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 ある土曜日、沙也加が十時に店に行くとめずらしく、ぞうさんが電話をかけていた。
「ああ、そうだよ。今日作るからさ、あんたも来たいかと思って。ああ、忙しかったら別にいいけどね。そう、じゃ待ってるよ」
 満面の笑みというほどでもないけど、ほんのりと笑いながら彼女は電話を切った。
「なんですか」
 そんな表情を見たことがなくて、沙也加は思わず尋ねた。
「なんですかって何が」
 改めて聞き返されると、困ってしまう。
「いや……何か作るって言うから、何かと思って」
 本当は電話の相手を訊きたかったのだが、二番目に訊きたいことを尋ねた。
 ぞうさんは「すべてお見通しだよ」とでも言いたいような顔をして、ふん、と鼻を鳴らし「今日はコロッケを作るよ」と言った。
「へえ、手作りコロッケですか」
「うん」
「雑」の普段のコロッケはできあいの冷凍コロッケだった。ぞうさんが業務スーパーからまとめて買ってきたものだ。それでも、揚げ油に半分ラードを混ぜているから家で食べるのとは違うコクを出していて、それはそれで十分おいしい。注文する人もいっぱいいる。
「手作りはいつも作るわけじゃないんですね」
「手間がかかるからね。まあ、月に一回くらいかな」
 ぞうさんはすでに大鍋に洗ったジャガイモを入れて煮立たせていた。茹でて、粗熱を取っている間に、他のお惣菜や付け合わせを作る。沙也加はキャベツの千切りをずっとさせられた。
 さらに、ぞうさんはひき肉とみじん切りにした玉ねぎを炒めてそれも冷ました。
「今日は肉や魚の定食はないんですか」
「コロッケがある日に、別のものを食べるやつはいないよ。まあ、鯖があるから味噌煮にでもしておくか。変わりもんが食べるかもしれないし、夜も使えるからね」
 おかずがあらかたできあがったところに、ジャガイモの準備ができた。
 二人でまとめてジャガイモの皮を剥き、それをつぶしたところに炒めたひき肉を混ぜる。俵型に形作ったものをバットに並べると、ぞうさんが大きなプラスチック容器を三つ出してきて、小麦粉、卵、パン粉をそれぞれに入れた。
「さあ、あと一息だ。やっちゃおう!」
 ぞうさんは自分を奮い立たせるように言った。
 そこからは、俵型のジャガイモに粉と卵をつけるところまでを沙也加がやり、パン粉をまぶしてきれいに並べるのをぞうさんが担当した。
 ぞうさんはチェックもしていて、粉や卵が少しでもはげたところを見つけると「ほら、こういうところからパンクするんだよ、やりなおし」と沙也加に突き返してくる。
 大変だったけど、十一時少し前、バットの上に俵型コロッケ九十個が並んだところは壮観だった。
「二人でやると早いね」
 ぞうさんは手を洗いながらぽつんと言った。
 それは、これまでほとんどめてもくれないし、感謝もしてくれない彼女の、初めての「ありがとう」に聞こえた。
 ぞうさんは新聞の折り込みチラシの裏に筆ペンで「本日、自家製コロッケ」と書いた。癖はあるけど、意外に達筆だった。赤の筆ペンで、各文字に二重丸を付けるのも忘れなかった。
「これ、外に貼っておいて」
 沙也加が店の引き戸に貼っていると、商店街のカフェでアルバイトしている若い男が通りかかって「あれ、今日、コロッケなの?」と言った。
「はい」
「うわっ、やったあ。俺、後で行くから取っておいて!」
「わかりました」
 その時、ふと気がついた。自分が最初に見た「店員急募」の紙がなくなっていることに。
 ぞうさんはもう沙也加以外は雇わないと決めたのか。
「待ってますよ!」
 彼の後ろ姿に呼びかけた。自分で思っていたより大きな声が出てしまって、ちょっと照れた。
 そこからは怒濤のコロッケラッシュで、ぞうさんの言った通り、かなりの「変わりもん」以外は皆、店に入ってくるなり「コロッケ定食!」とか「自家製コロッケ一つ!」とか叫ぶことが続いた。
 沙也加は皿にキャベツとスパゲッティサラダを盛り付け、ぞうさんは揚げ鍋に張りついてコロッケを揚げ続けた。
 土曜だから、ビールを飲む人も多かった。定食ではなく、コロッケ単品とビールにして、楽しそうに飲んでいた。
 あれなら自分にもいけるかもしれない……と沙也加は配膳をしながら、内心、考えていた。ご飯を食べながら酒を飲むのはまだ少し抵抗があるが、じゅうじゅう音を立てているコロッケを頬張り、ビールをぐっと飲むことを考えたら……悪くないような気がした。
 十四時半に昼のラストオーダーが終わると、ぞうさんは「あんたも食べるかい」と言った。
 客のいなくなったテーブルを拭いていた沙也加は「はいっ!」と返事をした。
 自分でキャベツとスパゲッティサラダ、ご飯と味噌汁を盛っていると、コロッケが揚げ上がった。
「はいよっ」
 ぞうさんが菜箸でコロッケを三つ、のせてくれた。
 いつものようにカウンター席の端に座って食べる。
 おかずや味噌汁を食べるのも忘れて、最初に、コロッケを箸で割り口へ運ぶ。サクッといい音がする。
「おいしい!」
 思わず、声が出た。
「店の人がそんな大きな声で言ったら、これ以上の宣伝はないなあ」
 今日はコロッケ定食でビールを飲んでいた高津さんが笑った。
「だって、本当においしいんですもん。手作りコロッケって、特別な味がしますよね」
「自家製コロッケ、久しぶりだね。ね? ぞうさん」
 高津さんがぞうさんに話しかける。
「やっぱり、沙也加ちゃんが来てくれたからかい」
 洗い物をしていたぞうさんは手を止めて「まあ、そうですよ」と言った。
「じゃあ、我々は沙也加ちゃんに感謝しなきゃならないな」
 彼は沙也加の方を見て、あははは、と笑った。
 コロッケにはいろいろなおいしさがあると沙也加は思う。
「雑」でいつも出している冷凍のコロッケ、あれはあれでおいしい。それから、ちょっとした洋食屋で出すカニクリームコロッケやクロケットと呼ばれる、フレンチに近いコロッケ、あれもおいしい。
 けれど、本当の手作りコロッケにはそれにしかない味がある。衣が薄く、箸で割るとその下には柔らかいジャガイモと少しスパイシーな肉。口に入れると、少し乳臭い香りがして、とろりととける。
「ぞうさん、このお肉、何で香り付けしたんですか。胡椒だけじゃないですよね」
 沙也加もカウンターの中に声をかけた。
「見てなかったのかい。ナツメグだよ」
「ああそれで。少しおしゃれな匂いだと思った」
 そのまま食べても十分おいしいし、ソースをかけるとご飯のおかずにも最高だった。いつも、こういう料理にすればいいのに、と思った。思い切って、コロッケ専門店にしたら、もっと客が来るんじゃないか。あの甘すぎる料理はやめるか、少しにして。そしたら、もっとおしゃれになって、私のような人も来るのに。
 ……やっぱり飲めるかもしれない。いや、飲みたい。
 沙也加は人生でほとんど初めて思った。このコロッケ定食を食べながら、ビールを飲んでみたい、と。
 ランチの時間は三時までだ。あと十分くらい。
「あのお、ぞうさん、いいですか……私もビー」
 そう言いかけた時だった。
「まだ、やってますか?」
 引き戸ががらりと開いて、その女が入ってきた。

 きれいな人だ、というのが沙也加の第一印象だし、たぶん、誰が見てもそうだろうと思った。
 しかし、それ以上に目に付くのは、彼女の細さだ。普通のせている人、というのよりさらに、全体に一回り身体が小さい。睫毛まつげが一本一本、空に向かって伸びるように長く、作り物のようにきれいにカールしている。肌には毛穴一つ見えない。なのに、化粧をしているのかもわからないくらい透明感がある。
「ぞうさん、連絡くれてありがとう。もう、嬉しくて、撮影の間中、ずーっとにこにこしてて、皆にからかわれたくらい」
 彼女は自然に、一番奧のテーブル席に座った。黒いリュックを向かいの席に置く。白のシャツに黒のロングスカート。すべてが普通のものばかりなのに、どこかおしゃれだった。
妃代きよちゃんが好きだと思って、連絡したんだよ。うるさかったかい」
「ううん。本当にありがたい」
「定食でいい?」
「ビールも付けちゃう」
 ぞうさんが冷蔵ケースに取りに行こうとするのを、「いい、私がする」と言って彼女は身軽に立ち上がった。
 もうラストオーダーの時間を過ぎているのに……、沙也加は内心思いながら、立ち上がってカウンターに入った。「あんたはもういいよ」
 ぞうさんが低い声で言った。