アフリカの王子さま

 

 気持ち悪い、

 というその女子生徒の言葉は、単純に月経周期から来る下腹部の違和感によるものだったが、わたしはそれをイイダカスミの言葉と重ね合わせて頭の中で処理して、少しだけ反応が遅れた。

「保健室に行きましょうか」

 とはいえ、そう口にしてやさしく背中をさするわたしの言葉が特段に間を空けて伝わったとは自分でも思わない。女子生徒は軽く頷き、わたしは内線で保健室の先生に言伝ると、ひとりで行けるという女子生徒の言葉を信じて、カウンセリングルームの入り口でその背中を見送った。イイダカスミはひょろりと背が高く、それに合わせて手足が長く、いま、身体をやや曲げるようにして歩いていくひっつめの女子生徒とは似ても似つかないが、いつのまにか重ね合わせるようにして、そして重ならないなにかをわたしは探していた。

 気持ち悪い。

 イイダカスミがそう相談しに来たのは先週の木曜日で、その前の日から、わたしは時行叔父さんの部屋で暮らすようになっていた。

「気持ちを向けられるのって、気持ち悪くないですか?」

 そうイイダカスミは言った。体育祭が終わったあと、彼女は同じクラスで、同じ実行委員だったサトウという男子から告白をされたのだという。

「ぜんぜん、そんな気なかったし、なんか、帰り道一緒の方向だったし、毎回実行委員が遅くなるときもそうだったから、別にいつも通りだったんだけど、そこの、ほら、花がいっぱい飾ってある家の前で突然、好き、みたいなこと言われて、きもちわる」

 イイダカスミは言葉を切った。きもちわる! というより、きもちわる。という自然な止まり方で、彼女は自分の言葉を咀嚼し、「と思いませんか」とわたしに水を向けた。そうね、とわたしは頷き、「そう思う人もいるだろうね」と慎重に答えた。そう思う人もいれば、そう思わない人もいる。わたしは後者だ。

「なんていうの、私を嫌いな人もいると思うんです」イイダカスミの調子は淡々として変わらない。「なんていうのかな、気遣い? みたいなのができないタイプで、思ったことけっこう口に出しちゃうし、気づかなきゃいいんですけど、あ、言いすぎたな、みたいな空気ってわりかし敏感にわかっちゃうし、シンドイときもあるんですけど、ほら、性格ってどうしようもないっていうか。だから、だからこそ、そういう、好意とか、気持ちとか、ストレートにぶつけてくるのが信じらんなくて。あ、同族嫌悪、なのかも」

 しゃべりながら、自分の言葉を解釈して解決して、イイダカスミはしゃべる。薄手のセーターの袖を中指と人差し指でいじりながら話すのが彼女の癖だ。ほつれてる、とわたしは思うが、そう思うということは、自分が集中しきれていないということだと改め、「そうね」とわたしは口をはさんだ。「わたしが子どものころは、けっこうそういう告白ってそんなに珍しくなかったんだけど、今だと、不安に思う人は多いかもしれない」

「ですよね」

 イイダカスミはわたしを見た。かなり薄いチークが、きらきらっと光っている。「体育祭終わったから、クラスも違うし、もうあんまり会う機会もないからいいんですけど、やっぱ気まずくって。変に噂立てられるのも嫌だし」

 それから、イイダカスミはひとしきりの愚痴と、自分のいつも通りの生活周りのことを十五分ほどしゃべって帰っていった。すっきりとした顔をしていたわけではないが、自分の言うべきことは伝えた、というタスクが完了したような「さようなら」だった。

 今日の予約はそこまでだったので、わたしは大きく息をついた。肩がこる。ぐるりと首を回し、カウンセリングルームをついでのように見回す。大きな布張りのソファは、今しがたのイイダカスミの痕跡を残すように、やわらかく凹んでいる。部屋の窓際には、アグラオネマがたたずんでいたが、少し葉焼けをしていた。前任者が置いていったものだが、自分はそれほど世話をする気もなかったので、定期的な水やりでしか管理してこなかった。枯れないようにしなきゃ、とわたしは席を立ち、しばらく、いろいろな角度から、アグラオネマを眺め、眺めるだけで、自分に判断はできず、やはりそのままにした。

 

 時行叔父さんの部屋で暮らすことになったのは成り行きだった。月に一、二回ほど、叔父さんとは食事に出かけるから、その席で承諾をした形だった。わたしとしても、叔父さんとしても、なんでもないことだったのだけれど、あとで母に話したらたいそう嫌な顔をされたので、世間一般で見ればそうでもなかったのかもしれない。

 時行叔父さんは大学の先生をしていて、専門は社会学、特にフーコーに詳しかった。わたしはフーコーにも社会学にも縁があまりなかったが、叔父さんとは子どものころから馬が合ったから、ときどき二人でお出かけをした。デパートであったり、遊園地であったり、近くの公園であったり、あるいはただの散歩であったり。わたしが学生時代を終え、臨床心理士やそのほかの資格をとり、今の学校カウンセラーの地位に落ち着いても、その交流は続いた。さすがに遊園地に行くことはなくなったが、それは食事会という形で続いている。わたしはそれを「おゆうはん」と呼び習わし、叔父さんは冗談めいて「密会」と名付けた。

 旅行に出る、というのが最初の叔父さんの話題の出だしだった。どこに、という問いかけに、西の方からぐるりと数か月、と広い答え方を彼はした。聞けば、大学の職は辞したのだという。「それなりのお金が貯まったので」という彼の謂いの、具体的な金額をわたしは想像できなかったが、彼はときおりコメンテーターとしてメディアに出たり、著作を書いたりとしていたから、そちらの副収入もそれなりにあったのかもしれない。優雅だね、王族みたい、とわたしが笑うと、その王子さまが困ったもんなのさ、と叔父さんは笑顔で答えた。

 叔父さんは同性愛者で、彼の性自認は知らないが、パートナーも男性だった。ぼくの王子さま、と叔父さんが呼ぶように、年下のミスミと呼ばれる彼は、どこか異国めいた雰囲気がある顔立ちだった。わたしも一度だけ、叔父さんの部屋にお呼ばれしたときに会ったことがある。

「アフリカン・プリンス、という観葉植物があるんだがね」

 そう時行叔父さんは、わたしに写真を見せながら言った。端末の画面には、リビングの隅に置かれた、背の高い植物が映っている。叔父さんも背が高いほうだが、写真にある窓と比べるに、彼よりも大きそうだ。ぐにゃりと曲がった幹に、大きな濃い緑の葉っぱが点々とついている。「ミスミはこの植物がとても気に入っていてね。その名の通りアフリカ原産なんだが、以前から輸出が禁止されている上に、国内での取引も厳格になってしまったから、手に入れることがかなり難しい。なかなか高い買い物だった」

 というより、と叔父さんはグラスのワインをぐいと飲みほした。「彼は観葉植物全般に入れ込んでいる。チカも見たことがあるからわかるだろうが、今はもっとひどい。さながらジャングルだ」

「密会」は様々な場所で行われた。看板を掲げていない寿司屋のときもあれば、家族連れで賑わうファミレスもあり、今日はその中でもリーズナブルなイタリアンだった。仕事帰りの酔客が大きな声で話すような場所だが、叔父さんは特に気にせず、とりあえず自分の好みに合ったお酒を注文し続けている。

「つまり」わたしは叔父さんの話の続きを引き取った。「旅行中の観葉植物の世話が問題だと」

「さすがだ」

 叔父さんは、自分で注ぎ足したワイングラスを、わたしのモヒートにカチンとさせた。「チカちゃんと話すと会話のテンポが一・五倍速ぐらいになって助かる」

 時行叔父さんの「王子さま」であるミスミは、長期の旅行には賛成したものの、ではその間の観葉植物の世話は誰がするのか、というところに疑義を呈した。彼の育てる観葉植物に毎日の水やりは必要ないとはいえ、長い期間空けることの不安を口にした。

「緩慢な死、だそうだ」

 剣呑なことを叔父さんは口にした。「根が腐ったり、病害虫に葉がむしばまれているかどうかは、ぱっと見ただけではわからない。しかし、見て気づくようになるころには、もう限りなくその観葉植物は死に近づいている。変化は不可逆であり、それはゆっくりと進行していて、後戻りができない」

 いやはや、これはミスミの言葉だがね、と叔父さんは付け足す。「なかなか文学的だろう?」

 とはいえ、この旅行自体はミスミにも折を触れて説明してきたし、叔父さん自身の夢のひとつだから、諦める気もなかった。

「ロボットがいるだろうと言ったんだ」

「ロボット?」

「あれみたいな」と、叔父さんは、ちょうどカプレーゼを運んできた円筒状のロボットを指した。「お料理が届きました」としゃべる機械音声のそれをじとりと叔父さんは眺め、皿に手を伸ばす。

「席まで運んでくるなんて珍しいよね」

 最初の注文でも発したセリフを、もう一度わたしは言った。今どき、価格帯の安いレストランでは、料理は厨房に備え付けのカウンターにとりに行くことがほとんどで、人間が運びに来ることなどあまりない。ひと昔前は、この店にいるようなロボット式の運搬係がいたそうだが、そこまで費用をかけたりメンテナンスをしてまで料理を運ぶという行為が、高級志向の店ならいざ知らず、普段使いの店にも必要な理由が、わたしにはもううまく想像できない。

「おんなじようなのがうちにもあるんだよ」

 叔父さんの調子は平板だが、長い付き合いのわたしには、そこに彼なりの皮肉が混じっているのを感じた。「要するに、植物の管理ロボットだ。水やりとか、病害虫のチェックとか、基本的な世話は彼が行う。それで事が済むのではないか、と言ったら、どうやらミスミのようなこだわりのある人間にとっては地雷の発言だったらしい。なかなか機嫌を直してくれなくってね。参ったよ」

 ミスミによれば、ロボットはあくまで補助手段であり、最終的には人間の目で判断をしなければならない、ということだった。「特に」と叔父さんは続けた。「アフリカン・プリンスは少し弱っていて、どこかのタイミングで日光浴をさせた方がいいんだそうだ」

「なら、窓辺にでも置いておけば?」

「ところが、直射日光はそもそもよくないらしい」叔父さんは苦笑いをする。「ロボットは機能として、日光浴の判断を行うこともできる。しかし、そのロボットに、アフリカン・プリンスを動かすような機能はついていない。どこかで人間が必要だ。ロボットが指図をし、人間が動かす、というわけだ」

 これではどちらが主人かわからんじゃないか、と叔父さんは笑った。

「人を雇うのは?」わたしは言った。「ほら、そういう、植物の管理をするバイトっているらしいし」

「知らない人間を家に上げるのは僕が嫌なんだ」

 ちょうど、後ろでサラリーマンの集団が大きな声を出し、叔父さんの声はかき消されたが、それでも、彼のちょっとゆがんだ目元は、何を言いたいかわかった。「これは譲れない。申し訳ないんだが」

 このとき、時行叔父さんは、「なら」とわたしが言い出すのを期待していたんだろうか。わたしはあまりそうは思えない。頭のいい人間だが、世間ずれしていて、良くも悪くも人を人として見ないところがある。自分以外の誰かに対して、期待もしないし落胆もしないような彼は、誰かの次の発言を予測する会話の組み立てをしない。だから、この「なら」はわたしの意志だし、「わたしがしばらく面倒見ようか?」と続けたのは、わたしの打算だ。

 

 観葉植物は全部で十種類あった。アフリカン・プリンス、ウンベラータ、オーガスタ、エバーフレッシュ、ベンガレンシス、モンステラ、アルテシーマ、オリーブ、コンシンネ、パキラ。呪文というより、どこかの城に仕える眷属の名のような、そんな響きがあった。

「たいていのことはこのロボットが答えられるから心配しなくていい」

 出発の日に、時行叔父さんは、鍵と引き換えに言った。ミスミは既に空港へと向かっていたので、姿はなかった。代わりに、というわけではないが、わたしには、代わりに、というように見える風情で、ロボットは玄関の、叔父さんの隣に立っている。

「一応、彼はこの紙のマニュアルも用意はしてくれたがね」

 叔父さんはさわやかな青いスーツケースに寄りかかりながら、いつもの、皮肉っぽい笑顔を浮かべている。ロボットの腹部には台があり、そこに、ちょっとしたペーパーバックぐらいの厚さのある束が、ワニ口クリップでとめられている。「さながら紙のマニュアルは聖典であり、ロボットはそれを伝える巫女というわけさ」

「神託は絶対?」

「毒をあおぎたくなければ」

 叔父さんが去った部屋は、がらんとしている。それは文字通りの意味でもある。時行叔父さんたちの暮らすマンションは相当に広い。都心ではない町とはいえ、わたしには手が出せないような物件である。調度品も非常に叔父さん好みで、全体的に寒色系のトーンでそろえられていて、ときおり、奇抜な彫刻のミニサイズが置かれているのは、ミスミの趣味かもしれない。ロボットは、叔父さんがいなくなったことを見届けると、するすると廊下を進み始めた。先導されるように、わたしもあとをついていく。歩きながら、ぱらぱらと先ほどのマニュアルを眺める。どうやら、これは企業が出しているものよりも詳しく、ミスミのオリジナルのもののようだった。

 ロボットは、円柱型をしていた。特に顔にあたるような部分はないが、上部には視覚用のカメラとセンサー、それからLEDの通知ランプがある。マニュアルが載っていた腹部の空洞は、むかし皿でも載せていたのかもしれないし、あるいは単にデザインを踏襲しているだけなのかもしれないが、わたしは詳しくないのでわからない。薄い緑色の筐体は、園芸管理のロボットとしては適しているのだろうが、この部屋のトーンとは合わない感じがした。

 時行叔父さんの家はリビングをすべて起点としている。「クラゲだよ」と叔父さんは言ったことがある。「クラゲの頭部、と呼んでいいかわからないが、あの傘の部分をリビングとしたら、その足がそれぞれの部屋というわけだ。クラゲの足は切り落としても、頭が残れば再生する。この家の核はリビングだからね。おのおのの部屋は我関せず、ということなんだ」

 それはタコでも同様でないかとわたしは意見したが、「僕はタコが苦手でね」と叔父さんは苦笑した。「まあ、これはミスミが言い出したことで、僕はそれを拝借しているにすぎない。彼にはそういう奔放なイマジネーションがある」

 リビングは天井も高く、広かった。観葉植物たちはそこをねぐらとしていた。叔父さんは「ジャングル」と呼び習わしたが、それはずいぶんと過大な表現だとわたしは感じた。第一に、リビングの広さは相当なので、観葉植物のひとつひとつは、草花に比べればはるかに巨大であったものの、事前に予測していたよりも主張をしていない。それに、彼らは密集をしているわけではない。おのおの、定位置が決まっている、とマニュアルに書いてあった。オリーブやオーガスタは日当たりのよい窓辺を好み、モンステラやパキラはむしろもう少し壁際の、家具の隙間に挟まれたり、低い棚の上に載っていたりする。おのおの住む場所の決まった動物園や植物園という表現の方を、わたしは思い浮かべた。

 そして、困った王子さまのアフリカン・プリンスは、中央に堂々と直立していた。とにかく存在感のある植物だった。背は二メートルを超え、葉の一つ一つが、わたしの両手を合わせたぐらいの大きさであったし、幹のくびれはそのように進化した生き物のような動的な印象をわたしにもたらした。幹には枝を矯めた形跡があり、そこだけ濃い茶色に濁っているため、遠目からはそれも斑の模様に見え、なかなか味があった。わたしは肉厚の葉を指でそっとつまみ、その感触を確かめる。握手をしたようだ、という気持ちになる。

 メゾネットタイプのリビングは、隅に螺旋階段があり、上階には、「秘密基地みたいなもんだよ」と叔父さんが言ったように、雑多なコレクションが並んでいる。レコードが年代順に陳列しているかと思えば、ヒュミドールが棚に積み重ねられていて、壁には古いボタニカルアートとアンディ・ウォーホルみたいな現代アートが並んで飾られていたりする。「僕とミスミの頭の中の融合だ」という叔父さんの言葉はどこかなまめかしくて、こうしてまじまじ眺めているのが、壁の穴から情事を覗いているような、そんな気分になる。

 リビングのYチェアに腰を下ろし、「ねえ」とロボットに話しかける。愛称は? と訊ねたが、「機械に名前をつけるかどうかは、僕の哲学的命題で難題だ」ということで、そのロボットは名前をもたないが、呼びかけには反応する。聞いてますよ、というように、四角いLEDランプが小さく瞬いた。

「今日は水やりをすべき?」

「今日すべき水やりは終了しています」そうロボットは答えた。音声は非常になめらかで、中性的だが、やや低いそれは男性のようでもある。

「水は足りてる?」

「足りています」

「どうしてわかるの?」

「それぞれの鉢には棒状のセンサーがさしてあり、そちらの湿度で判断しています」

 なるほど、とわたしは頷いた。マニュアルで目にして、そのことは知っていたのだが、確かに内容は彼の頭に入っているようだ。

「それじゃあ相棒、これからよろしく」

 わたしが軽口を叩くと、ライトでもって、ロボットは返事をした。わたしは、大儀そうに耳だけ立てるネコを思い出す。

 

 イイダカスミは毎週水曜日の放課後にカウンセリングルームにやってきた。水曜日は、彼女の部活動がないからだ。彼女はバスケをやっていて、ポジションはポイントガード。わたしもバスケ部に入っていたことがあって、初回のカウンセリングでは、その話を聞くと目を輝かせたが、中学で辞めてしまったことを伝えると、急激に興味を失ったのか、それ以上、自分から部活動の話をすることはなかった。

 カウンセリング、といっても、中学生の彼らはそのすべてが深い悩みを抱えているわけではない。無論、そういう悩みをもつ生徒からの相談を受けることもあり、その場合はより専門的な機関と連携をとり、受診を勧める。どちらかというと、以前よりカウンセリングに対するハードルが下がったことや、学校に常設されていることもあり、気軽な「お悩み相談室」としてのイメージが子どもたちの間には強い。専門職として、そのような印象を持たれることは残念だし、それを「メンタル保健室」と揶揄する人間もいる。とはいえ、わたしとしてはすそ野を広げておいた方が深刻な事案をキャッチしやすいので、この流れ自体は悪くないと考えている。

 イイダカスミは、相談自体は「軽い」方だった。バスケ部のキャプテンとしての重圧、来年の高校受験の不安、口うるさい母親とのいざこざ、友人関係のもろもろ。おそらく誰もが通ってきた道のひとつを、イイダカスミは歩いている真っ最中であった。どこからかテンプレートを借りてきてしゃべっているみたいに、それは一般的な事柄であったし、わたしとしては対応に難しさを感じるような事例ではなかった。

 にもかかわらず、わたしはやや彼女を苦手としていた。もう少し言葉を選ぶならば、会うたびに、その苦手な部分を感じとれる、とってしまうようになってきた。思うに、彼女にとってわたしはツールのような存在だった、からかもしれない。彼女の悩みは本物であるし、彼女の話す言葉にささいな飾りや思い込みはあるにせよ、おおむね真実を語っていると思われた。そのひとつの解決策としてわたしという存在を使用することは妥当な選択であるのだが、いささか、彼女の場合はそのニュアンスが強く響いた。これは職業的な経験からの勘に近いものであり、証明はできないから、わたしは、わたしがなぜそのようなタイプを好まないのか、という自己分析をするよりほかなく、今のところこれといった解答が出ず、そういうことも、彼女に会うときのささやかな気の重さにつながっていた。

「あれ、先生模様替えした?」

 先生、とわたしを呼ぶ子もいれば、チカせんせ、と馴れ馴れしくする子もいる。わたしは、どの呼び方も否定しない。そういうのに規律を設けるタイプもいるだろうが、わたしは自分と子どもの争点はそこにはないと思っているので、特段、咎めはしない。教員からは、「自由ですねえ」と、褒められているのかたしなめられているのかわからない距離感で言われることもある。

 イイダカスミは「先生」呼びのタイプだった。「せんせ」でも「せんせぇ」でもなく、「せんせい」と、切り立った崖のように呼んだ。わたしがアグラオネマを窓際から離したことについて目ざとく気づき、カウンセリングルームに入るや否や、彼女は口にした。

「調べたら、直射日光はあまりよくないみたいだったから」

 実際は、叔父さんの部屋のロボットに話しかけてみたところ、そのような返答が返ってきたので移動をさせたのだが、彼女にそのようなことを話す必要はない。「ふうん」と鼻を鳴らしたが、「でも『レオン』だと、窓辺に置いてあったよね」と言った。

「よく知ってる」

 とわたしは素直に感心した。古い映画だが、この「アグラオネマ」は象徴的に出てくる。前任者がそれを知っていて置いたかどうかはわからないけれど。

「殺し屋と女の子の組み合わせ、ベタだけど、やっぱり見とれちゃう」と、イイダカスミは、珍しくそんなことを口にした。リュック・ベッソンの執拗に性的なカメラワークは気になるところだが、わたしも映画としては好きだったので、しばらく彼女と『レオン』や、そのほかの映画の話題で盛り上がった。

 でも、彼女が帰り、部屋の中が静まるころには、なんとなく、喉のあたりがべたつくような感覚を覚える。わたしは立ち上がると、アグラオネマの葉に霧吹きで水をかけてやる。もようがテカテカと光っている。

 

 最初こそその広さに驚いたものの、慣れてしまえば、時行叔父さんの家での生活は、いたって普通だった。ゲスト用の寝室があったので、寝起きはそこで行い、キッチンも自由に使わせてもらった。叔父さんからは、ミスミの部屋以外であればどうぞご自由に、と言われていたが、さすがに人の家でそこまで気を大きくすることもできず、わたしとしてはおおよそ、リビング・キッチン・寝室を三角のようにして行き来するような生活となった。

 観葉植物というのは、アサガオ以来あまり植物に縁のなかったわたしにしてみれば、ほとんど管理をしなくていい扱いやすい生き物だった。毎日水やりをする必要がなく、せいぜい葉に霧吹きをかけてハダニ対策をすればいいぐらいなものだ。叔父さんは困ったことのように言っていたが、案外と楽な趣味なのではないか、などとわたしは思い始めていた。

 

「ほんとうの園芸は牧歌的な、世捨て人のやることだ、などと想像する者がいたら、とんでもないまちがいだ。やむにやまれぬ一つの情熱だ。凝り性の人間がなにかやりだすと、みんなこんなふうになるのだ」

 

 そんなわたしの考えを見透かしたように、紙のマニュアルに、そんな文章が差し込んであったのをわたしは偶然見つけた。ロボットの定期点検とエラーコードのページの間に唐突に差し挟まれていた一枚で、わたしは「ほんとうの」と声に出し、「こんなふうになるのだ」で、ロボットを見た。彼は執事のごとく、リビングの隅、モンステラの横に立っていた。

「これはなんのこと?」

「これ、というのは、なんのことでしょうか」

 わたしはもう一度ゆっくり、その文章を読み上げた。

「それはカレル・チャペックの『園芸12カ月』の一節です」

「チャペック!」

 思わずわたしは声を上げた。まさに『ロボット』の作者だ。マニュアルとはなんの関係もなさそうなこの文章を忍ばせたのは、時行叔父さんではないか、とわたしは思った。観葉植物に入れ込むミスミへの皮肉と愛が感じられ、わたしは可笑しくなって、もう一度、その文章を声に出して読んだ。ロボットは、そんなわたしを、その目のない筐体でじいっと見ている。

 もしかして、と思い、わたしは叔父さんの部屋に入った。寝室ではないそこは書斎というテイなのだろうが、それにしては広く、壁一面に本棚がある。時行叔父さんのことだから、と、背表紙を眺めていくと、国別、ジャンル別に丁寧に分かれており、カフカやクンデラの間に混じって、チャペックの『園芸家12カ月』の文庫があった。お借りします、と空に向かって声をかけ、わたしは手にとり読み始める。すると、チャペックのユーモアのある文体が気に入り、一気に読み終えてしまった。もちろん、チャペックが主に世話をしていたものは、庭にある花や草木であったものの、ホースの扱いにくさから生命賛歌に至るようなセリフまで、彼の生の声が聞こえてくるようだった。

「あなたはこのチャペックを読んだことがある?」

「私は読んだことはありません。データとして蓄積はしていますが」

「でもあなた、リアルタイムの天候以外はスタンドアロンでしょ。文章から検索なんてできないじゃない」

 ハルシネーションを嫌がって、植栽知識などのデータはオフラインベースで蓄積させたのだと、時行叔父さんが言っていたのをわたしは思い出した。「誰かが読み聞かせでもしたの?」

 わたしとしては冗談のつもりだったその言葉に「その通りです」とロボットは頷いた。「オーナーが音声入力でデータを入れてくれました」

「オーナー? どっちの?」

「それはわかりません。私はオーナーの名前を知りません」

 へえ、とわたしは声を漏らし、読み聞かせたのは叔父さんだろうと見当をつけた。いかにも、叔父さんのやりそうなことだったし、このロボットの名前をつけることすらためらう彼は、自分の名前を伝えることも嫌がるかもしれない。

「じゃあ、わたしも読んでみようかしら」

 それにはロボットは答えなかった。答えるべき質問と判断しなかったのだろう。でも、わたしとしては、このロボットに叔父さんの一部が入っているようで、少し親しみがわいた。

 その夜、わたしは、「ついでに水やりしてほしい」と、叔父さんから頼まれたベランダのバジルを摘み、ジェノベーゼを作った。ガラスのキャニスターに入っていたくるみをローストしたあとに砕き、それからバジルの葉とオリーブオイルを一気にブレンダーで混ぜる。真緑の鮮やかな色が、わたしは好きだ。奥行きのあるリビングで、食器が立てる音の反響を聞きながら、観葉植物たちを順番に見る。ロボットが静かな駆動音で、ひとつひとつの様子を確認していて、わたしが食べ終わるころに、ちょうどそちらも作業を終えたのか、所定のモンステラの横に戻った。モンステラは葉先に水を貯めていて、ロボットがとまった振動で、ひとしずく、その水滴を床に垂らした。ロボットはスリープ状態なのかそれに気づかず、わたしは立ち上がると、代わりに自分の服の袖で拭いた。

 

(つづく)