中禅寺湖の見事な紅葉。この時期はたくさんの観光客が訪れる

 

 日本を代表する観光地・栃木県日光。毎日のようにやってくる観光バスの乗客たちは、有名な寺社を見て、名物を食べてすぐ去っていく。しかし、日光は観光地である一方で、日本を代表する聖地でもある。

 日光の象徴ともいえる観光スポット、東照宮は徳川家康が死したのちに、ここに廟を立てよ、と言い残し、建てられたものだ。だが、家康はなぜこの地を選んだのだろうか。そこに、この地が聖地たるゆえんが隠されているように思える。

 旅は推理小説のような謎解きだ。地を這うように旅していくと小さな謎が解けていく。本当の日光に会いに行こうと思った。

 日光の信仰の地としての始まりは、家康の時代より千年近く前、奈良時代に遡る。その頃、勝道上人という僧が開いた修験場が日光の聖地としての始まりといえよう。

 西暦766年、南栃木真岡の人、勝道上人が今の日光市、神橋辺りで大谷川を渡り、庵を結び社を建て、そこを修行の地とした。それから16年の修行の後、難儀の末、二荒ふたら山登頂に成功。その時、中禅寺湖や華厳の滝を発見したと伝わる。

 もともと日光は、それ以前から山岳信仰の地ではあったが、勝道上人が全国に知られる修験場としての日光を開いたわけだ。今回は、まず、その信仰のバックボーンと言える、二荒山山頂からスタートした。

 

天を突き刺す巨大な剣と傾いた鳥居。幾多の修験者がこの山頂を目指した

 
森林限界を超えた二荒山山頂には奉納された剣と風で傾いた鳥居だけがある

 

 二荒山は、現在は男体山と呼ばれている。サンスクリット語のポータラカ(補陀洛)の音に由来し、観音菩薩の地をさすという。この二荒を、後に音読みが同じで見栄えのいい、日光という名に改め、現在に至っている。

 本当の日光を知るにはまず、その山に登ってみることにした。標高2486メートル、修行のための登山道はただ真っ直ぐに山頂に向かい、休むきっかけがない。非常に辛い山行だ。勝道は2度登頂に失敗し、3度目にやっと山頂に着いたという。

 

二荒山志津小屋登山口にある御婆像。日光の山々の乳母といわれている

 

 森林限界をはるかに超えた山頂は、荒涼たる世界だった。見下ろせば中禅寺湖、いろは坂の見事な紅葉が広がるが、山頂そのものは死の世界。自分と岩と雲と空だけの世界が広がる。

 以前にも書いたが、僧であろうと、修験者であろうと、剣豪であろうと、悟りを開くのに適した修行の場所とは、生と死の世界が間近に存在する場所なのであろう。

 次回は日光の生き物にあふれた“生の世界”である聖なる谷に案内するが、日光でも、観光地を離れれば、生と死、両方が息づいている。そんな場所を体験してもらいたいと思っている。