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 一週間ほどして、ミズキさんから連絡があった。会社のお客様相談窓口にまずは電話が入り、それからフミの指名があった。

「どうなったかな、と思って」

 ミズキさんの内容は催促であったが、口調は沈んでいた。まだ社内で稟議の途中であることを述べ、お待たせして申し訳ありません、という定型句を付け足した。そうですか、とミズキさんは短く答え、それからしばらく黙り、「おばあちゃんが亡くなって」と言った。それは、ご冥福を、と言いかけ、ご冥福は、キリスト教の人にはダメだった気がして、ではお悔やみを、という慣用句が思い浮かんだが、それは汎用的に許されるのか、逡巡をフミがしている間に、「すみません」と会話をミズキさんが引き取った。

「施設に入っちゃえば、あとは悠々自適かな、と思ってたんですけど、元気がみるみるなくなっちゃって、最期はあっけなく。やっぱり、ずっと暮らしてきた家から離れちゃったのが、よくなかったのかなあって」

 関係ないのに、すみません。ミズキさんは再び謝った。ひいおばあちゃんの家におばあちゃんが住んでいた、と言っていたのだから、確かに何十年というスパンで暮らしていたのだろう。フミは年数を頭の中で計算しながら、「おばあちゃん」にとって、「ひいおばあちゃん」は母親になるのだろうから、ミズキさんとしては、あの写真を色つきにして見せてあげたいという思いがあったのかもしれない、と推測した。遺影とか、いや、若すぎる、あるいは棺に入れたいとか、もしかしたら。が、それを口にすることは出過ぎているような気もして、「なるべく早くお伝えできるようにします」と言うにとどめた。

「青、だったと思うんですよ、やっぱり」

 ミズキさんは、電話を切る直前の、その残りの時間を惜しむように言った。「会社からしたら、迷惑な客だと思うんですけど、でも、やっぱり、私の記憶の中で、あのマフラーは青なんです」

 通話を切ったあと、しばらく会話ログが自動でまとめられる様子を、ぼんやりとフミは眺めていた。なにを考えていたか、フミはあまりそのときのことは覚えていないが、たぶん、思い返すことがあれば、実際は思い返すことなどなくとも、フミの母のことだった。母との記憶は、案外と多くはなかった。出産の折に体を悪くして以来、母は働きに出ることもなく、家にいつもいたが、それはどこか曖昧としていた。いつもいる、ということが、その原因かもしれない、とフミは思う。母はきっと、どこか、自分自身物足りないところがあったのだろう、フミの話を聞きたがった。学校でのこと、友達のこと、勉強のこと。フミが話すと、母はそれに感想を付け加え、ひとつの結論を導いた。たとえばフミが国語が得意なのは自分が幼いころから読み聞かせを続けてきたからであり、体育が苦手なのはフミが怪我を怖がるからであり、○○という友達と仲がよいのはフミのこれこれという性格に合っているからであり。母の言葉はフミの記憶の湖に沈んでいる。それはフミの記憶と溶け合い、果たして元々は何色だったか、わからなくなる。

 昼休憩のあとに、母から連絡があった。「心配はしなくていい」という前置きを彼女は簡潔にし、コウが怪我をしたという旨を伝えた。前置きがあってもなお、怪我、という単語に、フミは自分の心臓がぴくりと跳ねるのを感じた。外の公園で遊んでいて、ジャングルジムから足を踏み外し、顎のあたりを強打したということだった。病院にはすでにかかり、ぱっくりと傷が開いたために何針か縫った、と母は言い、謝罪の言葉を口にした。大げさではないが、真摯な調子のそれに、フミは、「そんな」と言いかけ、そこに母娘の距離よりも遠くて近いなにかを感じ、「わかった」と言い換えた。今は元気にしてるよ、と母は言い、実際にコウは電話口に出て、「だいじょーぶだよー」とおどけた声を聞かせた。けれど、フミは、電話を切ると上司に申し出て、早退をさせてもらった。

「すまなかったねえ」

 来なくてよかったのに、という言い草を決して母はせず、フミの顔を見ると最初にそう謝った。コウは? と問うと、リビングでお昼寝をしていた。つむった目尻には泣いた跡があり、フミはそれを避けるように、そっと彼の顔を撫ぜた。その間に母は、かかってきた他の保護者の連絡に受け答えをしていた。そうなんです、孫の方が怪我をして、はい、今日の自然遊びの集まりはみなさんで、はい、すみません。フミは母の様子を聞きながら、さきほどの自分とのやりとりとの差がどの程度あるのかを知らず知らずのうちに考えていた。定規で測るように、目方で見るように。

「歳だね」

 フミの横に来て、コウを見ながら、母はぽつりと言った。年齢は関係ないでしょ、とフミは反射的に答え、それが存外冷たく響いたことに自分でも驚き、「私もよく怪我したって、言ってたじゃない」と、その響きの余韻が消える前に重ねて言った。

「あんたはほら、ぼーっとしてたから」

 母は事もなげに言った。「半分、今の時間を生きていない感じだった。達観してるわけじゃなくって、なんていうのかしらね」

 そこで母は言葉を切り、フミは続きを待ったが、彼女は「買い物行ってくるよ」と腰を上げた。音もなく玄関のドアは閉まったので、風がびゅうと部屋の中を駆け抜けなければ、母がまだそこにいるような、そんな気がフミにはした。

 

 上司の許可をとり、ミズキさんには吽田の結果をそのまま伝えることにした。ベンジジン中毒事件のことや、東和合繊のこと、そこから導き出される販売されていない商品であるということ、公益性を鑑みたときに当社として確度の低い色で出力することはできうる限り避けたいということ。今までも顧客の要望に添えないことはあったが、ここまで詳しく報告することはなかった。だから、これは、フミのこだわりであったし、言葉の選択肢が正しければ、仁義とも呼べるものであった。フミは報告書をつくり、回覧でチェックを行い、それぞれの部署から判子をもらった。判子という文化はなかなかなくならない。判子の列の中には吽田のものもあったが、恐らく特注でなければ作れないであろう彼の変わった名字の押印に、特段の意識が載っているとは思えなかった。

 ミズキさんは会社の窓口まで来て、フミの説明のひとつひとつに、真摯に耳を傾けた。疑問があれば訊ね、わかりにくい表現は繰り返した。フミもそれに付き合い、時間をかけて、今回の報告を行った。

「わかりました」

 一通りの説明と質問と回答が終わったあと、ミズキさんは言った。「結論としては、青にはしたくないってことですよね」

 結論としては、と、その雑とも思える括り方に、フミは同意した。

「納得はしていません」

 ミズキさんは、テーブルに並べられた、二枚の写真を見つめながら言った。今度は、フミの方で色調を調整しながらプリントしたものであり、カラーの方は、より彩色が鮮やかに出ていた。赤いマフラーに、振り向く女性。「でも、理解はしました。公益性――でしたっけ。それも、わかる気もするし。もし私が、あなたと同じ立場なら、たぶん、同じ事を、そうやって、申し訳なさそうに言うだろうし」

「申し訳ありません」

 フミはその言葉に導かれるように、素直に頭を下げた。ふふっとミズキさんは笑い、「あなたって、真面目ですよね」と言った。フミは顔を上げる。ミズキさんと目が合う。

「でも、そういうこと、決めつけない方がいっか」ミズキさんはフミを見ながら言ったが、どこか独り言に聞こえる言い方だった。「あなたの感情も、性格も、好みも、あなたが決めることだから」

 フミはミズキさんを見た。ミズキさんは、いひひ、という、どこか少年のような笑い声を上げた。

「ひいおばあちゃんに言われたことがあるんです」彼女は言った。「ひいおばあちゃん、実際のとこ、ひいおじいちゃんに結構ひどいこと言われてて、でも、おばあちゃんのためにずっと耐えてきて。働きに出てたのだって、そういうのから逃れて、いつか、ひとりで暮らすためだって。どの仕事も長く続けられなくて、でも、転々と、どうにか。だから、お前も全部、自分で決めなって、言われました。特に、心の中は、お前の最後の家だからって。ときどき、頭ひっぱたかれて」

 最後の家。フミはその言葉を噛みしめたが、ミズキさんは投げやりに、まあ、ひいおばあちゃん、結局は最後まであの家にいたんですけどね、と言ったあと、「ひいおばあちゃん」の写真を両方、手に取った。

「これも、私の記憶の中だけの話です。証拠はないんですけど、信じてくれますか?」

 フミはうなずいた。うなずくつもりなどなかったのだが、訊かれた瞬間、ためらうこともなく。ミズキさんは、にいっと、唇の端っこを上げると、手に持った写真をフミに突き出した。

「赤と青、どっちの方が、似合うと思います? 正直なところ」

 フミは迷い、目が泳ぎ、その様子をミズキさんは可笑しそうに眺め、「今度もし会うことがあれば、教えてください」と言った。それから、規定の料金を払い、彩色された写真のプリントと、データを持って帰った。フミは彼女の背中を見送りながら、振り向く瞬間を待った。でも、彼女は振り返らなかった。

 

 日常は流れた。コウの傷も目立たなくなり、通常の彩色の仕事が通常通りに回り、特に顧客から色が違うとか修正をしろといった疑義が出されることもなく、日々は過ぎた。

 その青に気づいたのは、フミが最初ではなかった。むしろ、フミは、気づいたという人の列が物理的に存在するならば、その後ろの方、「最後尾はこちら」という看板のすぐ近くにいたことだろう。

 そもそも、その青は、落書きのようにも見えたし、実際に落書きだった。ペンキを刷毛で一往復半、横と斜めに塗られていた。実際にペンキだったのか、刷毛だったのか、フミには判別がつかなかったが、ああ、青だ、と彼女は思った。カラーコード・#0000FF。光の三原色。鮮やかというより、それ自体が明るさをもっている。

 フミがはじめに見つけたのは電柱だった。会社へ行く途中のそれには、歯科医院の看板がつけられていて、それを汚さないように、というわけかどうかはわからないが、看板の下、人間で言うならば臍のあたりに青は塗られていた。行きに横目で見たそれは、帰りにも残っていて、しばしフミは立ち止まり、その青を見つめた。脳裏に浮かんだのはミズキさんで、でもまさか、彼女がそんなことをするわけなかろうと、フミは首を振った。毛先の跳ねた青く細い端の部分は、フリンジに見えなくもなかった。果たして、マフラーのその部分に、意味などあるのだろうか。どのような機能的な役割が? フミはたぶん、そんなことを自分は考えていたのだろうと立ち止まっていたが、その思考はふいと猫のように消えて、フミはまた歩き出す。

 次にその話題を出したのは母だった。

「公園の、ベンチ」

 母が手羽元の筋を切りながら、青の話をした。ベンチの背もたれに、やはりフミが見たように塗られていたのだという。「その日はみんなで木登り大会してたのよ。コウくんは、お前と違って高いところが好きなんだね」

 私だって高いところは今は平気だ、とフミは言いたかったが、母のおしゃべりは続いたまま、コウが上から眺めたときにその青を見つけたこと、コウの「目端が利く」ことへの賞賛、そんないろいろがない交ぜになって、フミは口を開くことができなかった。

「いたずらかねえ」

 フライパンの油の音に紛れて、母の声は聞こえにくく、フミは聞こえなかったことにした。それから母は、自分の動画を、フミの会社とは別のところに預けて修正を行いつつ、汎用的なデータ化をしていることを告げた。なんで他のとこに、と言うフミに、「ほら、その顔」と母は言った。「あんたは、不満があると、まぶたがちょっと下がるんだよ。妖精でもぶら下がっているみたいに」

 そう言われてフミは、つい自分のまぶたを触る。帰ってきて、まだ落とし切れていないアイシャドウのラメが指の先につく。きらきらと、それはしている。

 

 吽田がふらりとフミの席にやって来たとき、その青については、様々な人が、様々に語っていた。グラスのカメラ機能がバグを起こすという現象があったことから、意図的なグリッチであるというものや、過去のストリートアートの模倣であるという視点、見つかった青をつなぐことで政府の重要な機密機関にたどり着けるという陰謀論。静かではあるし、現実の井戸端会議では決して上がってこないような内容が、ひそやかに、さざ波のように、ネット上には広がっていた。

「窓の外を見ろよ」

 開口一番、吽田はそう言った。言われるがまま、フミは窓の外を見る。穏やかな天気の、穏やかな空だ。

「隕石は降ってきてないな」

 吽田の口調は皮肉が混じっていたが、どこか楽しげであった。それから、ぽん、とホチキス留めされた紙を投げた。これは? というフミの問いかけに、吽田は答えず、読んでみろ、というように顎で示した。腹立たしい仕草だとフミは思ったが、「昭陽化成」という文字が目に入り、そこからつつつと目が滑り、「東和合繊と提携を結び……」という一文を見つけた。

「それは、昭陽化成という化学染料メーカーの社内報だ」吽田は、読み始めたフミに向かって話した。「ガリ版刷りで、少数部しか発行されなかったから、手に入れるのに苦労した。そこに書いてある通り、昭陽化成は、東和合繊と提携を結び、アクリル繊維の色つけを独占的に行ったそうだ」

 世界に羽ばたけ奇跡のアクリル繊維・トワロン、という小見出しがレトロな書体として躍っている。社内報らしく、各部署の社員をとりあげているコーナーで、商品開発部の女性社員の写真が載っている。

「『ひいおばあちゃん』」

 吽田は言った。「彼女だ」

 点描のごとく描写されたその写真は、吽田曰く当時の謄写版印刷を使ってのことのようだが、確かに、「ひいおばあちゃん」のように見えた。肩までかかる長い髪に、少しだけ微笑むその表情に、フミは懐かしさを覚えた。

「念のため、念のために、可能性を潰しておきたかったんだ」吽田は写真を指さす。「名前を訊いてくれればもっと楽だったんだが、やっぱり、あそこまで青だと言い張るのが気になってな」

 これも俺のプライドだ、そう言って吽田は笑った。フミは吽田の目尻にできた皺を見て、そこに彼の人間くささを感じ、目が合って、少し恥ずかしくなって、また社内報に視線を落とした。商品開発部の「ひいおばあちゃん」らしき人物は、トワロンを使用することで、安価に織物製品の生産ができ、そして自分たちの開発した染料で色とりどり染めることで、「心も体も」多くの人があたたかく思えることを嬉しいと語っていた。「寒さは人の思考を鈍らせます。人が人であるために、私たちの製品は作られるのです」

「じゃあ、やっぱり、あのマフラーは青ということですか?」

「そんなことはない」

 吽田は大きく息を吐いた。「可能性の天秤の重さが、少しだけ変わっただけだ。依然として、赤色である方が確度は高い」

 それは負け惜しみにも聞こえたが、あえてフミは「そうですね」と短く同意するにとどめ、ならば、と考えた。あの写真は、もしかしたら、自分の勤める会社の社会的な不公正を糺すために撮影したものなのかもしれない。密かに回収された青いマフラーを身につけ、振り向き、続きがあるような表情で撮る。これが証拠だ、と、他の誰かに知らしめるように。たとえ白黒であっても、その記憶の、鮮やかで明るい青は、消えないからと。

 この撮影をしたのは誰なのだろう、と、フミはふと思う。同じ志をもった社員だろうか。それとも、彼女の夫だろうか。だとすれば、ミズキさんは、「ひいおじいちゃん」のことを悪く言っていたけれど、彼らの関係はそうではなかったのかもしれない。もうそれは、誰にもわからない。その記憶は、どこにもない。どこにもなければ、存在しないことと、なにが違うのだろうか。

「吽田さん」

 フミは吽田に声をかけた。「吽田さんは、どう思いますか」

 吽田はじいっとフミを見たあと、思いもよらず、丸めて握っていた社内報で、フミの頭を軽く叩いた。

「自分で決めな」

 

 それからも、青は、ささやかに増殖を続けた。橋の欄干に、マンホールに、廃ビルの壁に。フミは気づいていなかったが、あの「ひいおばあちゃん」の写真は、いつのまにか「アーカイブ」に上げられていた。色のない、モノクロのまま。たまたまそれに触れた人々は、自身の好む色でマフラーの色彩を補完する。無数の主観がAIの確率論にノイズを混入させるたび、微かなバグが発生し、行動の予測に影響し、少しずつ、少しずつ、人々の行動を変容させていった。誰にも気づかれぬまま。そして、青は増えていく。青の意味は、それぞれの人間が考え、それぞれの人間が伝えた。その人の記憶によって。その人の人生によって。

 フミはいつも通りの毎日を過ごした。顧客の要望を聞き、確率論として、写真や動画に色をつける手伝いをした。母は毎日ホームケアラーとして自宅に来て、コウの世話をし、精力的に他の保護者とも関わり、小さくて広いコミュニティをつくり続けた。母は相変わらず動画や写真を発掘しては修正を依頼しているようだが、それよりも、フミはコウと一緒に、若かりしころの母を見ることを、いつしか楽しむようになっていた。記憶の中の母とは違い、そこでの母は生き生きと、ときにはどこか遠い目で、暮らしていた。ばあば、とコウは多くのデータの中から母の姿を探し出すことに熱中し、そのどれもが母であり、それでよかった。

 ある日、フミは、市場で大きな魚を見つける。バラマンディ、という名前がつけられたそれは、あのとき母が出した白身の魚のように見えた。バラマンディ。フミは口の中でその聞き慣れぬ名前を転がした。バラマンディ。帰ったら、母に教えよう、そう思いながら。

 

(了)