イイダカスミはまた水曜日にやってきたが、わたしが増やした観葉植物のパキラについては、最後までコメントをしなかった。だから、その日の彼女の様子は、いつもと違った、と言えるだろう。後付けであるにしても。

「そういえば、あのあとどうだった?」

 わたしはイイダカスミに「気持ち悪い」の件を訊ねてみた。叔父さんの家で暮らすようになってから二週間ほど経っていた。来訪が不定期でないのはわたしにとってありがたく、身構えてその日を過ごし、シミュレーションをあらかじめ行うことでわたしはわたしの苦手に対処していた。

「あのあと?」

 なんのことだか、という表情をしたあと、「ああ」と彼女は言った。「別に。今まで通りです。クラス違うし、関わり合いないんで。そういう意味では、机とか椅子と同じっていうか」

 イイダカスミが空とぼけた反応をしていたのはわかっていたので、わたしは少し沈黙をつくった。彼女は、挑戦的にわたしを見やったが、すぐにゆらゆらと眼球がさまよい始めた。そして、「ただ」と、息を漏らすように付け足した。「吐き気がするんです」

「吐き気」

「別に本当に吐くわけじゃないし、そこまでひどいわけじゃないんですけど」イイダカスミは自分ののど元に手を当てる。「なんか、吐き気の予兆っていうか、胃のあたりがちょっとムカムカして、そう、嘔吐のスタートラインに立つ感じ」

 おもしろい喩えだとわたしは感じたが、口には出さなかった。

「それは、彼に会うたびに?」

「会ってません」

 イイダカスミは訂正した。「せいぜいすれ違うだけです」

「その、すれ違うときに?」

「いえ」と答える彼女は慎重に言葉を選ぶ姿勢を見せた。「見てくるんです、彼」

「見てくる?」

「はい」

 少し、わたしの危機管理のアンテナが反応する言葉だった。

「それは……」どう訊ねようか、わたしは少々言葉を選ぶ。「どんな風に? たとえば、睨むとか」

「睨んでいるわけではありません」

 イイダカスミも、言葉を選ぶように言った。こちらは、どれが自分の感覚にあっているか、品定めをする空気だった。

「なんていうか、感覚としては見つめられている、に近いんです。クラスが違うから、会うのって、廊下とか、全校集会とか、それぐらいで、ほんと、そういうときにお互いがお互いを認識するのって、たいした時間じゃないじゃないですか。十秒とか、せいぜい。たとえばその短い時間、ずっと見つめられていたら、私もわかるし、嫌だな、と思うし、でも、サトウのは、そういう見つめ方じゃないんです。とにかく、そうやって彼に見られていることに気づくと、吐き気がするんです」

 要領を得ない言い方だった。イイダカスミにしては珍しいとわたしは思ったが、とりあえず、「そうなの」と、一度、クッションを挟むように言葉をつないだ。

「その、見つめ方、見る方法というのが、あなたにとって不愉快なもの、ということでいいかしら」

「不愉快、とまで言われると、ちょっと強い感じがしますけど」

 否定するように、イイダカスミはそれでも頷いた。

「吐き気がする、嘔吐のスタートラインに立つ、というのは、それは一般的には不快なこととして処理してるのだとは思いますよ」わたしはなるべく平板な調子で言った。「どうかしら、周りのお友達に相談したことはある? その、サトウくんにそういう見つめ方をされたときに、そのことを言ってみたりとか」

「あります」

 はっきりとイイダカスミは答えた。「でも、周りのみんなは、え? って感じなんです。そもそも、サトウがそこにいたのも、初めて気づくみたいな。それに、告ってきたの、私誰にも言ってないから、他の子に言いにくくって」

 わたしは、とりあえずイイダカスミの証言を自分の「保留」の引き出しに入れた。告白してきた相手、しかもあまり好意を抱いていない相手に過敏に反応する、というのはよくあることではある。とはいえ、いつものイイダカスミの雰囲気とは少し違う感じもしたので、わたしは一般的な、教師への相談や、次に同じことがあったときの状況をできるだけ、自分に無理のない範囲で言葉にして覚えるか、書き留めておくとよいことを伝えた。

「言葉にすることで、感情は飼いならすことができますから」

 なるほど、とそのときイイダカスミは、この場所に来て初めて納得したような顔をした。それはわたしの自尊心をくすぐる表情だったが、わたしはそれを無視した。

 

 時行叔父さんからはときどきメッセージが端末に届く。多くの場合は写真や短い動画が添えられている。だいたいは、彼らしいユニークな切り取りだ。現地の子どもの何気ないぼうっとした表情、空を飛んでいる風船、どこか不細工な野良猫、ホテルの一室でモデルのように立ちながら変顔をキメる叔父さん本人。それを撮影するミスミの笑い声も聞こえてきそうだが、ミスミ本人の画像はなかった。こちらとしても、人のパートナーの画像を好んで眺めるタイプではないので、返事に困らなくてよい。ウズベキスタンから出発すると言っていた彼は、おおよそ、あまり土地柄の推定できない構図をわざわざ使い、とはいえ、ときどきはその土地にちなんだものだろう、小説の一節や警句を送ってきた。詠み人知らずアノニマスのような風情で書きつけているが、実際はなにかの引用であり、わたしがいかにその一節を当てて返事を寄越すかを試している。検索すれば一度でわかってしまうものもあるだろうが、あえてわたしはせずに、その叔父さんの勝負ゲームに挑戦する。勝率はそんなに高くはないけれど。

 アフリカン・プリンスの葉が黄色くなっているのを見つけた休日、わたしは叔父さんのゲームに頭を悩ませていた。「与えれば与えられ、蓄えれば喪われる」という短い引用は、短すぎるがゆえに、やや陳腐に響き、どの時代・どの国にもありそうな言葉だった。メゾネットの上階に行き、そこの本棚から適当な本を見繕ってページを手繰るときに、中央のアフリカン・プリンスの姿に目が留まった。秋の終わりの、あたたかな日で、日光はじゅうぶんすぎるほどリビングを照らしていた。アフリカン・プリンスは、いつも通り、静かに高く立っていたが、その頭の部分の葉が黄色くなっていた。真っ黄色、というわけではなく、葉の外周にあたる部分の色が、ほんのりと薄くなっている。いつも、見上げる形でしか観察をしていなかったから、気づかなかったのだ。

「葉っぱが黄色いのって、問題ないの?」

 わたしは、リビングでモンステラに水をやっていたロボットに訊ねた。

「問題の可能性はあります」

 ロボットは答えた。「考えられる原因はいくつかあります。水のやりすぎによる根腐れ、日照不足、病害虫の被害、寒さ、エアコンの風などです。どれか当てはまりそうなものはありますか?」

「それを考えるのがあなたの役目でしょ」

 わたしが意地悪く答えると、「土中の水分量、定時スキャンによる葉と枝の確認、室内の空気の状態は問題ありません」と、澄ました顔で答えた。顔などそもそもないのだけど、そういう立ち居振る舞いに見えた。

「ということは、日光浴?」

 わたしは、叔父さんが気にしていた陽に当てる話を口にした。

「まだその時期ではありません」

 ロボットは即答した。「生育の状況にあわせ、外気温度やこの時期の日光量、今後の天気の見通しなどを加味しても、まだ早い状態です」

「でも実際、葉っぱがへんな色になってるし」

「生き物というのは」ロボットの調子は変わらなかったが、その言葉の選び方には、そう、選び方には、なにかの意志を感じた。温度のない、恒温動物のそれ。「変化し続けるものです。その変化すべてをとらえ、最適処理を行うことは不可能に近い」

 わたしは、まじまじとロボットを見つめた。わたしが最初に思い浮かべたのは時行叔父さんで、でも、次に浮かんできたのは、しばらく会っていないミスミだった。

「ということは、あなたは、まだアフリカン・プリンスを、窓際に移動しなくてよいと判断している」

「はい、その通りです」

 つまり、ロボットとしては、この葉の色の変化は生育上起こりうる不可避の成長過程の現象であり、それ以上対応する必要がないと言いたいのだろう。それは筋が通っていたが、しかし、自分の管理した時期に、そのようなことが起こるのは、今までなにもなかっただけに不安だった。わたしは、時差を計算しながら、叔父さんにメッセージを送った。アフリカン・プリンスの葉っぱの縁が黄色いものがある。ロボットは対応は必要ないというが、どうか。返事はすぐには来ない。わたしはロボットを見る。ロボットはわたしを見ていない。

〈僕の園丁さん、ご苦労様〉

 時行叔父さんから返事が来たとき、わたしはピザを焼くのに挑戦していた。ローズマリーを摘み、サラミと一緒に生地に散らす。予熱をしているところにメッセージが届き、わたしは鍋つかみを両手から外して確認した。

〈そのような症状が出てきたのであれば、日光浴をさせた方がいい、ということだそうだ〉

 ほら、とわたしは思い、ほら、とはどういうことかと、自分で自分をいぶかしんだ。念のためにロボットに、そのテキストを見せると、「私は不必要と判断します」と返事をした。「ですが、私が行うのはアドバイスまでです。実際に行動に移すのは人間だけです」

 わたしはためらった。どのような結果になるのであれ、ミスミの指示に従う方がよいとは思った。指示をしたのはミスミであり、わたしはそれに従っただけだからだ。だが、彼は現物を見ているわけではないから、その判断が正しいのかどうかがわからない。ロボットの方がその点では正確なのではないか。

 そう悩んでいると、「詠み人知らずはわかったかな?」と叔父さんからメッセージが追加で届いた。「与えれば与えられ、蓄えれば喪われる」という引用についてだ。わたしは素直に「わからなかった」と降参した。「それはそれは」と、叔父さんのニヤニヤした顔が浮かぶようなメッセージが届き、ジョージアの詩人、ルスタヴェリの『豹皮の勇士』からだと告げた。聞いたことがない詩人だった。叔父さんは、架空の「アラビア」と「インド」を舞台とした、恋と友情の物語だ、と寄越した。〈登場人物たちは、常になにかを探し求めている。そして、それは手に入る。なぜなら、それらはすでに手の中にあるからだ〉

 とりあえず、わたしはしばらく様子を見ることにした。葉っぱの写真をとっておき、毎日観察をして変化がないかどうかを確認する、というルーティーンを決めることで、ある種の弁解として自分を納得させる。ロボットは、そんなわたしを気にしないかのように、自分の果たすべき職務を、過不足なくこなしている。

 

 イイダカスミの担任の女教師は、彼女の名前を聞くと、露骨に嫌そうな表情をした。

 学校カウンセラーは、当然だが、学校の教員とも連携をとる。あくまでもカウンセリングルームに来た範囲での話しか聞けないので、普段のクラスでの様子や、家庭環境について必要な情報があれば聞いておきたいし、また、こちらから情報を提供するのは義務のひとつでもある。

「彼女、どんな話をしています?」

 わたしは、たとえ担任だろうが守秘義務があるので、めったなことは話せない。でも、バスケ部のことや、真面目すぎるがゆえに大変そうであるという点などを伝えると、「バスケね」と言った。

「ベンチ要員なんですけど、けっこう態度が大きくて、先輩たちに不評なんですよ」

「ベンチ?」

「技術はあるんですけど、チームプレーができないんです」

 担任は苦笑しながら言った。「まあ、それはもうお分かりかもしれませんが。友達だって、そうそう多い方じゃありません」

 わたしは顔には出さなかったが、それとなく話を続け、バスケ部のキャプテンは別にいること、彼女のポジションはポイントガードでもなんでもないこと、公式試合では一回も出してもらえていないことなどを知った。なるほど、とわたしは思う。なるほど。

 次の水曜日も、イイダカスミはやってきた。話す内容は相変わらずだった。キャプテンの重圧、引退試合までの残り試合での活躍の仕方、友達と遊びに行ったショッピングモールでの小さな不満。わたしは相槌を打ち、必要な助言を加えた。

「吐き気はどうなったかしら」

 わたしはさりげなく訊いた。まだあります、とイイダカスミはうつむきながら答えた。「まだ吐き気があるってことは、まだ見てくるってことです」

 そう、とわたしは答え、「先生には?」と重ねて訊ねた。イイダカスミは首を振り、「でもだいじょぶですから」と、にっこりした。「自分でなんとかできると思います」

 わたしは、サトウ、という男の子について考える。担任によれば、サトウという苗字の生徒は、その苗字ゆえに複数いるとのことで、誰がイイダカスミに告白をしてきたかはわからない。そもそも、そうやって告白をしてきたサトウくんがいるのか、そもそも、彼女が表現するサトウくんそのものが存在するかどうか、それすらもわからない。でも、わたしは彼女と話すときは、彼がいるものとして話さなければならない。それは国というものを話すことと似ているとわたしは感じている。わたしたちは国家そのものを視覚的に認識することはできないが、しかし現前に国は存在し、わたしたちは統治されている。そこにはルールがあり、義務がある。

 

 アフリカン・プリンスの葉の黄色は、日に日に目立つようになっていった。緩慢ではあるが、確実に。

「必要ありません」

 しかし、ロボットはかたくなに日光浴の必要性を否定し続けた。「むしろ、直射日光による被害のデメリットの方が大きいと考えます」

 わたし自身も素人なりに、世話の仕方について検索をしてみたが、ロボット以上の情報は出てこなかった。誰かほかに詳しい人にと、そういった店の人間にあたったこともあるが、希少性が思ったよりも高く、知識としてあまり持っていなかったり、果ては売却を迫られることもあって、訊くのをやめてしまった。

 ミスミには、叔父さんを通して再度質問をしてみたが、「日光浴をさせた方がよい」という結論は変わらなかった。ただ、しつこく訊ねすぎて、今の状態をむやみに悪い方にとられるのは本意ではなかった。それはミスミへの気遣いではなく、叔父さんへの恐れであることに、わたしは気づいていた。ただでさえ神経質なミスミの観葉植物の管理を、わたしのせいではないとはいえ、失敗しているかもしれないということが伝われば、最悪、この旅行自体が中止になってしまうかもしれない。そうなったとき、あの叔父さんは、わたしのことをどんな目で見てくるだろうか? 多分、いつもと変わらない。でも、わたしは、その瞳の色の変化を探そうとする。

 そのことと関係しているわけではないのは理解しつつ、それでも、感覚としては葉の変色と比例するように、イイダカスミの相談は、毎週水曜日に加えて、月曜日も増えた。部活は「特別に休ませてもらった」と彼女は言い、「チームメイトには理解してもらっている」と言い訳を挟み、「自分には今こういう時間が必要だ」と勝手に結論付けた。そして、サトウのことを話した。彼の視線について語り、自身の吐き気について詳細に説明した。わたしは彼女を受容し、傾聴しながら、会話の着地を見つけられずにいた。

 時行叔父さんからは、呑気なメッセージが続き、わたしはだんだんと、その通知に苛立つようになった。地域性をわざと排した写真も小癪に思えてきたし、おおよそ現実の生活と乖離した警句の文章も腹立たしかった。いまここで、死にかけている生き物がいるかもしれないのに、どうしてそんな太平楽な思いでいられるのだ。それは半ば逆上であることは理解しつつ、そのような感情にわたしはなった。

 ただ、その葉の一点さえ除けば、素人目にも、観葉植物たちは生き生きとした緑をしていた。アフリカン・プリンス、ウンベラータ、オーガスタ、エバーフレッシュ、ベンガレンシス、モンステラ、アルテシーマ、オリーブ、コンシンネ、パキラ。わたしは彼らをそらで唱えられるようになり、じいっと動かずにリビングでたたずむ彼らの、ちょっとした風の動きによる葉の揺れにも気が付くようになった、気さえした。ミスミ。この緑に囲まれながら、わたしは彼のことを思い出すようになった。彼の気配を感じているわけではない。彼の気持ちが、胸にしっくりとはまる、そんな感覚だった。

 

 ミスミと初めて会ったのは、わたしが社会人になりたてのころだった。

 そのときはまだ「密会」という名前ではなかったが、時行叔父さんとの食事会は続けていて、会ったのはちょっと高級な天ぷら屋のカウンターだった。

 第一印象は、叔父さんの言葉に引っ張られていたのだろうけれど、高貴、とか、気品、とか、そういった単語だった。それは、ヨーロッパあたりの王室というわけではなく、もっと土着の、あまりほかの人間には知られていないような里の隠し子、というような風情であった。

 ミスミはあまりしゃべる人間ではなかったから、相対的に叔父さんはその日、かなりのおしゃべりだった。イカと、銀杏と、しいたけと、と、ミスミは目の前で揚がっていく天ぷらを、ちまちまと食べた。食べなれた人の食べ方だったが、「もっと栄養あるのを食べんと」と、叔父さんはミスミの意向を無視して注文するものだから、ミスミの目の前には天ぷらが積み上がり、困ったようにミスミはそれを見つめていた。

 結婚をするのだと聞いたときは意外ではなかった。叔父さんの状況は知っていたし、パートナーがいることもわかっていた。今回の「おゆうはん」は、かしこまったものではないけれど、わたしへのそれなりの敬意をこめた叔父さんの恋人のお披露目会であることも、この会がセッティングされたときからわたしはわかっていた。わたしはわかっていたが、それから以後、叔父さんと会うたびに、わたしは、ミスミの前に積み上がる天ぷらを思い出した。叔父さんは頭のいい人だったから、わたしと話をするとき、叔父さんの話題は以前とほとんど変わらなかった。しかし、いや、だからこそ、叔父さんの会話の端に、ミスミとの生活のにおいをほんの少し嗅ぐたびに、どのようにその山を突き崩そうかと天ぷらの前で困った顔をする、ミスミの淡い瞳の色を、わたしは思い出した。

 でも、今回の旅行で、時行叔父さんは、ミスミの名前を一度も出していなかった。時折立ち上る気配をわたしは嗅ぐだけで、アフリカン・プリンスの様子を聞いたときでさえ、直接の名前は出なかった。それはおそらく、幼いころから付き合いのあるわたしへの、彼なりの配慮であることを、わたしは知っていた。けれど、わたしは考えてしまう。果たして、ミスミは本当にそこにいるのだろうか。わたしは空想する。本当のミスミは叔父さんの魔術によってこの観葉植物のどれかに変えられており、彼が連れて世界を旅している人間は、その抜け殻なのではないだろうか。

 無論、そんなことはないから、わたしは観葉植物の世話を続ける。アフリカン・プリンスの頭の葉っぱは、いよいよ黄色みが深くなってきた。もうわたしは、ロボットにも訊ねないし、ロボットもそんなイレギュラーは存在しないかのように振る舞う。この家はなにも変わらない。ときどき、ミスミの部屋を想像する。クラゲの足。それはまだ、そこにあるのだろうか。

 

 この前は本当に吐いてしまって、とイイダカスミが言ったので、なら見に行きましょうか、とわたしは口を開いた。え、というように、イイダカスミは目を見開き、わたしを見た。

「そのサトウくんを、わたしも一緒に見に行くのはどうかしら。第三者の立場から見ることで、あなたに対して、もう少し適切な助言ができるかもしれない」

 案の定、イイダカスミははじめは断った。けれど、わたしが静かにそうした方がいい利点を語り続けることで、結局は、「遠くからなら」と承諾をした。サトウはサッカー部に所属をしており、わたしたちはそのままグラウンドに出ることにした。

 冬が感じられる日で、空は薄曇りだった。この学校は、大会などの常連ではないが、それなりに部活は活発で、いろいろなスポーツがグラウンドでは実施されていた。サッカー部は練習試合のようなことを行っており、赤と青に分かれたビブスを来た少年たちが、ボールを追いかけていた。

「フォワードなんです。キャプテンだから、黄色い腕章をつけてると思います」

 ふうん、とわたしは鼻を鳴らし、人工芝の上から、彼らを眺めた。動き回る人間を追いかけるのは、観葉植物のそれより難しかったが、できない話ではなかった。ひとり、ひとり、わたしは目で追っていく。そこにはいろいろな顔があり、表情があり、動きがあり、声があり、けれど、わたしは、そのどれもがぼんやりとしていて、あまり変化がないように感じられた。人としての輪郭はぼやけ、薄灰色の空に溶けていく。

「どこかしら?」

 わたしは訊ねた。イイダカスミは、あれ、あれ、と、戸惑った声を上げ、おかしいな、あれ、と繰り返した。

「いつもはいるんです」なおも人の形をしたものの動きを目で追いながら、イイダカスミは言った。「キャプテンだからオレ休めなくってさ、みたいな感じのこと言ってたし」

「そう」とわたしは短く言った。「あの、ほんとなんです、すみません」と息の上がるイイダカスミに向かって、「たまたま休みだっていうこともあるじゃない?」とわたしは慰めた。慰めにはなっていないだろうということも知りつつ、そう言いたくて、仕方がなかった。

 その日、わたしはカウンセリングルームから、アグラオネマを車で運んだ。鉢を抱えながら、リビングのいくつかの場所に置き、遠くから眺め、どこかぴったりとくる場所がないかと考えた。窓辺、キッチン、本棚、ローテーブル。結局、ひとつ小さな棚を動かして、アフリカン・プリンスの横に置いた。背丈の差もあり、親子のようにそれは並び、わたしは深く頷いた。

 

 それからしばらくして、時行叔父さんたちは日本へと帰ってきた。わたしは連絡を受け取り、空港で二人を出迎えた。

「どうしても寿司が食べたくなってね、予定より早く帰ってきちゃったよ」

 叔父さんはそんな軽口を叩いた。ミスミは、その叔父さんのスーツケースに寄りかかるようにして、少し疲れた表情をしていたが、以前会ったときと、あの天ぷら屋のカウンターでしゃんと背筋を伸ばして座っていたときと、寸分たがわずそこにいるように思えた。わたしは、ちゃんと人間として存在しているミスミを、いぶかしげに見る。

 回るのがいい、ということで、叔父さんは、空港の中にある回転ずし屋にわたしたちを連れて行った。カリフォルニアには行かなかったなあ、と言いながら、叔父さんはカリフォルニアロールを注文し、ミスミは鉄火巻きやかっぱ巻きを食べた。わたしは乾いたマグロを一口で食べながら、叔父さんたちの旅行記を聞いた。青年のような冒険はなく、かといって老境に達したかのような穏やかな旅路だったわけでもなさそうで、叔父さんの話術もあいまって、わたしは久々に笑い転げた。

「いやいや、チカちゃんと話すと楽しいね、やっぱり」

 叔父さんはそう言ったあと、わざとらしくミスミの顔を覗き込んだ。「もちろん、君との旅行が楽しくなかったわけじゃない。これは、機会均等の問題だ」

「動物園の動物にたまに会いたくなるのと一緒でしょ」

「話が早いね」

 ミスミはニコニコしながら、わたしたちのやりとりを聞いていたが、「アフリカン・プリンスは」と、唐突に訊ねた。「アフリカン・プリンスは、元気ですか?」

「元気です」

 わたしは答えた。これは嘘ではなかった。あの葉っぱの問題をのぞき、そしてそれをロボットが問題と認識していないのだから、元気であることに嘘はなかった。たとえ、その根が地中深くで腐っていたとしても、それは目に見えないのだから、わたしには、わからない。

「日光浴はどうでしたか」ミスミは言った。「気持ちよさそうにしていましたか」

「だいぶ」

 今度は、わたしは嘘をついた。「うんと伸びをしているみたいにリラックスしてました」

「お、チカちゃんもだいぶ熱狂者マニアになってきたね」

 叔父さんがそう茶化した。わたしはミスミと顔を見合わせ、お互いがお互いの瞳を覗き込み、それは絶対に勘違いだとわかっているけれど、でも、その奥にある気持ちの閃光の輝きを、たしかにとらえた気分になった。

 次の日、イイダカスミが学校に来なくなったと、担任から報告があった。確かに、最近はカウンセリングも休みがちで、でも、よくあることなので、わたしとしてはそこまで気にしていなかった。

「サトウという男子が、ストーカーまがいのことをしていて」

 イイダカスミの担任は、わたしにそう伝えた。「サトウ本人もそれを認めています。振られたからって、その腹いせだったそうです」

 先生になにか相談していませんでしたか? 担任はそう訊ねたが、いえ、とわたしは否定をした。とくに、なにも。

 叔父さんの部屋の鍵はまだ返しておらず、わたしはその日、あの大きなリビングのあるマンションへと帰った。ラウンジを抜け、エレベーターであがり、ドアを開けた。靴はなく、二人ともどこかへ出かけているようだった。ロボットが、音もなくわたしのもとへやってきた。にっこりと、わたしは笑いかけ、その目を、目に見えるランプを覗く。

 リビングに行った。アフリカン・プリンス、ウンベラータ、オーガスタ、エバーフレッシュ、ベンガレンシス、モンステラ、アルテシーマ、オリーブ、コンシンネ、パキラ。それに、アグラオネマ。わたしは自分の目で、ひとつひとつの観葉植物たちをチェックした。そのどれもツヤツヤと緑が深く、触れば弾力があり、手を振るように葉を揺らした。

 叔父さんからメッセージが届いた。いつも通りの、他愛もない内容だった。わたしはソファに座り、いくつか言葉を考え、返事をする。叔父さんはミスミと食事をしているようで、お酒も回っているのか、軽快に会話のラリーが続く。いつもそうだ、とわたしは思う。いつもそうだ。叔父さんとの会話は楽しい。軽やかで、風のようで、でも、ただそれだけだ。叔父さんは、わたしのことを、そういう目でしか、見ていない。だからわたしは、正気でいられる。

〈そういえば〉叔父さんは、思い出したようにそんなメッセージを送ってきた。

〈最近、ロボットの感じが変わったんだよ〉

〈どんな風に?〉

〈うーん、雰囲気が変わったというか〉

〈ロボットなのに?〉

〈それは確かに。うまく言葉にできないな〉

〈叔父さんでも言葉にできないことがあるんだ〉

〈語りえぬことについては沈黙せねば〉叔父さんは続ける。〈なにか設定でもいじったかい?〉

 いいえ、とわたしは言う。これは本当だ。でも、わたしはロボットに語り続けていた。叔父さんへの愛を。憎悪を。一日中、暇さえあれば。ロボットはただただその言葉を聞いていた。だから、彼がそれを学習したのかどうかはわからない。

 

 おいおい、人間たち、どうしてきみたちは鼻にしわを寄せるのだ? ぼくの匂いが、これでもまだ不十分だとでもいうのか?

 

〈ミスミに訊いてごらんなさい〉

 わたしは最後にそう返事をして、それから端末の電源を落とした。あの、チャペックの本を読み聞かせたのは、ミスミかもしれない、とわたしは考えていた。この家で暮らすために。正気を保つために。イイダカスミを見ていた瞳。今なら、ミスミの気持ちが、わかる気がした。でも、わかることと、見えることは、違う。

 パキラの鉢を触った。土は乾いていて、わたしはじょうろを持ってきて、やさしく注ぐ。

「水は足りています」

 警告をするように、ロボットは言った。

「あんたになにがわかんのよ」

 わたしは答え、水をあげ続けた。

 

(つづく)