海に行こうと言い出したのはヒサコさんだとチカコさんは思っていたけれど、トオコさんはチカコさんが最初に言ったのだと譲らなかった。

「あんたたちがまだ高校生やってるとき」

 トオコさんは懐かしむように言った。でも、本当に懐かしく思っているかはわからない。「あんたが、海に行ったことないって言って、それはウソでしょ、ってヒサコが言って、それでケンカになったのよ」

 そうだっただろうか、とチカコさんは思い出そうとするけど、よくわからない。ケンカをしたことは覚えているから、そうだったのかもしれない。でも、チカコさんはそうは言いたくないから、「ヒサ姉だったよねえ」と、ヒサコさんの納まる冬眠装置に向かって話しかける。誤魔化さない、と、ぴしゃりとトオコさんは言い、同時にブレーキを踏んだから、かくん、とチカコさんは前のめりになる。

「私は免許とりたてで、お父さんとお母さんが死んで、なんかさみしいねってなって、行こうよってなったんだよ。海、伊豆」

 どうして伊豆にしたのか、チカコさんは覚えていないし、決めたのはトオコさんだった。どうして伊豆だったの、とチカコさんが訊ねると、「海と言ったら伊豆でしょ」と、答えにならない答えが返ってきた。

 道路は空いていた。平日だったし、こんな夜に、海に行くために伊豆に行く人はそんなに多くはないのだろう。大きなトラックがいくたびかすれ違い、ときどき、物珍しそうに、並走しながら眺める運転手もいた。トオコさんはそれを気にする様子もなく、まっすぐ、アクセルを非常に一定の間隔で踏み続けた。

 芦ノ湖の手前あたりで、パーキングエリアに停車した。

 運転を代わろうか、とチカコさんは申し出たが、トオコさんはそれを言下に拒否した。チカコさんとしても、しばらくハンドルは握ってないし、じゃあ代わって、と言われたらドキドキしてしまうから、それで安心をした。そういう言葉のやりとりは、ねじの調整みたいなものだとチカコさんは思う。一日だけ、チカコさんは深夜にそういうバイトをしたことがある。なにかの小さな機械で、ねじがきちんと嵌ってるかどうか、ベルトコンベアで流れてくるのを確認する仕事だった。眠気との戦いだったが、ゆるんだそれを見つけ、不良品箱に突っ込んでいく作業は単調ながらも、なにか示唆的だと感じた。人生とか、そういうものの大事な部分につながるとチカコさんは考え、そしてそれを、いまトオコさんと話しながら思い出していた。でもそれは、その示唆と今回のトオコさんとの会話が本当に合っているのか、自家撞着を起こしているようにも感ぜられたけれど、チカコさんはめんどうくさがりなので、そのあたりの考えはすぐによしてしまった。

「どうしてだろうね」

 二人は休憩をすることにした。仮眠を少しとり、朝日が昇るまえにもういちど出発するのだ。助手席と運転席をぎりぎりまで倒すと、ヒサコさんの眠る装置の、ちょうど彼女の頭の部分に突き合わせることになった。三人で並び、車内の低い天井を眺めながら、どうしてだろうね、とトオコさんは言ったのだった。なにが、とチカコさんは言わず、そうだね、と答えた。ヒサコさんのことを言っているのはすぐにわかったからだ。

「ヒサ姉、勘のいいところがあったよね」

 チカコさんはそう口にし、トオコさんは頷いた。でも、暗いから、本当に頷いたのか、チカコさんはいちいち確認していない。けど、続ける。「ほら、中学のとき、抜き打ちで小テストがありそうだなってときがわかって、前の夜になると勉強してた。わたしには教えてくんなかったけど、あ、ヒサ姉勉強してる、わたしもしよ、って、そしたらだいたいいっつも、小テストあって」

 トオコさんはぼんやりしている。ヒサ姉は、自分が事故に遭う、と予期していたのだろうか。だから、高いお金を払って、人工冬眠なんて新しいものに飛びついたのだろうか。それは、あんまり、ヒサコさんらしくない、と、チカコさんは思っていたし、ぼんやりしながらも、トオコさんも思っていたんだろう、とチカコさんは思った。

「だけどあの子、あんまり成績よくなかったよねえ」

 しばらくあとで、トオコさんは言った。チカコさんは答えなかった。またしばらくして、トオコさんから寝息がすうすう聞こえた。いつでも、どこでも眠れるのが、自分の美点だ、とトオコさんは言っていた。お姉ちゃんそれはトクよぉ、というヒサコさんの声が聞こえる。もちろんそれはチカコさんの頭の中で、現実のヒサコさんは冬眠をしている。でも、けっこうはっきりと、チカコさんは、自分の耳に響くことを感じている。あたしは枕が変わっただけでダメ、だから、こんな車じゃ眠るのなんて無理よぉ。

 あのとき、伊豆に向かった、免許とりたてのトオコさんと、高校生だったチカコさんとヒサコさんは、伊豆には着いたけれど、宿に泊まれなかったのだ。海が見える温泉旅館でね、とトオコさんは言っていたのに、その宿はとうの昔に潰れていた。建物だけは残っていて、三角コーンをよければ、ひびだらけの駐車場に入ることはできたから、トオコさんは、行こう、とアクセルを踏んだ。駐車場の奥まで行けば、海も見えた。じゃあここで一泊だ、と、トオコさんが言い、無理よぉ、とヒサコさんは嘆いた。

「お姉ちゃんっていつもそうよね」と、ヒサコさんが言った気がしたのだけれど、それはチカコさんが口を開いて出た言葉で、だけど狭い車内には寝息を立てるトオコさんと、冬眠をしているヒサコさんだけなのだから、チカコさんにとっては、誰が言ったことにしてもいい言葉だった。「肝心かなめのところが抜けてるの」

 それからチカコさんも眠りに落ちた。ざざん、ざざんと、波の音がずうっとしている気がして、海が近かったのかもしれない。

 

 起きて、という声は、トオコさんではなかったから、チカコさんは消去法的にヒサコさんなのかと思い、ガバリと起き上がった。あたりはまだ暗かった。

 トオコさんの方が先に目覚めていて、窓の外にいる警察官二人組を見ていた。窓だけ下ろし、なにか、とトオコさんは訊く。

「その後ろのは、なに?」

 懐中電灯で奥を照らしながら、年配の警察官はトオコさんに訊ねた。姉です、と短くチカコさんは答え、冬眠しているんです、とトオコさんがつなげた。警察官二人は顔を見合わせ、えーっと、と口ごもった。

「それって、開けられる?」

「開けられません」トオコさんは答えた。冬眠をしているので、となおも続ける彼女の表情に、警察官二人の表情はますます険しくなった。チカコさんは、でも、中を見ることはできますよ、と装置の透過率を弄った。ヒサコさんの姿を見ると、若い方の警察官が、ひっと喉の奥から声を上げた。

「生きてる、んだよね」

 難しい問いだとチカコさんは思ったけれど、冬眠は死んでいないことなのだから、生きてます、とチカコさんは答えた。証明ができるか、と再度問われたので、チカコさんは、装置のバイタルの数値を見せた。行っていいですか、とチカコさんは重ねて訊いたけれど、少し待っていてください、と彼らは疑わしそうにその数値を眺め、無線でやりとりを始めた。病院か、この会社に聞けばすぐに解決するだろうけど、こんな深夜と早朝のはざまに答えてくれる人は誰もいそうになかった。そうっと、チカコさんはトオコさんを盗み見た。トオコさんは、ぼんやりはなおっていたようだけれど、でも、それからはずうっと黙っていた。

 結局は解決した。冬眠状態の人は、各種行政機関に届け出を行っており、外見的特徴と、装置のシリアルナンバーと、トオコさんとチカコさんの身分証でもって、ヒサコさんが冬眠していることは確認された。それでも、警察官の二人は、なんだか狐につままれたような顔をし続け、トオコさんは黙り続けた。

 肝心かなめのときに。

 警察官がパトカーに乗って去ったのち、また静寂が戻った。うっすら、ほんとうに、世界の端っこがにじんだみたいに、うっすら、明るくなり始めていた。チカコさんは、自分の姉の肩をつん、とつついた。トオコさんは、そうされるのが、数秒前からわかっているみたいに動かないで、つん、とつつかれるままにした。

「最後の一日が欲しかったのはね」

 トオコさんはエンジンをかけた。その霊柩車じみた車は、ぶおおん、と、古い音を立てた。「一日でも、ヒサコと長くいたいと思ったのよ」

 チカコさんは、ん、と、缶コーヒーをトオコさんに手渡した、ん、と、トオコさんは手にとり、ぷしゅりと開けて、ひと口飲んで、それから、アクセルを踏む。あ、シートベルト忘れてる、と、チカコさんはトオコさんを見て思ったけれど、そのままにした。それは忘れているのではないかもしれないと、思ったからだ。

 しばらく進むと、突然、本当に、唐突、という感じで、海が開けた。チカコさんは口を大きく開け、トオコさんは目を大きく開けた。両親は日本海側の人で、そうだ、海の陽は沈むものだとばかり思っていた、そんなことを口にしていたことがあった。でも今は、生まれたての光に、水面がきらきらてらてらと輝いている。

「トオコと一日でも長くいたいから」

 なんでトオ姉とおんなじ町に暮らしてたの、とチカコさんが訊くと、ヒサコさんは、きしし、という音を立てそうに、歯を見せて微笑んだ。「ほうしたらさ、死に目に会える確率が、増えんじゃん? あの王様みたいなお姉ちゃんの死ぬとこ見てみたいでしょ? あたしが先に死ぬなんて、許せないからね」

 チカコさんはトオコさんを横目で見て、それから、ふりかえってヒサコさんを見た。ヒサコさんは今にも起き出してきそうな気配があったが、起きはしないことを、チカコさんは知っていた。

 しばらく車は進み、あのときの、海が見える旅館の駐車場の横を通り過ぎたけれど、トオコさんはちらりともそちらを見なかった。トオコさんとヒサコさんとチカコさんの三人が泊まった駐車場はすっかりきれいになり、新しいホテルが建っていた。あそこに泊まる? とか、チカコさんは自分が訊けばいいとは思うのだけど、最後は口が開かない。

「ひとに質問を許さない雰囲気って、どーよ」

 と、ヒサコさんは言った。それはあの日の、海が見える旅館の駐車場での出来事だったけれど、チカコさんにとっては、鮮やかな記憶だから、そこに過去とかいまとかの区別はあまりなかった。レンタカーの席をフラットにして、いつでもどこでも眠れるトオコさんはすやすやしていて、彼女を挟む形で、ヒサコさんとチカコさんはおしゃべりをしていた。

「ここの旅館、お姉ちゃんが子どものころ、父さん母さんと来たことあるんだって」

 ヒサコさんは、つん、と、トオコさんのまあるいおでこをつついた。「あたしたちが生まれる前。トオコの思い出の場所ってやつ。別に、あたしたちのことはどうでもいいわけ」

 自分のことばあっかり、と、ヒサコさんは、つん、つん、と、トオコさんのおでこをつつく。トオコさんは起きる気配がない。「やさしくて、わがままで、うっとうしくて、独裁者で、ちょっと抜けてて、頑固者。そう思わない?」

 けれど、そのときチカコさんが考えていたことは、お姉ちゃん、って呼べていいなあって、そういうことだった。わたしにはお姉ちゃんが二人いる、ひとりは三つ違いで、ひとりは十五分しか違わないけど、それでも二人いるから、お姉ちゃん、では、どちらを呼んでいるのかわからなくなるから、お姉ちゃん、とはわたしは呼べない。いいなあ、ヒサ姉は。そういうことを、チカコさんは考えていたから、返事をしそびれたし、ヒサコさんも、返事をほしいと思っているわけではなさそうだった。

「まあ、でもまた、来ようよ」そう、ヒサコさんは続けた。「そんで、トオコのやつが勝手なことしたらさ、おでこつついてやろうぜ」

 やさしくて、うっとうしくて、やさしくて。

 ねえチカコ、と、トオコさんは言った。海がきらきらしている。「寝てるとき、私の顔、勝手にさわったでしょ」やめてちょうだいね、気持ち悪いから、とトオコさんは眉をきゅっと下げた。チカコさんは、触った記憶はないけれど、「綿毛がついとった」と、嘘をついた。それから、チカコさんはラジオをつけた。アナウンサーが、火曜日です、と告げた。

 

(「街角のフラグメント 姉の冬眠」・了)