」
数人が、庭の方から近付いてくる気配がするが、もっと大勢とみなければならない。討っ手なら、当然裏口にもまわっているだろう。
「家人は」
初老の奥田孫兵衛がしゃがれ声で訊いた。
「奥の寝間で、休んでおります」
この屋敷の主、青田新次郎が蒼ざめた顔で言った。青田家は隠居した青田の老父と老母、それに住込みの下働きの者がいるだけだった。青田には許嫁がいたが、まだ独り身である。
「お、おい、廊下のそばまで来ているぞ」
吉井が昂った声をだした。
足音ははっきりと聞こえてきた。庭に面した廊下の先に、数人が近付いてくる。
「逃げる」
鴨井が言った。
四人は目をつり上げてうなずき合い、すばやく手にした刀を腰に帯びた。
「仲間のことは構うな。手筈どおり、それぞれが黒崎屋へ直行するのだ」
奥田が念を押すように言った。
黒崎屋というのは、城下から西に半里(約二キロメートル)ほど行った佐島港にある廻船問屋だった。討っ手に襲われた場合、ばらばらに逃げ、いったん黒崎屋へ身を隠すことになっていたのだ。
「行くぞ」
言いざま、鴨井は障子をあけ放ち、廊下へ飛び出した。四人がつづき、うちふたりが廊下を走って戸口の方へまわった。
鴨井は庭に面した雨戸をあけた。青白い月光のなかに、数人の黒い人影が見えた。いずれも白襷で両袖を絞り、袴の股だちを取っていた。すでに抜刀しており、月光を反射た刀身が銀蛇のようにひかっている。
鴨井も抜き放ち、庭へ飛び下りた。つづいて、吉井と奥田が飛び出す。
「来たぞ、討ち取れ!」
黒い人影の背後で、声があがった。
鴨井はその声に覚えがあった。大目付、丸尾柴三郎である。集まった討っ手は、丸尾の配下の横目付たちであろう。
討っ手は、飛び出した鴨井たちを取りかこむように走り寄ってきた。丸尾の他に六人いる。いずれも、双眸を白くひからせ、刀身を前に突き出すように構えて迫ってくる。獲物をかこんだ狼の群れのようだ。
「駆けぬけろ!」
叫びざま、鴨井は駆け出した。斬り合ったら、討っ手に仕留められる。この場は逃げるしか手はなかった。
鴨井の声で、吉井と奥田が別の方角へ走った。討っ手が、それぞれの行く手を阻むようにまわり込む。
鴨井の前に立った男が、ふいに甲声を発して斬り込んできた。が、肩に力が入り腰が引けていた。袈裟にふるった男の刀身は、鴨井の鍔元へ流れた。
鴨井は、その斬撃を撥ね上げ、刀身を返しざま横に払った。一瞬の反応だった。
男は絶叫を上げてのけ反った。腹の肉が開いて臓腑が溢れている。鴨井の切っ先が男の脇腹をえぐったのだ。
だが、敵の動きも迅かった。鴨井が刀身を払った瞬間をつき、右手にまわり込んだ男が斬り込んできた。その切っ先が鴨井の肩先をとらえ、皮肉が裂け、血が噴いた。
イヤアッ!
鴨井は凄まじい気合を発し、右手の男に斬りつけた。鴨井の頭のなかは真っ白だった。思考は停止し、手足が勝手に動く。
鴨井の捨て身の一刀が、右手の男の頭を割った。
鈍い骨音とともに血と脳漿が散り、男は腰から砕けるように転倒した。悲鳴も呻き声も聞こえなかった。即死である。
鴨井は走った。植木の葉叢が肩や顔に当たり、雑草に足を取られてもつれた。転げるように、鴨井は走った。
背後で絶叫が聞こえた。吉井か奥田のようだ。家の戸口の方からも剣戟の音が聞こえてきた。戸口にまわったふたりの仲間も討っ手と斬り結んでいるようだ。
鴨井は枝折り戸から通りへ飛び出した。後を追ってくる足音が聞こえた。振り返ると、討っ手がふたり駆けてくる。
鴨井は懸命に走った。通りの両側には、小体な武家屋敷がつづいていた。どの屋敷も夜の帳に沈み、洩れてくる灯もなくひっそりとしている。夜の静寂に、鴨井と討っ手の足音だけがひびく。
鴨井は路地を右手にまがり、すぐに武家屋敷の板塀の角をまがった。この辺りの路地は熟知していた。さらに、左手の路地をまがり、しばらく走ると背後の足音は聞こえなくなった。討っ手をまいたようである。
翌未明、鴨井は黒崎屋に逃げ込んだ。遅くなったのは、討っ手の追及を逃れるため、いったん別の方向へ逃げ、迂回して佐島港へたどり着いたからである。
黒崎屋の主人、彦右衛門はすぐに鴨井の傷の手当をし、納屋に匿ってくれた。幸い、肩先の傷は浅手だった。出血がとまれば、命に別条はない。
その日の午後、彦右衛門が納屋に顔を見せ、青田屋敷の惨劇の様子を知らせてくれた。すでに、城下から佐島港近郊まで噂は流れてきて、店の奉公人たちも知っているという。
「助かったのは、鴨井さまだけのようでございます」
彦右衛門は声を落として言った。
五十がらみ、いつも大きな丸顔に柔和な表情を浮かべていた。恰幅のいい体躯と静かな物言いが大店の主人らしい雰囲気をかもし出している。ただ、鴨井の前に立った彦右衛門はふだんとちがっていた。その丸顔には、苦悶の皺が刻まれていた。
彦右衛門の話によると、鴨井といっしょにいた四人全員が斬殺され、さらに抵抗した青田の父親までもが殺されたという。
「ひとり残された青田さまの母御はその夜のうちに懐剣で喉を突き、ご自害されたとのことです。まことに、おいたわしいことで」
「討っ手は、やはり丸尾か」
鴨井は声を震わせて訊いた。
「はい、丸尾柴三郎さまが二十人ほどの横目付を連れて襲ったようでございます」
「おのれ! 丸尾め」
鴨井の体が激しい怒りで顫えた。
「鴨井さま、お怒りはごもっともと存じますが、いまはご自身の身を守ることが先でございましょう。それに、いつまでも、奉公人の口をふさいでおくことはできませんので、ここにも長くはいられませぬ」
彦右衛門によると、奉公人が密告するようなことはないと思うが、船頭や荷揚人夫などの口まではふさげないという。
「そうだろうな」
それに、鴨井がここに匿われていることを丸尾たちが知ったら、黒崎屋にも多大な迷惑がかかるだろう。
「鴨井さま、江戸へ行かれたらどうです。定府のお方のなかにも、味方がおられるでしょう」
彦右衛門が声を低くして言った。
「江戸か……」
江戸にも同志はいる。鴨井の脳裏に佐々木数馬の顔がよぎった。ここ数年勤番として江戸に留まっているが、佐々木も熱心な同志のひとりだった。それに、佐々木は城下にある一刀流村山道場の同門でもあった。
「明日、米を積んだ船が江戸へ向かいます。船頭としてもぐり込めば、怪しまれずに江戸の地を踏むことができましょう」
「彦右衛門どの、すまぬ」
鴨井は絞り出すような声で言って頭を下げた。
鴨井たちの考えに同調したとはいえ、彦右衛門は商人である。危険を冒してまで、味方する必要はないのだ。
「何をおっしゃいます。わたしも、己の商いのためにしていることでございますよ。このままでは、わたしどもの商いがたちゆかなくなるのも、そう長い先ではございませぬ。その前に、この石館藩七万石の政を正していただきたいだけなのです」
彦右衛門はいつもの柔和な顔にもどって言った。
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