どうぞのいす

 

 港の市の秋の日は、

 大人しい発狂。

 私はその日人生に、

 椅子を失くした。

 

 「港市の秋」中原中也

 

 

 そのいすは矛盾していた。

 見た目は平凡だった。いや、正確に記すならば、中身も(いすに中身があるとして)平凡だった。メーカーは不明だが、曲木のいすだ。白黒なので色は写真ではわからないが、ニスが塗ってあるだけで、おそらくは茶色や、それに近い色なのだろう。トーネット社の「№14」に姿は似ているが、アンティーク性はない。大量生産の、どこにでもあるいすだ。

 一九八一年に、すでにそのいすは「山里団地前」にあった。

 それより少々前の、一九七九年五月五日、「これで町をスウイスイ」と新聞記事でバス停が紹介された。小見出しとして、「祝 みどり町巡回バス開通」と付け足されている。大きな写真にはモノクロながら、新しさが伝わる緑色の車体と、テープカットをする当時の沢野市長(五二)の姿がある。それは大手の新聞ではなく「みどり新聞」という、みどり町のあれこれを伝えるミニコミ誌に近いもので、だからこそ、このような緊急性も重大性もなさそうな事柄を、大きくとりあげることができたのだろう。

 段落かわり、「ぼくもひとりでのれるかな?」という小さな見出しは、小児運賃が一定期間無料になることについてのもので、「少し遠くの公園に行く足にしてもらえば」という市役所交通課職員の談話が載っている。そこに小さな写真があり、ま白いワイシャツを着た子どもが、笑顔ともしかめ面ともつかない表情で、バス停のベンチに座っている。そのベンチは、町のクリーニング店の「クリーニング ア*イ」という店名が白抜きのペンキでもってかかれている。子どものかげにかくれているために、*の部分は不明であるものの、おそらく「クリーニング アライ」なのだろう。無論、「アオイ」でも「アサイ」でもいいわけだが、クリーニングなのだから、「アライ」だと思った方がいろいろと都合がよい、ので、このベンチは「アライ」としておく。そのバス停は「山里団地前」と名前がつき、それからおよそ四十年後に取り壊しになる運命はそのときは露とも知らず、のんびりと直立していた。

 みどり町のアーカイブズを探っても、実のところ、ほとんどこの巡回バスについての情報は出てこない。これは当然と言えば当然で、町のコミュニティバスが話題にのぼることなど、日常でほとんどない。それは不運なことではなく、それが日常の風景のひとつというものだからだ。ぼくたちは、近所の犬小屋に首輪だけ残されていることについて、ことさらニュース性をもってとりあげたりはしない。それは報道ではなく、記憶に近いものだからだ。そして、毎日の生活というものは、そういった、些細な記憶の積み上げによって営まれている。ニュースというのは、人が死んだとか、犯罪だとか、よほどの心温まるケースか、そういうものでしかない。

 実際、次にこの「みどり町巡回バス」の話題が出るのは、一九八一年三月七日で、バスが事故を起こしたというものだった。みどり町新聞に写真が載っている。記事によれば、幸いなことに死亡した人や大けがをした人はおらず、何人かの乗客が転倒した際に打撲を負ったぐらいだったそうだが、バスの前面は大きくひしゃげており、それなりにインパクトのある画像だった。 紙面をそのままデータ化したものなのか、写真は粗く、ぼくは何度か拡大を試みたものの、二種類あったうちのどちらのバスの車体なのかは判別できなかった。それに、そんなことは、今回の調査で特別重要なものではなかった。

 事故が起きたのは、あの「山里団地前」のバス停で、それは記事内には書かれていなかったが、粗いながらも写真から判別ができた。翌日の続報の記事には、単純に記者が間に合わなかったのだろうか、バスの写真はなく、代わりにバス停前の、大きくひしゃげたガードレールに「事故現場の様子」とテキストが振られていた。そこには、まだ「アライ」のベンチがあったが、なぜか「クリーニング アライ」のロゴは塗りつぶされていて、(おそらく)真っ青の無地に直されていた。そして、その隣に、あのいすがあった。

 いす

 このいすは、バスの開通当時にはなかった。停留所に初めから設置されていたベンチとは別に、誰かが後ほど設置したことになる。「みどり町巡回バス」全体の乗降数は調べることができたが、バス停それぞれの乗客の数については資料が残っていなかったから、通勤や通学の時間帯にこのバス停がどれほどの賑わいをみせていたのかは想像するしかない。とはいえ、団地自体は規模が大きかったのだから、それなりのお客がこのバス停を利用し、そして、そのベンチだけでは足りないと誰かが判断をし、このいすを置いたのだろう。曲木の、凡庸な、大量生産のひとつのいすを。しかし、いすは矛盾をしていた。

「事故現場の様子」の写真に載ったいすの脚には、もしいすを犬に喩えることが許されるならば、その左前脚の部分には、シールが貼られているのが見てとれた。正直、解像度の低い画像では、ぱっと見ただけではそれが本当にシールかどうかは判別できないだろう。しかしながら、ぼくにはこれがシールだと、やや強い調子で断言をすることができる。なぜなら、それはぼくが貼ったからだ。ぼくはいま中学生だから、十年ほど前、祖父の家にあった、このいすに、シールを。でも、ぼくが貼ったシールが、ぼくが生まれる何十年も前の新聞の記事に存在している。これは矛盾だ。大いなる矛盾には、大いなる検証が伴う、とぼくは思う。

 

(つづく)