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 そろそろ誰かに聞いてもらいたい頃だった。家族にも友達にも話していなかったから。
「私の夫は三上健太郎といいます」
「そうかい」
「この店を利用してたんです。知ってましたか」
「知るわけない。名前なんか訊かないし、領収書でも切らなければ」
 沙也加はスマホを出して、健太郎の写真を見せた。
 ぞうさんはメガネを取って、じっと見た。
「ああ、来ていたかもしれないけど……」
「その程度ですか? 私、もしかしたら、ぞうさんが、私が彼の妻だと気づいているんじゃないかと思ってました」
「気がつかない、気がつかない」
 彼女は手を顔の前で大きく振った。
「そんなに客のことに注意してないよ。忙しいし」
「そうですか……それで、夫はですね……」
 夫が出て行ったこと、この店を利用していたこと、ただ、ご飯と一緒に酒を飲みたいと言われたけど、どうしても信じられないこと、たぶん、この店で女と会っていたか恋をしたのではないかと疑っていること、それは桜庭妃代子じゃないかと思っていること……。
「妃代ちゃんが?」
「はい」
「あんたの旦那の相手だって? あははははは」
 ぞうさんは大笑いした。ここまでの笑顔は初めてだった。
「あんた、途方もないこと言うね」
「だって、他に考えられないんです。それに、ぞうさんだって、私の方、ちらっと見たじゃないですか。あの人が来た時」
 沙也加は、妃代子が来るとこの店の男たちが浮き足立っているという話を高津さんがした時のことを説明した。
「見たかなあ? ぜんぜん、覚えてない」
 ぞうさんは首をひねる。
「だからてっきり、私、ぞうさんは私が健太郎の妻だと気づいて、妃代子さんとの関係も知ってたから見たのかと」
「あたしは霊能者や占い師じゃないんだよ」
「でも、食べ物屋さんの店員とか、そういうの鋭くて、お客さんのすべてを知ってるとか言うじゃないですか」
「とにかく、それはあんたの勘違い。あと、はっきり言って、まああんたの旦那はそこそこいい男だとは思うけど、妃代ちゃんの相手じゃないね。レベルが違う。あんた、旦那がそれほどモテると思ってるの。昔から、女房のくほど亭主モテもせず、っていうじゃないか」
「知りません。初めて聞きました」
「とにかく、そう言うの……それに妃代ちゃんはいい子だよ。そんなことするわけない」
 ぞうさんは妃代子がこの店に来ることになった理由を教えてくれた。
「前に、店がテレビの取材を受けてさ」
「えー、この店が!? まさか」
 沙也加は驚きの声を上げてしまってから、にらまれて謝った。
「すみません」
「……とにかく、取材はされたんだけど、結局、放送はされなくてね……その時、わざわざ謝りに来てくれたのが、レポーターだった妃代ちゃん。自分は悪くないのにね」
「ふーん。いい人ですね」
「とにかく、訊いてみるしかないじゃないか」
「何を」
「そういうことはさ、本人に訊いてみるしかない。直接、旦那本人に訊いて、話し合うしかないだろう?」
「はい……でも、怖くて」
「そうだろうけど、しかたないよ」
 ぞうさんは沙也加の肩をばん、と叩いた。

「久しぶりだね」
 メールで連絡しても、「渡してある離婚届に判を押して返してくれ」という返事しか来なかった。
 しかたなく、「離婚届を書いたから、それを渡すために会いたい。手渡しじゃなければ渡さない」と言ったら、やっと約束をしてくれた。
 土曜日の十時、渋谷の喫茶店で会った。「雑」は昼の時間だけ、お休みさせてもらった。
 彼は仏頂面で、十分遅れてやってきた。
「この後、会社に行かなくちゃならないんだよね」
「そんな……」
 この人、本当に自分の夫なんだろうか、と改めて思う。
 自分の都合で別れようとしている妻に、こんなに冷たい言葉をかけるなんて。
 第一、そう簡単に離婚できると思っているのだろうか。
 気持ちがくじけそうになった時、ぞうさんが言ってくれた言葉を思い出した。
「離婚なんて、自分が納得できるまでしなければいい。お金だって、本当は、収入の少ない方が正式な離婚が決まるまで足りない分を請求できるんだから、どうどうと要求すればいいさ。とにかく、自分の気持ちが収まるまで決めなくていいんだから。行っておいで」
 ぞうさんはやたらと離婚に詳しかった。その言葉に背中を押されて、口を開いた。
「離婚したい本当の理由ってなんだったの?」
「え?」
「実は私、あの店で今、働いてるの。あなたが通ってた」
「え、『雑』で?」
「そう」
 沙也加は店に行くようになった経緯を話した。
「……少し、わかってきたような気がする。お店でご飯を食べながら、お酒を飲んでる人を見て。ぞうさんに料理も習ってるし。今なら、あなたのことを許せる。あの店に行きたければ行ってもいいし、良ければ私も一緒に行きたい。うちでご飯を食べながらお酒を飲んでもいいよ。何より、あそこで働いて、いろんな人がいるんだってことがわかった」
 健太郎はしばらく考えていた。そして、やっと口を開いた。
「許せるか……」
「うん」
「……沙也加にとって好ましい食べ方や飲み方があるように、俺や他のやつにだってあるんだよ。どっちが許すとかじゃない。どうして、自分だけが正しいって思えるんだろうな」
「え」
「……ごめん。もう、遅い。申し訳ないと思うけど、もう、気持ちが離れてしまったんだ。沙也加から」
 泣きそうになった。でも、ぐっと涙をこらえた。
「好きな人、いるの?」
 それはあの、妃代子さん、という言葉は心の中でつぶやいた。
「……そういうことじゃない。本当にそれは違う」
「わかった」
 しばらく、二人でじっと黙っていた。
「でも、私もごめん。まだ、まだ、少し待って欲しい。まだ、気持ちが整理できない。離婚は少し待って欲しい」
「わかった」
 健太郎は席を立って、店を出て行った。
 沙也加はやっぱり泣いてしまった。

 ランチの終わった頃、店に着いた。
 沙也加の顔を一目見て、ぞうさんは言った。
「ご飯、食べるかい」
 本当はまったく食欲がわかなかったけど、そこにいる理由が欲しくて、「はい」と言ってしまった。
 メニューはチキン南蛮にゴマよごしだった。
 ぞうさんが運んでくれたトレーを見て、沙也加は自然に立ち上がった。そのまま、冷蔵ケースまで行って、瓶ビールと霜のついたグラスを持ってきた。
 チキン南蛮を一口食べる。
 相変わらず、甘く、そして、酸っぱい。
 ビールの栓を抜くとグラスに注ぎ、ぐっと飲み干した。
「おいしいもんですね。ご飯とお酒は……」
 悪くないかもしれない。むしろ、ほんの少し、心地よさすら抱いている。
「今なら、おいしいってわかるのに。私、自分が良いと思ってることを夫にもわかって欲しかっただけなんです。でも、押しつけてばかりだったんですね」
 健太郎に言われたことを思い出すと、また泣きたくなってしまう。もっと早く気がつけたらよかった。けれど、こうやってずっと生きてきた以上、簡単に変われるとも思えない。
 ぞうさんが自分のことをじっと見ている。
「あんた、気がつかないのかい」
「え」
 ぞうさんが、前に沙也加が持ってきた瓶を持ち上げてみせた。
「それって……」
「使ってみたよ」
 もう一度、チキン南蛮を食べる。確かに、甘いけど、前よりは甘くない。それに心なしか旨味も加わっているような気がした。
「悪くないね」
 ぞうさんがぶっきらぼうに言った。
「本当ですか!」
「まあ、しばらく、使ってみてもいいよ」
 ぞうさんがあっさりと採用したせいか、それまで意固地になっていた自分がしぼんでいく。身体から力が抜けた沙也加は微笑んだ。
 そして、こみあげてくる涙が落ちないように、猛烈なスピードで、ビールと一緒に定食を食べ出した。

 

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