当たり前ではあるが、なかなか、サリーがそのランナーを抜くことはできなかった。
「もう一回!」
という彼女の声を聞きながら、ぼくたちはあれこれと進言をした。どうみてもこの映像は成人男性であり、まだ未成年の女の子が太刀打ちしようとするのは無理筋である。それは君の努力不足でもないし、ましてや才能がないわけでもない。しかも映像というものは嘘をつくのだから、現実のものであるとは限らない。なあサリー、君の魅力は走ることだけではないだろう、なんてことまでニッシーは口にした。このままではぼくたちの秘密基地がアスリート養成所になってしまう、というぼくたちの懸念は一致していたが、なかなか彼女の意志を曲げることは難しかった。
サリーが立ち止まったのは、挑戦を始めてから何日経ってからのことだろうか。ぼくたちはすでに彼女を説得することを諦め、あれこれとホログラム装置のデータの解析を行っていた。彼女の挑戦の成否はともかく、もしこのランナーが現実に存在するとなると、「一キロ三分」というペースは中途半端な速度だった。陸上の公式競技に一〇〇〇mはなく、一五〇〇mという記録で考えるしかない。男子の日本記録や世界記録は3分20秒から30秒台で、単純に一〇〇〇mに直すなら、余裕で三分を切る。となると、この選手は、別に陸上を専門としている選手ではないのかもしれない。かといって、一般人にとってみると十分に速いタイムだから、参考にすることもできない。ならば、どうしてこの記録映像が使われたのか、余計にわからなくなる。
「キロ三分はひとつの区切り」
と、ぼくたちがあれこれしゃべっていると、サリーが口を挟んだ。彼女は汗をタオルで拭きながら、ぶっきらぼうに続ける。「普通の人にしてみると難しいタイムだけど、中長距離の選手なら、ゆくゆくは楽にこなさなきゃならない。もしかしたら、そういうアスリート向けの映像なのかもね」
高地トレーニングでもしようかな、とサリーは笑い、一緒に笑いかけたぼくは、それが自虐的な物言いだと気づき、黙る。サリーの祖父だか祖母だかはネパールの出身で、彼女の父親は、彼らが来日したあとにできた子どもだから、サリーは三世ということになる。たぶん、山岳のある、彼女が一度も訪れたことのないその国を指しての「高地」だったのだろうけど、同じ「外国人」のぼくらとしては、それを一緒になって笑うわけにはいかない。ニッシーとぼくは、ペルーにルーツがあって、両親共に日本生まれで家族そろって仲がいいし、ぼくなんて四世だったりするからペルーに行ったこともなければ向こうの言葉も文化もよく知らない、もう日本人と変わらない人間だと思うんだけど、そうは思わない人もいる。そう思わない人は、増えたり減ったりしていて、でも、なくならないから、ぼくたちはたぶん、こうして集まったんだろうし、サリーは、自分の限界に挑戦し続けているのだ。それは、ぼくには持てない感覚だった。ぼくは、そういうことから逃げ続けていたから。
「なあ、サリー」
ニッシーは真面目な顔で、サリーに向き合った。「お前が諦めの悪いことは知ってるけど、たぶん、これは、無理だ。いつかはできるかもしれないけど、今すぐは、不可能だよ」
なにか言い返すかと思ったが、サリーは黙ってうつむいている。
「でもそれは、諦めることとは違う」ゆっくりとした調子で、ニッシーは続けた。「オレたちには、オレたちのやり方があるっていうことだ」
それから彼はおもむろにフライングバイクの柵をつかむと飛び乗り、そこから盛大にジャンプをした。彼は図体が大きいものだから、どしん、とけっこういい音がする。なになに? と、半分頬を引きつらせて、自分の隣に落ちてきたニッシーをサリーは見つめる。
「オレたちはいまどこにいる?」
日本、とぼくは言いかけ、それを遮るように、ニッシーは、「遊園地だ」と言った。「いま、ここにあるものを利用して、あの幽霊を出し抜いてやるんだよ」
ニッシーは、どこからデータをとってきたのか、みどりヶ丘遊園地の図面を見せた。お客さんが行き交うホログラムに替わって、ぼくらの目の前には、まあるい盲腸の代わりのみどりヶ丘遊園地が浮かんでいる。ニッシーは2Dの平面図を立体に仕立て、あの幽霊のランナーを走らせた。ミニチュアの中を、ランナーは駆けていく。
「こいつが何者かは知らないが、残っている映像と座標を確認すると、どうやらちゃんと遊園地の通路を使って走らせるように調整されていることがわかる。壁をすり抜けたりはしないということだ。律儀だよな」
どうやらニッシーは、サリーがタイムを縮めようとしている間に、ホログラム装置に残されたデータの解析を行っていたらしい。ケンカも多いが、やるべきことはやる男なのだと、ぼくは改めて彼を見直した。「そこを逆手にとるんだ」
「逆手?」
「要するに、ショートカットだ」
露骨にサリーが顔をしかめたので、「アトラクションの中を突っ切るとか、お前が思っているようなことじゃない」と、ニッシーは慌てて言い添えた。「陸上にも、インベタってやつがあるだろ」
内側のレーンギリギリで走ることだよ、とニッシーはぼくに教えてくれた。
「お前だって、わざわざ外側のレーン使って中距離も長距離も走らないだろう?」
「そりゃそうだけど」
「あのゴーストは、通路の中央を走るように設計されている」ニッシーは、ホログラム上で、ランナーを動かす。現実は照射範囲があるので、彼が噴水より先の通りをどのようなコースで辿っているのかはわからないが、図面を走らせると、きっちりとど真ん中をランナーは走っている。おまけに、階段を避けてスロープを上り、進行方向にある花壇や植木を迂回している。「サリーは真面目だから、あいつの横をぴったりついて走ってたけど、そんなことしなくていい。遊園地って言うのは、走るという意味では無駄の多い作りをしている。歩く道は弧を描いているし、いろんな障害物がある。だからこそ、オレたちは地形の裏をかいて、このコースの最短距離を導き出すんだ」
そう言ってニッシーは、サリーが走るべきコースを赤いラインで示す。階段を駆け上がり、植え込みを跳び越え、ときどき低いブロックをまたぐ、そういうコースだ。
「これだけで、一〇〇か二〇〇は縮む。これなら、追いつけるんじゃないのか?」
サリーは図面をじいっと眺めてみたが、一言、やってみる、と呟いた。そうこなくっちゃ、と、ニッシーはサリーにグラスを渡した。「今のコースが、そのグラスを通して表示される。試してみてくれ」
サリーがコースを確認している間に、ぼくは、「今日はサリーにやさしいね」とニッシーにこっそり言った。うるせえよ、とか、照れ隠しのようなことを口にするかと思ったけど、返ってきたのは意外にも、「まあな」という肯定の答えだった。
「たぶん、昔に比べりゃ、オレたちみたいな人間も暮らしやすくはなったんだろうけどさ」と、ニッシーは言う。「がんばってもがんばっても超えられない壁みたいなのは、きっと、この先も増えてくるんだと思うとさ、ホログラムの、ニセモノのランナーぐらい、追い抜いてやりたいじゃないか」
ぼくは黙った。正直に言えば、ぼくは、ぼく自身が、自分のナショナリティに関することで嫌な思いをしたことはあまりなかった。これから世代が下っていけば、それは限りなく少なくなっていくのかもしれない。だけどそれは、壁がなくなったということではなくて、迂回する道が増えたという、ただそれだけのことなのだ。いったい、何代、何世代積み重なれば、ぼくは、ぼくたちは、この国の人間になれるのだろうか。そんなことを考えるのは、楽しいことではないから。ぼくはたぶん、嫌な思いをしないように生きていくすべを身につけてしまったのだ。だから、そうやって、誰かの背中を押せるニッシーが、羨ましかった。
「準備できた」
サリーが短く言った。よし、とニッシーはデバイスのタイマーをちらりと見る。ランナーの出現は、いつも少し誤差がある。ニッシーはそれを、装置側の機械的なバグだろうと結論づけていた。だから、多少のスタートのずれは許容することにしていた。
「がんばれ」
と、ぼくは彼女の背中に声をかける。ぼくができることがそれぐらいなことにがっかりするけど、それは声をかけない理由にはならない。サリーは軽くうなずくが、まっすぐ前を見つめたままだ。
スタート、の合図と共に、サリーは走り出した。ランナーもほぼ同時に出現する。サリーは内側ギリギリを、ためらいなく走り、どんどんと彼を引き離していく。
「いいペースだ」
グラスの位置情報をデバイスのタイムを見比べながら、ニッシーは言う。いけるかもしれない、とぼくも固唾をのんで見守る。がんばれ、という声が、また、自分の口から漏れる。
だけど、後半、明らかにサリーは失速をした。内側のコースを忠実に守ってはいるけれど、スタート当初に見せた、あの爆発的なスピードは見られない。ぼくたちは、遠くに姿が見えた彼女に向かって応援をし、手を振り続けたけど、先に噴水前の通路に現れたのは、あのランナーだった。結局サリーは、今までのタイムとあまり変わらない記録となった。倒れこむようにベンチに横になった彼女に、ぼくたちはなんと声をかけていいかわからなかった。
「真っ平らな地面を走るコースじゃないから、想像以上に体力が削られた」
しばらくあとで、サリーは言った。「やっぱ、だめなのかなあ」と続け、あとは言葉にしなかった。その細い腕で顔をぬぐいながら、ずうっと、仰向けになっていた。
それから、ぼくたちはあまりみどりヶ丘遊園地に集まらなくなった。「あー、あたし練習」と、サリーは顔を出さなくなり、「うるさいのがいなくなってよかったよ」と、ニッシーは口にしながらも、気乗りしない様子で学校から先に帰ることが多くなった。
ぼくも足が向くことが少なくなったが、ときどきひとりで遊園地を訪れた。門のキーを隠している場所は三人で決めたから、ひとりでももちろん問題なく開けられるけど、でも、そういう問題じゃない、ということもわかっている。
フライングバイクのペダルを回し、発電機からバッテリーに電気を送る。ぐおんぐおん、という音がして、ホログラム装置が起動し、また、お客さんの群れが遊園地の通路を行き交う。ぼくは、彼らひとりひとりの顔を眺める。幸せ。たぶん、そういう言葉についてぼくは考えていたのだと思う。このみどりヶ丘遊園地は、ずいぶん長い歴史があり、記憶がある。このホログラムの映像は、パブリックドメインの、きっと、この遊園地だけにとどまらない人間たちの映像をかき集めたのだろうけれど、この場所に相応しいだろう人間たちを、AIかなにかが、オートマチックに収集したにすぎない。この群衆の中に、ぼくの、ぼくたちのような顔はない。だけどそれは、ぼくたちが幸せではない、ということにはならないし、それはきっと、ものさしの違い、ということでしかない。
ランナーがやってきた。音もなく。
ぼくは彼をにらみつけるように見つめ、彼の進路を塞ぐように立つ。彼はぼくのことなど見えないように、いないように、ただただまっすぐ前を見ている。どうして彼は走っているのだろうか。なんのために走っているのだろうか。この場所で。誰もが幸せを感じるような、こんな場所で、ただただ前を見つめ、ペースを乱さず、黙々と。
目が合う。
そんなわけがない、と、ぼくはすぐさま否定する。それはたまたまで、もしくは、ぼくがそう思いたいだけだ。そんなぼくの混乱になど気づかないように、彼は立ち塞がるぼくをなんなく通り抜ける。手応えなどなにもない。三分。ぼくはまた彼を待ち受けるために待つ。三分。長い時間ではない。鳥が仲間と挨拶し、エサを少しだけついばむような、たったそれだけの時間だ。ぼくはまた、彼が現れるのを待つ。もちろん、彼は時間通りに現れる。太陽やその他の星々が、天文の暦に従って空に姿を現すように。ぼくは彼を見る。でも、彼はぼくを見ていない。見ていなかった。
ぼくはようやく違和感に気づいた。また三分を待つ。待ち受けるには長い時間だと思う。彼はやがて現れる。ぼくは彼の顔をよく見つめる。表情が違う。また三分待つ。顔を見る。気づかなかったのは、画質が悪かったこともあるけれど、ぼくたちは、彼の背中ばかり追いかけていたからだ。ぼくたちは勝手に、このランナーは遊園地の外周一キロを走っているのだと考えていた。でも、この噴水前に来るたびに、彼の表情は、視線は、気がつけば、腕の振りも、ストロークも、少しずつ違った。いったいこの幽霊のランナーは、何メートル走っているんだ?
もう一回挑戦しないか、というぼくの言葉に、サリーは明らかに気乗りしない声で返事をした。でも、したくない、とは言わなかった。ニッシーは、でもなあ、という顔をしたが、口には出さない。柵にもたれかかって座る二人を、ゆっくりと見る。ぼくは、二人を強引に誘って、みどりヶ丘遊園地に来ていた。
「ねえ、ザリガニのこと、覚えてる?」
ぼくはサリーに向かって言った。彼女は少し笑って、「ニッシーが自慢してきたやつね」と返すと、ニッシーは「それはお前の方だろうが」とやり返した。なに? とすごんでみせるサリーを見て、少し調子が出てきた彼女たちを久しぶりに見られてよかった、とぼくは思う。
「あのときは、一番大きいザリガニを捕まえようって、みんなでがんばったよね」
「まあ、サリーの負けず嫌いのせいだけどな」
ニッシーは減らず口をたたきながらも、懐かしそうな目をした。「オレがでかい石を持ち上げてる隙に、ミチオがすばやく網でとったり」
「あたしの指示も的確だったでしょ」サリーも口を挟んだ。「あたしは目がいいから、ちょっとの動きも見逃さなかった」
「それにしちゃあ、スカも多かったけどな」
「それはあんたが鈍かったからでしょ」
「まあまあ」
ぼくは笑いながら間に割って入る。それから、「つまりさ」と言い足した。「ぼくが言いたいのは、またみんなで一緒に挑戦しようってことなんだ」
「みんなで?」
「うん」
ニッシーの言葉に、ぼくはうなずく。
「リレーにするのはどうだろう?」
サリーはなにか言いたげに口を開いたけど、すぐに閉じた。ぼくはその様子を見ながら、「残念だけど、今のぼくたちだと、彼には勝てない」と続けた。「でも、ぼくたち三人が力を合わせて走れば、勝てるかもしれない」
ぼくは、あのときの「ショートカット」を使ったサリーの走りのログを見せた。「確かに、全体のタイムは振るわなかったけど、ほら、前半はすごくいいペースだ。このペースを維持できれば、三分なんて余裕で切れる」
「だけどできなかった」
サリーは息をついた。「この走り方だと、あたしのスタミナが持たない」
「だからリレーなんだ」ぼくは言った。「前半のサリーの爆発力を使って一気に差を広げる。君のスタミナが切れるころに、ぼくやニッシーが交代する。そうして、あのランナーを追い抜いてやるんだ」
「でも」
ためらいがちにサリーは言いかけ、黙った。言いたいことはわかる。それは正攻法ではない。正攻法じゃないことなんてぼくは知っていた。でも、正しいことが常に最善ではない、ということもぼくは知っていた。
「あのランナー、誰かわかったんだ」
ぼくが言うと、ニッシーは目を丸くした。充電しておいたバッテリーの電源をつけ、ホログラムを起動する。お客さんの映像に交じって、やがてあのランナーが走ってくる。ぼくはその画像をキャプチャし、空中に固定した。「ほら、この部分」ぼくは、ランナーの肩あたりを指さした。「ここに、木があるのがわかるかな。ヤシみたいな」
二人は顔を寄せて覗き込む。その様子を見ながら、「たぶん、ニッシーの言うとおり、この画像は、パブリックドメインとか、そういうネット上で見られるものをつなぎ合わせたものだ」と続けた。「このランナーも多分、なにかの記録映像からトリミングされている。だけど、その処理が甘いから、こうしてところどころ、当時の背景が残ってしまっている」
これは、ビンロウだ、とぼくは言った。「あまり日本に生えている木じゃない。調べたら、アジアだと台湾が有名らしい」
「台湾?」
「うん、この人は、どうやら台湾の選手らしい」
それからぼくは、この幽霊のランナーが、一周するごとに表情や動きが微妙に違うことを言った。ぼくがじっくりと遊園地の通路のど真ん中に居座り、その表情や動きのひとつひとつを分析したところ、一〇周で、また一周目に戻ることがわかった。
「一万メートル」
ぼくは、ランナーの肩をたたくフリをした。「この選手は、一万メートルの選手なんだ」
「一万メートル?」サリーは目を丸くした。「そうしたら、世界記録に近い記録になるじゃない」
「そうなんだ」ぼくはうなずく。「当時、そういう記録を出せそうな選手は、確かに台湾にいた」
「当時って、いつ?」
ぼくは、あらかじめキャプチャしておいた別の画像を出した。今度は、ランナーの首元に、横断幕の一部が写っている。「『皇紀』と見えるだろう? だからたぶんこれは、植民地時代の台湾じゃないかと思うんだよね」
台湾は半世紀ほど日本による植民地の時代があったが、おそらくその中でも後半、一九四〇年前後だろうとぼくは言った。
「そのころの出来事といえば、東京オリンピックだ」ぼくは言った。「もちろん、開催はされなかった。でも、調べてみると、台湾からも日本の選手として期待されている人たちがいたらしい」
彼らはアミ族といって、台湾の少数民族ということだった。そういう人たちが、「日本人選手」として、東京オリンピックでは期待をされていた、ということをぼくは初めて知った。その線から調べてみると、台湾で開かれた陸上競技大会の記録映像が残っており、この遊園地で走るランナーと同一のように見えた。だが、彼らの名前は残されていない。
「だけど、なんでわざわざそんな選手の映像を使ったんだ?」
ニッシーの疑問はぼくももっていたから、素直に「わからない」と答えた。
「もしかすると、AIが無作為に選んだ結果なだけで、ただの偶然なのかもしれない」ぼくはじいっと、止まったままのランナーの顔を見つめる。彼は前を、前だけを見ている。「でも、その偶然が、ぼくたちの前に出されている、ということの方を、ぼくは大事にしたいんだ」
当時の彼らと、ぼくたちを同一視するなんておこがましいことはぼくも知っていた。だけど、だからこそ、ぼくは彼を追い抜いてみたいと思った。彼らよりも、はるか先の時代を生きるぼくたち。そのぼくたちが、彼に追いつけないなんて、悔しいじゃないか。初めて、ぼくは、誰かに、勝ってみたいと思ったんだ。
「なあ」
重々しくニッシーは言った。少しだけ、頬をゆるませて。「これって、やっぱ、オレも走らなきゃだめか?」
「当たり前でしょ」
サリーは、ばん、と強く彼の背中を叩いた。「ひょろひょろのミチオだけじゃ、あたしのバトンは受け取れない」
そうしてぼくたちは練習を始めた。作戦はシンプルだ。サリーが先頭で一気に幽霊のランナーを引き離す。それから、ミニジェットコースターの鉄骨の前あたりでニッシーに引き継ぐ。この区間は障害物は多いが、その分ショートカットがしやすい。ニッシーは、図面から割り出した最短距離を駆け抜け、最後にぼくにつなぐ。最後のコーナーは、平坦で、体力のないぼくでもなんとかなりそうだからだ。
とはいえ、なかなか計画通りにはいかなかった。サリーはさすがに安定的な走りを見せたけど、ニッシーは駆け下りるべき階段につまずくし、ぼくは三〇〇mもない距離の後半に息切れがしてしまった。ぼくの横を、当然だけど、息切れもなく追い越していく彼の姿を見るのは憎たらしかった。
「ミチオはスタミナづくり。ニッシーはダイエット」
サリーはそう言い放って、ぼくたちは家に帰ってからもトレーニングに励んだ。こんな日々がずっと続くと思っていたけど、夏が来て、暑さに参っていたときに、みどりヶ丘遊園地がついに取り壊されるという話を聞いた。日付を聞くと、そこまで時間もなかった。工事の関係者も入ってくるだろうし、ぼくたちは、残された時間が少ないことを知った。
「いよいよドーピングでもするか」
ニッシーの軽口に、サリーは「あたしのキスとか?」と茶々を入れると、「そりゃ逆効果だろ」と、それでもちょっと顔を赤らめながら彼は言った。ぼくは、自分のコースでタイムを落としていることを知っていたから、そんな二人のやりとりを見ても、あまり心が晴れなかった。ぼくの様子に気づいたニッシーは、肩に腕を回す。
「大丈夫だって」
サリーも微笑んだ。大丈夫。すてきな言葉だ、とぼくは思う。特に、友人に言われると。
でも、ぼくたちが、そのランナーを追い越すことはなかった。取り壊しより前に、北門のキーがつけかえられてしまったのだ。開かなくなった門の前で、ぼくたちは途方に暮れた。
「こんな終わり方ってよお」
ニッシーは、門の鍵にいろいろ細工をしようとしたが、どれも徒労に終わった。サリーは唇を噛みしめて、じいっと、門の隙間から遊園地の先を見つめている。まるで、待っていれば、あのランナーが走ってくると信じているみたいに。
「もう一回だけ、挑戦してみようよ」
帰り道、うなだれる二人に向かって、ぼくは言った。どうやって、とニッシーはいぶかしげな表情になる。
「本物の遊園地で」
ぼくは言った。
次の日、ぼくたちは学校をサボって遊園地に来た。隣町の、みどりヶ丘遊園地よりもきれいで整っていて、魅力あふれるアトラクションのある遊園地だ。平日午前中ということもあり、人はそこまで多くない。絶好の競走日和だ。
「ここの園の大きさは、みどりヶ丘遊園地とおんなじぐらいだ」
と、ぼくはあらかじめ説明していた。「ぐるりと円になっているところも似ている。さすがに距離までは同じじゃないけれど、グラスをかければ、レイヤーで、みどりヶ丘遊園地のコースを再現できる」
この、本物の遊園地を使った「競争」を、二人はすぐに賛成してくれた。どんな形でも、ぼくたちはあのランナーに勝つべきだと、そう思っていたのだ。
「チャンスはそう多くないかもな」
ニッシーは言った。「今度は、警備員がオレたち悪ガキを捕まえに来るかもしれない」
「一回で決めよう」
サリーは靴紐を結び直していた。それから、ぼくたちを見上げる。「あたしたちなら、大丈夫」
ぼくたちはそれぞれグラスをかけ、位置についた。距離から考えて、サリーは移動販売車の前、ニッシーはお化け屋敷のあたり、ぼくは、フライトシミュレーターの機械の前。
「あのランナーは実装できなかった」ニッシーは残念そうに言った。「処理が重くなってうまくいかなかったんだ」
「平気だよ」
ぼくは首を振った。「何百回とあいつを見てきたんだ。もう、幻なんかじゃない」
用意はいい? とグラス越しのスピーカーに、サリーの声が響く。ぼくは、「うん」と返事をし、任せとけ、と、ニッシーは大きな声を出した。耳が痛い、とサリーは文句を言ってから、カウントダウンを始めた。
スタート。
サリーの息づかいが聞こえる。いつも通り、インベタでぎりぎりを走っているのだろう。姿は見えないけど、目を閉じれば、彼女の姿はすぐにわかる。あの幽霊のランナーを、彼女はみるみる引き離す。サリーは力強く走り続ける。いつもの彼女だ。
「ニッシー!」
サリーの声と共に、おう! というニッシーの叫びが差し込まれる。彼の大きな体が跳びはねている。ここの遊園地はフラットで段差が少ないけれど、彼の目にはあのみどりヶ丘のでこぼことした通路が見えているはずだ。階段を駆け下り、花壇を跳び越え、ニッシーは額に汗を噴き出しながら走ってくる。きゃあっという他のお客さんの声も混じっているから、彼は本当に突進しているのだろう。姿はすぐに見えた。ニッシーはぼくの名前を呼ばない。代わりに、パチン、と、バトン代わりにぼくの手を叩く。痛い。叩きすぎだ。でも、その痛みとともに、ぼくは走り出す。がんばれ、という彼の声が聞こえた気がしたけれど、本当かどうか、ぼくにはわからない。ぼくはただ走ることに集中する。すぐに息が切れそうになる。大丈夫。その言葉を思い出す。呼吸を整える。大丈夫。ゴールはすぐそこ。ぼくのグラスには、あの噴水が見える。ぼくのすぐ後ろにべったりと、なにかが張りつき追いかけてくる。でも、ぼくは振り切る。その影から、逃げ切る。ミチオ! と、誰かが、ぼくの名前を呼ぶ。そうだ、ぼくは逃げているんじゃない。ぼくは、走っているんだ。ただ、前を見て。
そしてぼくは、走り切る。あの幽霊の背中を、一度も見ないで。
みどりヶ丘遊園地の跡地を、一回だけ見に行ったことがある。
跡形もなく壊され、更地になったそこに、また遊園地でもできれば面白いのだけれど、現実はそうでもなく、つまらない商業施設が増設されるんだそうだ。
当然、ぼくたちがこっそり開けた門もなく、「立入禁止」の看板を横目に、ぼくはそこに足を踏み入れた。思ったよりも感慨はない。雑草はぼくの腰ぐらいの高さまで伸びていて、夏の風に揺れている。汗をかきながら、ぼくは歩き続ける。グラスをかけて確かめれば、あの噴水の場所が、ぼくたちがおしゃべりを続けた場所がわかると思うけど、あえてぼくはそうはしなかった。それは、思い出を大事にしてるとか、そういう話じゃなくて、そうする必要がないぐらい、ぼくの目にはっきりと映っているからだ。
空は高く、風はまだ吹いている。ぼくは、気配を感じて、振り向こうとするが、どうにか我慢をする。それから、立ち止まって前傾姿勢をとり、カウントダウンを始める。スタート、という声がどこからか聞こえて、ぼくは、走り出した。