検証の始まりは、学校の課題だった。
中学生活の終わりの「探究課題」は形骸化していて、受験組にとってみれば足枷以外のなにものでもないから、教師もとりたててしつこい指導はしてこなかった。が、評価にかかわる部分なので、あまり適当なこともできず、ぼくとしては考えあぐねていた。
「自分のルーツを調べてみるのはどうだろう」
と、祖父は提案してくれた。「私は子どものころ、山里団地という場所に住んでいたが、あの何年間かは、すばらしい日々だった」
「山里団地?」
祖父は大きく頷いた。
「団地ブームでできたものだ。有名じゃないから知らなくて当然だが、あのときの暮らしが、今の私をつくっている。そういうルーツを調べてみる、ということだ」
それから祖父は、団地でできた同い年の友人のことについて語った。「タケルくん、と言って、私の名前がヤマトだったから、大人たちはヤマトタケルだと笑ったよ」
「ヤマトタケル?」
「伝説的な日本の武人だ」と、祖父は言った。「もう今じゃ習わないのかもしれないな。武勇に優れ、多くの敵を倒した有名な英雄、というのはあまり時代にそぐわないんだろう」
祖父は、二人でした様々な「武勲」を話した。団地の裏の崖から飛び降りる、とか、スズメバチの巣を叩き落とすとか、そういうやんちゃないたずらだ。でも、「二人で近くの雑木林に秘密基地をつくって、日が暮れるまで遊んだ」という話は、今の時代の少年のぼくにとっても、子ども心をくすぐるものだった。どんなのだったの? と訊ねると、廃材を組み合わせただけのもんさ、と祖父は言った。「でも、子どもはなんでも見立てるから、それだけでじゅうぶんだった。家からこっそりいろいろ運んできて、まるで本物の家みたいにしてさ。ばれたときには母親に怒られたもんだよ」
探検と称して林の中を歩き回り、二人でどんなすばらしい「獲物」をとれるかを競争した。どんぐりや、きれいな色の落ち葉や、ヘビの抜け殻。「一日中遊んだものだから、きまって私は腹を空かせてね。そしたら、タケルくんが、家からこっそりにぎり飯を持ってきて、基地の椅子にそっと置いておくんだ。戻ってきたら突然にぎり飯が現れるもんだから、私はびっくりして、どうしたんだと訊くんだけど、タケルくんはそこで、ありもしない冒険譚を聞かせる。UFOや原始人や見たことのない生き物との戦いを、彼は大げさに話して、私は喜んで聞いた、というわけだ」
「そんなこと、信じるの?」
「本当かどうかは重要じゃないんだよ」祖父は微笑んだ。「それが自分にとって大切かどうか、そう思えるかどうかだ」
それから、〈市民のアーカイブズ〉に収められたいくつかの写真を見せてくれた。「山里団地前」のバス停でかしこまって写真に写る夫婦とか、「山里団地」と書かれた看板の前を指差す子どもたち。なるほど、とぼくは思う。祖父の過去をおさらいすることで、そこからつながる自分のことを知り、レポートに書くというのは、学校の教員が好みそうな題材かもしれない。
ぼくが自身の「ルーツ」について探るために、「山里団地」をとり上げたいと担任に告げると、彼はやや困った表情をした。「ルーツ」というのはセンシティブな話題で、いまだ人権意識の低いこの国に上手に扱える大人というものは少なかった。とはいえ、自己申告なのだから、一言二言、差別的な表現だけ気をつけるようにというお達しがあった程度で、それ以上のことは言われなかった。ぼくにとってみれば、大方の理由は、〈市民のアーカイブズ〉で完結できるだろうという省エネ的な予測によるものだ。アーカイブズには、多くの市民により提供された画像・動画データが経緯度・日時などのメタ情報と共に保存され、公開されている。それは、近年流行りの「正しい記憶」なるワードによって、いくばくかの特典とナショナリティへの帰属という条件により、盛況な様子を見せていた。祖父の住んでいたみどり町はデジタル特区ということで、他の市区町村よりもデータ量が多かった。つまり、この暑い夏の期間、ぼくは子ども部屋の中から一歩も動かずにレポートを完成させるという技ができてしまうというわけだ。「人とのつながり」とやらが学習指導要領に記載されているらしい「探究課題」において、これは大きなアドバンテージだ。
というわけだから、「山里団地前」のバス停が廃止されたという数年前のローカルニュースを皮切りに、団地の成立背景と、野山を削るからという理由での建設反対運動と、それらを現代的な視座から批判し、そこに祖父の個人史を絡めれば、B+の評価は堅いレポートができるはずだった。そのいすが出てくるまでは。
「これは私だね」
と、祖父は言った。インタビューはどういう形にせよ、当時の貴重な証言を得るということで、大切なことだ。まず見せたのは、一九七九年五月五日の記事の写真だ。笑顔かしかめ面かわからない子どもが座るバス停の写真。
「こどもの日だったから、おめかしして、どこか遊園地に行くつもりだったんじゃないかな」と、祖父。
「遊園地におめかししていくの?」
ぼくが訊ねると、祖父は、困ったような表情になった。祖父、は、ときどきそんな表情をするが、ぼくは慣れているから、「遊園地にいくのに、どうして正装で行く必要があるの?」と訊ね直した。
「昔はそうだったんだよ」と、彼は答えた。「家族で出かけるときは、父親はスーツを着て、母親はちょっといいワンピースなんかでめかしこんで、私は家に一着しかなかったワイシャツを着た。地域性もあるのだろうけど、動物園だろうが水族館だろうが、ちょっと遠出の旅館に泊まるときだろうが、なんとなく、そういう習慣があったように思う」
「このいすは誰が置いたの?」
その質問に、さっきと同じような表情を祖父は見せた。わからないのも当然だろう。新聞記事から推測するに、バス開通当初は置かれず、一九八一年三月七日の事故が起きるまでのどこかで、誰かが置いたのだ。祖父はまだ小学生で、誰が置いたかも知っているはずもないだろうし、たとえ見ていたとしても忘れてしまっていることだろう。
「事故のことはよく覚えているよ」
祖父は言った。あの、ガードレールがひしゃげた、粗い画像を見ている。「ときどき、タケルくんといっしょにバスに乗ったんだ。公園に遊びに行ったりするのに。ほら、子どもは無料だったからね。だから、事故に巻き込まれたんじゃないかって、母親がひどく動揺していて、まだ小さかったが記憶に残っている」
しかし、ぼくの訊きたいいすのことについては、やはりなにも知らず、その話題を出しても、祖父は不明な表情をするか、トンチンカンな回答をした。でも、ぼくは、このいすのことについて、よく覚えている。だから、しつこく訊くのだ。
「このいす、おじいちゃんちにあったよね?」
ぼくは、祖父の部屋の様子を思い浮かべながら言った。祖父が中学にあがるころに彼らは同じ町の郊外の方に引っ越したので、ぼくの記憶にある祖父の家はもちろん団地ではなく、その庭の広い一軒家だ。庭には梅が植えられ、ぼくは梅酒という存在を祖父の家で知った。梅酒のびんは床下に収納されていたのだが、その板張りの蓋がある部屋が祖父の部屋で、そこにいすはあった。何度も書いている通り、平凡で、誰の目も引かない、「椅子」という呼称を一身に引き受けたようなそんなものであったから、正直にいえば、どんな雰囲気でその部屋に鎮座していたかは正確には思い出せない。
「似たようなものは」祖父は重々しく言った。「あったと思う」
祖父は寡黙な人だった。都内の方で警察官になり、交番にずっと勤務した、と言っていた。上背が高く、ぼくが見たときには頭が禿げあがっていて、お酒をのむとそのまあるい部分が赤くなった。病気で胃を半分にしてしまっていたから、お酒を飲むといっても缶ビールの半分ぐらいがせいぜいで、そのときだけは饒舌だった。
特段におじいちゃんっ子というわけでもなかった。定年退職のあと、自分の親の家を引き継ぐ形で団地のある町にまた戻ってきたおじいちゃんは、おばあちゃんと一緒にひっそりと暮らした。ぼくの家からは遠かったから、夏休みとかお正月とか、特別なことがなければ訪れることもない。会えばぼくをかわいい孫として扱ってくれていたとは思うが、それは世間一般の祖父という立ち位置を逸脱するものでもなかった。そう、ぼくは祖父がちょっと苦手だった。
「このシールのこと、覚えてる?」
祖父はそれには答えなかった。シールは、正方形で、それが円柱の脚に巻かれるように貼られているから、二次元的には長方形に見える。ペンギンのイラストがそこにあるはずだが、粗い粒子の写真では、黒いぼやっとしたものしか見えない。でも、覚えているはずだ、とぼくは思う。それは祖父が買ってくれたもので、ぼくが欲しくはないものだったから。