夫は本当に、あの店の料理が好きなのだろうか。それとも、あの店にある、別の何かに理由があるのだろうか。
通勤の行き帰りに、休日の買い物の行き帰りに、沙也加は店の前を通りながら思う。店は相変わらず、ひしゃげていて茶色だ。一度店に入ってからは、あの外観の濃い茶色は醤油で煮染めた色じゃないか、とさえ思うようになった。
もちろん理論的にはあり得ないが、毎日毎日、大量の醤油を使って料理するうちに内側からじわじわと染められていったんじゃないかと想像してしまう。
誰にも相談できないまま、別居は沙也加の生活をじりじりと締め上げていた。
まず、お金が足りなくなってきた。
もともと、沙也加は横浜の実家近くの、みなとみらいにある会社に正社員として勤めていた。結婚を機に、夫が住んでいた井の頭線の駅のマンションに引っ越すと通勤が一時間以上となり、朝のラッシュ時にはさらに時間がかかるようになった。自宅は駅から十分以上歩くので、帰りはくたくただった。
彼とも話し合って会社を退職し、派遣会社に登録した。すぐに渋谷のIT企業を紹介された。
親には「せっかく正社員なのにもったいない」と少し反対されたけど、あまり気にならなかった。新しい生活が始まる時だったし、自分の時間も欲しいと思っていた矢先だった。
転職後は週四日の勤務にしてもらった。収入は月十二万程度と減っても、家庭のこともできるし、社会ともつながれるので、とても気に入っていた。
彼が出て行って最初のうちはちゃんと家賃の九万円を振り込んでくれていた。でも、先月から半額しか払ってくれなくなった。
まだ彼の荷物が部屋に残っているので、その「置き代」と思っているのかもしれない。
――とにかく、もう無理。別れたいんだ。
最後に彼から来たメールの文面が思い浮かぶ。
健太郎は今、会社の近くのウィークリーマンションを借りて生活しているらしい。
沙也加を干上がらせて、ここから追い出す作戦かもしれない。
独身時代に実家から通っていたので百万ほどの貯金はあったが、結婚を機に家具や台所用品などを買ったのでもう半分ほどしか残っていなかった。家賃や生活費で切り崩していったら、あっという間になくなってしまうのは目に見えていた。
派遣会社に連絡して、できたら、週四ではなく、常勤で働きたいとお願いしてみた。今の会社では無理だと言われ、また、他の会社もすぐには探せないということだった。
一応、常勤できる会社を探してもらうことにして、電話を切った。
ため息が出た。
もし、ここを出て行かなければならなくなったら、どうしたらいいんだろう。
親や友達にも話さなくてはならないだろうな……生活苦よりも、そんなことの方が気になってしまう。
そんな時、貼り紙を見つけたのだった。
「定食屋『雑』店員急募 時給千円 見習い期間九百円 まかない有」
店の入り口の脇に、筆ペンでシンプルに書いた紙が貼ってあった。字の一つ一つに赤の二重丸がついている。
会社が休みの水曜日、沙也加は買い物帰りにそれを見つけて立ち止まった。
一石二鳥。絵に描いたような、一石二鳥だと思った。
この店で夫が女と出会って浮気していたのなら、それを調べられる。しかも、お金も稼げる。
東京都の最低賃金には少し足りないような気がしたけれど、まあ、それはいいとしよう。
この歳になって新しい仕事、それも肉体労働を始めるのはちょっとつらいかもしれない。でもやってみる価値はある。
思い切って、引き戸を開けた。
あの女店主は店の真ん中にあるテーブル席に座って、肘をついてこちらを見ていた。
「いらっしゃい」
相変わらず、声に張りがない。
「あの」
彼女は何も応えず、こちらを見続ける。
「外の貼り紙を見たんですけど……あれ、もう人は決まりましたか」
「いや」
頬に手を当てたまま、首を振る。
「私……働けませんか」
そこで気がついて、「あ」と声が出た。
「すいません。あれ、今見たばかりなんで、履歴書とか持ってきてないんですけど」
「……それは次でいいけどさ、こういうとこで働いたことあんの?」
彼女は自分の前の席を指さした。そこに座れ、ということかと思って腰を下ろした。
「学生時代にカフェでアルバイトしたことがあります。食べ物を運んだりしてました」
「ふうん」
沙也加の顔をじっと見た。
「料理はできるの?」
「まあ、一通りは」
「じゃあとりあえず、シンクの中の洗い物をしてくれる?」
老女は言った。近くに座って気がついたのだが、話すたびにぜいぜいというような荒い息の音が入る。
「あ、はい」
沙也加がすぐに立ってカウンターに入り、シンクの前の大きくて硬いスポンジを握ると「そこにエプロンがあるよ」という声が聞こえた。確かに、冷蔵庫の取っ手のところにエプロンが押し込まれるようにして下がっていた。少し汚れている。
誰が使ったのかわからないエプロンには抵抗感があったが、服が濡れるよりはましだと思った。おそるおそる首から下げて、洗い物を始めた。
洗い物は山と積まれていたけれど、ほとんどの皿はなめたようにきれいだったからそう大変ではなかった。それに硬めのスポンジが使いやすい。
「洗いました」
それを聞くと彼女はぜいぜい言いながら席を立ち、カウンターの中に入ってきた。やっぱり、足を引きずっていた。沙也加が洗った皿をじっと見る。
「これ、拭いて片付けますか」
「そのままでいいよ。こっちに来な」
彼女はまたテーブルに座って、自分の前の席を指さした。
「どこに住んでるの?」
「近所です。歩いて十分くらいのところです」
「いつから来られるって?」
「あ、言い忘れました。私、月火木金は会社で働いていて、夜七時過ぎくらいにならないと来られないんですね。水曜と土曜と日曜は一日空いているんですが、それでもいいですか」
「それでいいよ」
「それって、どれですか」
「日曜日は休みだから水、土にとりあえず来てくれればいい。慣れてきたら、他の日も会社の帰りに寄って。水と土は十時から十五時と十七時から閉店までにしようか。ああ、良ければ今日の夜から来てくれてもいいけど」
「大丈夫です。あの、私はなんの仕事をするんですか。洗い物とかですか?」
「洗い物、お運び、料理も手伝ってもらう。この食堂の仕事、全部。券売機が壊れて、それが部品がないとかで、なかなか修理できないんだって。あたしも腰をやっちゃってね。それで、いい?」
慌ててうなずく。
「じゃあ、あとで。五時に来て」
沙也加が立ち上がると、彼女も「よっこらしょ」と言いながら立った。
「あの、あなたのこと、店長さんって呼べばいいですか」
「あたしは店長じゃないよ」
「え、そうなんですか」
「皆は、ぞうって呼んでるよ」
「ぞう? 動物の象ですか」
背が小さくて、太っている。確かに子象のように見えなくもない。
だけど、相手は顔をしかめた。
「とにかく、ぞうはぞうだよ」
「じゃあ、これからよろしくお願いします……ぞうさん」
それでいい、というように彼女はうなずいた。
「雑」の仕事には最初から面食らった。
ぞう、と呼ばれる女は沙也加を横に立たせたまま、下ごしらえを始めた。
カウンターの中の厨房は床がちょっとぬるぬるしている。
そこを掃除したい、と思いながら沙也加は持参のエプロンをした。厨房に置いてある、誰が使ったかわからないエプロンはしたくなかった。デニム地のエプロンを見ても、ぞうさんは何も言わなかった。
二人でジャガイモの皮を剥き、肉じゃがを作った。ぞうさんによればそれは店の夜の一番人気らしい。煮込みに時間がかかるから、最初に作るそうだ。
輸入牛のバラ肉の薄切りを大きなアルミの両手鍋で炒めて、切ったジャガイモも炒めてひたひたになるように水を入れる。
そして、彼女は唐突に左手を差し出して言った。
「醤油」
手術中の医師が看護師に「メス」と言って手を伸ばすような感じだ。
沙也加は厨房を見回し、取っ手のついた巨大サイズの醤油のペットボトルを見つけて差し出した。
ぞうさんは黙って手に取ると、キャップを外して鍋の中に注ぎ込もうとして、手を止めた。
「これじゃないよ」
「え、それ、醤油ですよ」
んん、とうなって、彼女は沙也加にそれを突き返した。そして、自分であたりを見回し、調理台の上に置いてある、同じ大きさのボトルをむぎゅっとつかんだ。
「こっち」
「え、でも、それ『すき焼きのたれ』って書いてありますよ」
非難の声を上げた沙也加をぎろっとにらみつけ、中身をじゃばじゃばと鍋にあけた。
「うわあ」
思わず、声が出てしまうくらい、大量に。
肉じゃがが煮あがるとそれは大皿に盛り付けられ、ラップをふわりとかけて、カウンターの台の上に置かれた。