「お酒を飲みたければ、飲めばいいじゃない。うちで。どうしてそんな嘘をついてまで外で飲むの? 何より、私に嘘をついていた、ということが許せない」
沙也加は健太郎に言った。しかし、心のどこかで、それだけの理由で夫の帰りが遅くなっていたとは信じていなかった。
夫はもっと別の嘘をついているのではないだろうか。例えば、他の女といった類の。
「たぶん、沙也加にはわからないと思う」
沙也加の気持ちを知ってか知らずか、健太郎は言った。
「どういう意味?」
「沙也加はあんまりストレスにさらされるような仕事はしてこなかったじゃん。それに、いつも清く正しく美しくみたいな人じゃん。俺の気持ちはわからないよ」
夫の言葉が失礼すぎて息ができなくなる。自分の仕事をそんなふうに思っていたとは。
「ごめん、言いすぎた」
沙也加の顔色が変わったのを見て、彼はすぐに謝った。
「俺はただ、ご飯を食べながら、だらだら酒を飲みたいだけなんだよ。つまみとか、おかずとご飯を口に入れてそれを酒で流し込んだり……」
別にかまわないわよ、と言おうとしたのに、その前に健太郎が重ねた。
「ほらね、やっぱりね。お前は下品、そういう育ちだから、みたいな顔をする」
「勝手に決めないでよ……」
でも、本当は心の中でそう思っていた。おかずとご飯を口に入れて、それを酒で流し込む? 考えるだけでぞっとする。
「もう、うんざり。一緒に暮らしている相手にさげすまれながら生きるのは」
そう言って、健太郎は出て行った。彼の方だけ書き込まれた離婚届を置いて。
彼がいなくなった後、試しにストロングゼロを飲んでみた。薬品くさい、ケミカルな味だった。最後には口の中に嫌な苦みが残り、とても飲めたものではない。半分ほど胃に流し込んで、残りはシンクに捨てた。
それなのに空き缶を始末したとたん、急に頭の中がぐるぐる回ってきた。ジュースのような味なのに、なんて強いのだろう。こんなもので健太郎は仕事の疲れを「癒やして」いたのか、と思った時にはソファに倒れ込んで寝落ちしていた。
定食屋「雑」は駅からまっすぐ続く商店街の真ん中あたりにある、一軒家の店だ。しかし、フレンチなどのこじゃれた「一軒家レストラン」というのとはまったく違う。木造の屋根がひしゃげ、斜めになっている。壁は一度火事にでもあったのか、というほど濃い茶色だ。ほとんどつぶれかけている。
店の引き戸の上に、「雑」と一文字書いてあった。
亜弥と話した翌週の水曜日の昼過ぎ、買い物の帰りにその店の前に立った。戸は閉まっているけど、ガラス戸から店の中にびっしり、紙に書かれたメニューが貼ってあるのが見えた。
カウンター席とテーブル席が三つ、小上がりがあってちゃぶ台が二つある。今はテーブルに二人の男性が座っているのが見えるだけだ。
沙也加は外で一人で食事をすることはあまりない。ましてやこんな場末の食堂で……けれど、その時店の奥からカラー割烹着を着た、背の低い老女が出てきたのが見えた。
あれが店主かな。
女性がやっている店なのか、と思ったら、なんとか入れそうな気がした。
がらり、と引き戸を開ける。
「いらっしゃい」
その女店主が、これほどまでにやる気のない声って出せるのか、と思うほど力のない声で言った。
「あの、いいですか」
「どうぞ」
彼女は面倒くさそうに、顎でカウンター席を指した。
入り口の脇に古い券売機があった。ボタンのところに「肉定食」「魚定食」「野菜炒め定食」「カレー」「カツカレー」「日替わり」と手書きで書いてあった。値段は定食が六百円、カレーが四百五十円……どれも安い。
バッグから財布を出した。
「ああ、それ、壊れてる」
また、女店主のどんよりした声が聞こえた。
「え」
「今、壊れてるから、直接注文して」
「あ、はい」
沙也加はカウンターに座った。
「俺、この店の本調子、見たことないなあ」
テーブルに座っていた男の片方が彼女に声をかけた。二人とも薄緑の作業着を着ている。常連なのかもしれない。
「なんだって?」
ふきんをつかんだまま、彼女は返事をした。
「この店の、完璧な姿っていうの、見たことない。いつもどっか壊れてるじゃん。この間はエアコン壊れてたし、その前は冷蔵庫壊れてたし、戸がうまく開かない時もあったよね」
「店もあたしも古いんだよ」
彼女は七十代だろうか、と沙也加は推測する。背は百四十センチ台で、横幅がある。樽のような体形だ。薄く紫色が入った大きなメガネをかけていて、それをヒモで首につっている。時々、近くを見る時にははずすようだった。
さすがに、この女が健太郎と何かあった、ということはないだろうと思う。だとしたら、他に店に女がいるのか。それとも客か……。
「あの、この肉定食っていうのは?」
思い切って、尋ねてみた。
「今日は生姜焼き」
「魚は?」
「赤魚の照り焼き」
「日替わりは?」
「サンマだね」
「……どうしようかな」
独り言を言いながら、店の中を見回した。
券売機に書いてある以外にも、「鶏の照り焼き」「コロッケ」「肉豆腐」「冷や奴」「ゴマよごし」「煮魚」「焼き魚」「肉じゃが」「筑前煮」「オムレツ」「味玉」「スパゲッティサラダ」などの貼り紙がある。
「じゃあ、生姜焼き定食にゴマよごしと肉じゃが、付けてください」
「定食の小鉢は冷や奴かゴマよごしを選べるんだけど」
「あ、じゃあ、そっちをゴマよごしにしてください」
「なら、生姜焼き定食のゴマよごし小鉢付きと肉じゃがね」
「はい」
「お酒とか飲み物は冷蔵庫に入ってるから自分で取って。値段は冷蔵庫に貼ってあるから」
確かに、店の端に細長い冷蔵ケースがあって、瓶ビールを始めとした飲み物がぎっしり入っている。
「ウーロン茶とかありますか」
すると、彼女はどこかいまいましそうに、「あるけど、麦茶ならただで出すよ。冷蔵庫に入っているのはウーロンハイ用だから」と言った。
「じゃあ、それで」
言葉通り、冷たい麦茶のグラスを持ってきてくれた。
その時、気がついたのだが、足を少し引きずっていた。
「ぞうさん、オムレツ追加で!」
テーブルのおじさんが声をかける。
「あいよ」
沙也加はカウンターの中に入った彼女の手元を見るともなしに見ていた。
豚のロース肉の薄切りを出してフライパンで炒めると、コンロの脇に置いてあった大きなペットボトルからじゃばじゃばと黒い液体をかけた。そして、自分の後ろにある冷蔵庫を開けてショウガの塊を出し、おろし金でがしがしとすって、フライパンの中に落とした。おろし金をフライパンの縁に打ち付けて、最後に残ったショウガも落とす。店内にがんがんという音が響いた。甘辛い匂いがいっぱいに広がる。
次に大きな白い皿を出し四角いトレーの上に置いた。冷蔵庫から出した千切りキャベツとスパゲッティサラダ、てらてらに光った肉を並べた。トレーの空いたところに、味噌汁やご飯、小鉢のゴマよごしを配置した。
――この店はポテトサラダじゃなくて、スパゲッティサラダを付け合わせにするのか。
「はい」
そう言って、両手でカウンター越しに差し出してくる。慌てて、両手で受け取った。さらに赤銅色の大鍋から肉じゃがを小どんぶりによそった。
「あ、入れすぎちゃった。まあいいか」
独り言を言ったあと、「はい」とまたカウンター越しに手渡してくれた。
「いただきます」
沙也加の挨拶に返事はせず、フライパンにひき肉をぶちまけた。たぶん、オムレツを作るのだろう。
沙也加は箸を取り、それを両手ではさんで、もう一度「いただきます」と小さくつぶやいた。