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赤と青

 

 写真の女性は輝いている。

 どこかの商店街だろう通りを彼女は歩いている。金物屋や、クリーニング屋があり、看板はレトロで、時代を感じさせる。彼女は背中を見せているが、しかし首だけをぐるりとして、振り向いている。驚いたような、あと一秒先には笑顔になるような、そんな顔だ。背は高く、その表情は、若く、希望に満ちあふれている。おそらく、おそらくだが、この写真を撮影した人物が、彼女に呼びかけたのだろう。なんと? それはわからない。当たり前だが、当時のカメラに、音声を録音する機能はない。あったとしても、ふつう、そういうものを人は残さない。記憶とは、そういうものだ。残るもの、残らないもの。残すもの、残さないもの。彼女は輝いている。ように見える。すくなくとも、フミはそう思った。

 ひいおばあちゃんです、という言い方を、ミズキさんはした。モノクロのその写真を指さし、「似ていますか?」と、彼女はそのときフミに訊ねた。「ひいおばあちゃん」の髪は肩まで長く、振り向いた拍子の軌跡を残したウェーブが強調されているそれは、目の前にいるミズキさんと似ていなくもない。でも、目をひいたのはそれぐらいで、二人の間には時代以上の隔たりがあるように感じられた。フミは、写真の女性をじっと見つめた。少女と呼ぶには遠すぎる。でも、大人になって、たとえば、母と呼ばれるほどには幼く見える、その瞳と、視線がぶつかる。

「ですよね」

 と、ミズキさんはフミの返答を待たずに言った。「私も、そう何回も会ったことがなくって。子どものころだったし」

 ミズキさんは、フミよりは数段若く見えたが、年齢のただの離れというよりは、幼さを感じさせた。おそらくは言葉遣いではなく、語彙の少なさや選び方にあるのだろうとフミは考えたが、それはきっと自分よりも上の世代も考えていることだと、自分が歳を重ねたことをまざまざと実感させられる。

「で、赤いですよね、これ」

 ミズキさんは「ひいおばあちゃん」を指さした。フミとミズキの目の前には、二枚の写真がある。わざわざミズキさんは印刷したのだろう。ひとつはモノクロ、もうひとつはカラー。カラーの方には、フミの会社のウォーターマークが入っているから、テスト画像をプリントアウトしたものだ。そのウォーターマークの方の、「ひいおばあちゃん」のマフラーは、赤く彩色がされている。

「赤じゃないんですよ、これ」

 青なんです、とミズキさんは続ける。それから、ミスですよね、と付け加える。わからない、とフミは思うが、わからない、とは言えない。

 そもそも、ミズキさんの担当はフミではなかった。フミの勤める会社は、画像や動画の補正や修正をする業務を他の取引会社を通じて行っていたが、自治体の「アーカイブ」事業の発展を受けて個人の受注も始めていた。案外と多かったのがデータのカラー化で、古い写真や動画の色づけを望む人が多かった。「アーカイブ」に収めるには、より現実に即したものを、という認識らしい。

 当然だが、ミズキさんにも、その内容についての説明は行われたはずだった。AIによる解析と、技術者による手作業のハイブリッドで行っているため、多少一般の業者よりも高くはなるがクオリティは上がる。AIはただの確率的な推測だが、人間はそこに、当時の流行や既製品であればメーカーやその流通の判断、もしくは本人の嗜好などまで加味して、「まるで探偵のように」精度を上げていくことができる、云々。もちろん、タイムマシンはないので、確実な色を出せる保証はないということまでもセットで。契約書にはサインもしてある。

「でも、青なんですよ」

 ミズキさんは口をとがらせた。「だから、やり直してほしいんです」

 彩色について、現物を確認したあとにクレームを言う顧客は今までもいたので、フミとしてはそのマニュアルに沿って対応をするだけだった。①顧客の主張する色に根拠はあるか②ある場合、証明するものはあるか。フミは自分の仕事に独創性があるとはついぞ考えたことはなかった。社会の隙間を縫うような仕事だ。きっと誰かが代わりにやったところで、違いもない。本物や偽物というわけでもなく、玩具売り場に並ぶぬいぐるみの差異に誰もが無頓着であるのと一緒だ。

「見たことがあるんです」

 もちろんフミの思いに気づくことはなく、①について、ミズキさんはそう主張した。「ひいおばあちゃんの家で、子どものころ。たぶん、このマフラーだったはず。青でした。真っ青。紺とかじゃなくて、青」

 たぶん、だったはず。その言葉尻を捕まえるような真似はせず、現物があるかどうかをフミは淡々と訊ねた。ない、とミズキさんは言いにくそうに答えた。「ひいおばあちゃん」は、この写真をどうやら大切にしていたようで、アルバムの中でも特等席(最初のページ)に入れていた。「ひいおばあちゃん」の家にそのまま住んでいた「おばあちゃん」も老人保護施設に入ることとなり、家を壊すこととなったから、部屋の中のものを整理していた際に、この写真だけは残したいと思った。その際に他のものも探したが、マフラーについては出てこなかった。①も②も、彼女は十分な条件を満たせていない。

「でも、確かに覚えています。青でした。そのときの会話も覚えてます」

 ミズキさんはそのとき、すてきな色だね、と「ひいおばあちゃん」に言ったということだった。「クジラみたいって、そのとき、私言ったんです。だって、赤いクジラなんていないじゃないですか。だから、このマフラーは、青だったと思います」

 なるほど、とフミは頷いた。赤いクジラはいない。それはその通りだ。そこに論理の機序としての誤りはないが、いくつかの反論はすぐに思いついた。そもそも、写真のマフラーとミズキさんの思い出のマフラーは同一なのか。クジラを黒だと表現することができる場合もあり、そのときは青でもないかもしれない。究極的に言えば、あなたは、あなたの記憶が正しいと、誤りがないと、自信をもっていえるのか。

「子どものころの記憶なんてアテにならないって言われるかもしれないけど」ミズキさんは、フミの沈黙から言葉を探し出したように言った。「でも、自信があるんです。青だって」

 フミは、左様でございますか、とやや慇懃に返事をし、「弊社でも再度検討いたします」と告げた。お願いします、とミズキさんは頭を下げた。調査は行うが、決定が変わらない可能性のあること、なるべくお客様のご意向には沿いたいが公益性の高い事業であるからお引き受けできない場合があること、調査の結果が変わらない場合でも通常料金は頂戴すること、などを伝えた。ミズキさんは神妙に話を聞いていたが、

「公益性?」

 と口を挟んだ。「公益性って、なんですか」

 フミは口を開きかけ、つぐんだ。ミズキさんはなにか言いたげな表情をしていたが、フミの言葉を待ち受ける空気が感じられた。「説明がご意思に沿うものかわからないのですが」と、フミは話を再開した。「我々は自治体のアーカイブ関係の事業も扱います。原則、アーカイブされた記録に関しては、それが過去として確定します。その際に、誤った出力データで登録されてしまうと、弊社の責任問題になるだけではなく、それから先の、人類の」人類? 大仰な言葉が口を突いて出たことに、フミは自分で驚いたが、そのまま続けた。「……人類の、未来の人類にとって、出鱈目として記憶されることとなります。それは、避けるべきことである。これが、公共性・公益性であると考えます」

 途切れ途切れにしゃべったが、ミズキさんは聞き終わったあとも、特に反論しなかった。お願いします、ともう一度頭を下げた。彼女が帰り、自分のデスクに戻ってから、フミは窓の外を見た。横断歩道があって、信号が点滅している。それが切り替わる前に、ゆっくり目を閉じる。

 

 吽田から連絡があるまで、ミズキさんの件は思い出さなかった。忘れていたわけではない。たとえば目の前を、少し長身の女性がつかつか歩いているとき、彼女が振り向きやしないかとぼんやり思っている自分を見つける。でも、そこにミズキさんの「ひいおばあちゃん」のことはよぎらない。澱のようにたまった記憶のかけらが、ふわりと浮かび上がるだけだ。そして、たいがいの場合、前を歩く人が振り返ることはない。

 吽田は営業部に来ると、迷いもなくフミのデスクまで来て、ぽんと紙の資料を置いた。数字がごちゃっと書いてある。

「青はないわ」

 そう吽田は言った。ミズキさんの話だとすぐにわかったが、フミは彼の態度への反発もこめて、困惑した視線を彼に送った。ひいおばあちゃんの件だよ、と、吽田は言った。吐き捨てるように、というと言い過ぎだが、歯に挟まった小骨を丁寧に口から出すような雰囲気だった。

「青である確率はゼロとは言わない」吽田は続けた。「すべての可能性は君にも俺にも開けている。でもそれは、明日隕石が局所的にうちの町に落っこちるけど奇跡的に君と俺は生き残る、そういう類いの可能性だ」

 吽田は若い。技術は確かだが、その口の利き方で煙たがる人も多い。もしかしたら、とフミは危うく思っていたが、やはり文句を言ってきた。

「順を追って説明したいから、俺の作業部屋に来てもらえるか」

 行きたくはなかったし、行く義務もなかったが、そのあとの煩雑さを考えるならば、従うより他はなかった。同僚が哀れむようにフミを見たが、彼女はことさら吽田の猫背を見た。

 技術部の作業はそれぞれの割り当ての部屋の中でブースごとに分かれている。数人一組で動くのが常だが、吽田はひとりだ。彼の技術力の高さもあるのだろうが、結局はその人となりなのだろう。アーカイブ事業が各自治体で本格運用になり、その「客観的」な記憶の確保に向けて、フミが働く修復作業の会社は大きくなってきた。人員も増え、組織としての対応がメインになってきているから、吽田のような職人的な気質をもつ社員はもう多くない。膨大な「公式」の記録を手がけるのだから、彼がこだわる手作業が介入してくる時間的余裕はないのだ。フミは、吽田の雑然としたデスクを見る。黄ばんだ紙の雑誌に、色見本帳が山と積まれている。修正自体はデジタルで吽田も行っているが、色調の確認をアナログにこだわる理由を、以前彼は、「なぜならこの時代にデジタルなディスプレイはなかったからだ」と、不愉快そうに答えた。これもまた、フミが営業部の疑義(この色合いは当時なかったのではないか)を持っていったときだった。「俺たちが修復しているのは紙にプリントされた写真でも、デジタル化されたモノクロフレームでもない。記憶なんだよ。記憶は、目で見たものしか焼きついていないんだから、俺たちも太陽光の反射のもと、目で見たもので修復していくんだ」

 見た方が早い、と、吽田は「ひいおばあちゃん」の映像を立ち上げた。「ひいおばあちゃん」の立体化されたモデルが、吽田の作業スペースに浮かぶ。

「**県**市のみどり町だ」昭和何年、と正確な年を吽田は言った。「根拠はこの金物屋とクリーニング店の看板。同名の店舗は他の町でもあるが、同時に両側に並んでいるのはみどり町だけ。クリーニング店の開店時期と、金物屋の閉店時期はそこまで離れていないから、年代も限定できる」

 彼は空中で細部を拡大化して見せた。通りに伸びる影にマーカーをつける。電柱のようだ。「服装からも季節が冬であることはすぐに想像できるが、恐らく十二月十三日。影の角度と長さから、当時の一般的な電柱の高さを基準にして、太陽の仰角と方位角を逆算させた。時間も、午後三時十分、というところだ」

 細かな日付や時間まで算出した吽田を、フミはどこか冷ややかな目で見ていたのだろう、彼は苦笑しながら「面白がって探偵ごっこをしているわけじゃないんだ」と言った。

「問題のマフラーだが、ありがたいことにタグが見える」

 吽田は写真中央の女性の首元を拡大する。「東」までがはっきり写り、あとは「禾」の偏が切れて見える。「東和合繊。当時新興の合成繊維メーカーだ。流通量からして、アクリル繊維のトワロンが使われたマフラーでほぼ間違いない。しかし、このとき、商品のラインナップには赤色しかなかった」

 だから、青色はあり得ない、と吽田は「ひいおばあちゃん」を等倍に戻す。モノクロの彼女は、まだこちらを見つめている。

「当時のことはよくわからないんですけど、マフラーの色が赤だけって、ずいぶん限定的じゃありませんか」

「いい質問だ」

 吽田は空中に手をかざし、画像を引っ張った。雑誌の広告だろうか。「新商品!」というレトロな手書きの赤文字に、マフラーや手袋などが紹介されている。「同じ年の九月の婦人雑誌に載った広告だ。東和合繊の新商品ということで紹介されている。ウリは安さだ。そして、ここには赤と青の二色が展開されている。ほら、このケーブル編みのパターンと、七センチという長めに揃えられたフリンジ、同じだろう?」

 広告には、女性モデルが真っ赤なマフラーを、男性が青いマフラーををつけて微笑んでいる。吽田はそれを、「ひいおばあちゃん」のマフラーと重ね合わせた。確かに一致する。

「ただ、実際の販売にはタイムラグがあり、市場に出回ったのは、確認できた早いものでも十一月まで待つことになる。その上、色は赤だけだった」

 そう言いながら、吽田は別の画像を出した。新聞や雑誌などの記事が大小様々に空中に展開された。「職業病の絶滅補償をせよ!」「許されぬ!行政のサボ、被災者無視」といった、強い言葉が並ぶ。「昭和も半ばをすぎて、ベンジジン中毒事件という労働争議があった。大手の化学工場が長年使っていたベンジジンという薬剤に発がん性があるということで裁判になったものだ。争点は労災法の施行前の被害でも補償されるかどうか、という点だったんだが、そもそもベンジジンの危険性はもっと早くから指摘されていた。にもかかわらず、東和合繊は青色にアクリル繊維を染めるために、ベンジジンをもとにしたアゾ染料を使用していた。安価な仕入れ先があったんだろうな。けれど、その前に大手企業のベンジジン中毒の件が新聞にすっぱ抜かれ、東和合繊は火の粉をかぶる前に、その薬剤を使用していた青の販売をとりやめた、というわけだ」

 吽田の言いたいことをフミは理解した。吽田も、自分の言いたいことが伝わったと承知したのか、どっかと椅子に腰を下ろした。「なんで、俺としては顧客の言い分が優先だという理屈はわかるが、このマフラーを青にすることには強く反対する。現実的に青のマフラーが販売されていないのだから、手に入れることはできない。ここに論理的な矛盾はあるか?」

「たとえばこの『ひいおばあちゃん』が東和合繊の社員だったとしたら?」

 フミは思いつきを思いついたように口にした。「試作品かなにかを手に入れたとか」

「そりゃありうる」吽田は笑った。イヤな笑い方だった。「だったら、自分で脱色して染め直したかもしれないし、意味はわからないがわざわざ『東和合繊』のタグをつけて手編みしたのかもしれない。俺は可能性がゼロだとは言わない。だが、俺たちの仕事は、正確性を大事にして、高い可能性の方にベットするもののはずだ。これは個人の依頼だからいいと言うかもしれないが、たとえばこれが公共の『アーカイブ』に上げられたとき、俺たちは歴史を塗り替えちまうかもしれない。マフラーの色なんて些細な出来事だが、少なくとも俺は、そういうプライドをもって仕事をしてんだ」

 吽田の言うことは正論であり、先日フミが図らずもミズキさんに伝えたことと酷似していた。そこに差異はないはずなのに、フミはしかし、反発を覚えた。それは微かだったから、感情になることも、言葉になることもなかったが。

「意見を付しておくが」吽田は少し口調を和らげた。「最終的な返答の権限はそっちにあるから、あとは上司にでもなんでも相談してくれ」

 フミは頭を下げ、吽田の作業部屋を出ると、自分の席に戻った。しばらく、ぼうっと、空中を見た。赤いクジラ。もしかしたら、どこかにはいるかもしれない、などと考える。君にも俺にも、可能性は広がっている。

 

 自宅に戻ると、母がコウと風呂に入っている音がした。くぐもった声が反響して、ゴム鞠のように部屋を跳ねている。フミは鞄を下ろし、手を洗い、どうしてだか声をかけられずに台所に行った。麦茶をとりだし、コップに注ぐと、一気に飲み干す。テーブルを見る。夕飯はほとんどできている。白身魚が野菜と共に蒸されたものだったが、その魚の名前をフミは知らない。

「あら、声かけてよ」

 脱衣所から母が顔を出した。母は特に気にもせず裸でいる。フミは目をそらし、「コウは?」と訊ねた。元気よーという返事にかぶさるように、ばあば、とコウの声がした。はいはい、と母は顔を引っ込めた。垂れ下がった乳房より、フミは母の腹のあたりのたるみが記憶に残った。そのたるみは、おそらくフミが子どものころからあっただろうし、歳の割に母は節制している方ではあったが、しかし、どこか歪な印象を受けた。バランスだろうか、とフミはさらに思考を先へと進める。もう少し、母は豊満な印象を与える体つきであったが、年相応に各所が痩せ衰え、しかし腹だけはその論理から逃れているので、アンバランスな感触を得るのだと。それから、そうやって推し進めて考えたところで、なんの意味もないのだと気づき、もう一杯、麦茶を飲み干した。

 母がフミの家に来るようになってからしばらく経っていた。きっかけは、通っていた保育園の人手不足だ。園側はメタバース空間を利用したバーチャル保育を勧めたが、「そんなものに任せられない」という母の言葉は決して無責任ではなく、フミが子どもを産んだときから勉強していたという認定ホームケアラーの資格を見せ、自らが世話をするようになった。遊戯や教育的活動は、町内でコミュニティをつくり、市の施設を借り受け、毎日日中は同年代の子どもたち、それから同じような境遇の保護者やホームケアラーたちと保育を行った。母のその旺盛な活動意欲に、父の影に隠れるように、とまでは言わないが、あまり表に出ることのなかった母を知るフミは驚いていた。

「あの陰気くさいのと一緒にいたら気が滅入るからね」

 という母の父への評は自分への思いやりであると共に、端的に間違いであるとフミは思ってはいたが、口には出さなかった。

 食卓を囲みながら、もっぱら母がしゃべった。昔から家の中ではおしゃべり好きな人で、幼いころはうっとうしく感じたものだが、こうして音声として流れるだけで、案外と気が休まるものだと、フミは思った。自分が変わった部分もあるだろうし、母自身も口にする内容を吟味しているフシはあるし、社会の変わり方もあるだろうと、フミは考える。変化はコントラストで、流動的で、単純なベクトルではない。

「コウくんお魚食べなさいな」

 骨を抜かれた白身の部分が、コウの取り皿にいつまでも残っていた。母は箸を手にとり、コウの口元に近づけるが、ぷいっと彼は横を向いた。もう、と母は呟くが、そこまで腹立たしい雰囲気は感じられない。

「これなんの魚?」

 フミが訊ねると、なんだったっけねえ、と母は思案した。「最近、カタカナのよく知らない魚が増えたから」と言う母の言葉に、続きはない。魚介類は食肉に比べれば高価で、食べる機会は減っていた。私はいま、名も知らぬ魚、これからも、その名を思い出されもしないだろう魚を食べている。そうフミは頭の中で文章をつくる。フミはフミの母とは対照的で、まずはゆっくりと頭の中でいろいろなものを言葉にし、文をつくり、それから話し始めた。他人からは緩慢だと思われ、両親からは暖かく見守られた。だから、自分は今の職場にあっているのだろうとフミは思っている。彼女の職場には、過去しかない。吽田の言葉を借りるならば、確率の高い事象の集まる過去。フミの頭には、白身の魚が鱗を帯びて海中を泳ぐ姿がイメージとして浮かび、それは、やがて、青いマフラーとなる。ひらひらとフリンジが揺れている。

「そうだ」

 コウを寝かしつけたあと、母が言った。思い出したから、というような呟きであったが、それは母らしいわざとらしさがあった。「あんたの会社は、動画も扱ってるんだっけ?」

「あるよ、部署が違うけど」

 フミはドライヤーを消し、洗い物をしている母に答えた。

「だったら、あたしのもお願いしようかな」

「母さんの?」フミは笑いながら言った。「さすがに、母さんの時代に白黒の動画も写真もないでしょ」

 そうじゃなくてさ、と母は、水道の蛇口を止める。「この前見たんだけど、生前の動画とか写真を集めて、本人そっくりのARを作れるんだろう? あれ、あたしのもつくっとこうかと思って。なんか、そういうの、お前のとこでもつくれるそうじゃないか」

「なんで」

 フミはしっとりしている毛先をいじりながら訊いた。確かに、アーカイブ事業やカラー化・修復などの分野の他に、今までの画像や動画処理の技術を生かした部門はあった。フミはあまり行き来のないその部署の社員の顔を思い浮かべながら、数本床に落ちた枝毛を足先で集める。

「あたしもこの先何年生きられるかわからないじゃないか。死ぬのは怖くないけど、コウやあんたのことが心配だからね」

「なにそれ」

 フミは笑い飛ばし、ドライヤーの電源を入れた。ぶおおおお、という音は、フミの思考も一緒に吹き飛ばす。ぶおおおお。

「別に幽霊になろうってんじゃないけど、あたしにそっくりなヤツが、あたしにそっくりなことを言ったら、相談相手として適任だろう?」

 フミはドライヤーをしているので、その声は聞こえなかった。ということにした。ぶおおおお。

 

(つづく)