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「え」
「あとは妃代ちゃんだけだから、あたしだけでもできるから」
「でも」
「大丈夫だよ」
 カウンターの外では、高津さんと彼女が話している。
「久しぶりだね」
「はい。最近、ちょっと忙しくて」
「この間、テレビで観たよ。インカ帝国の取材に行ってたよね」
「あ、あれ、観てくださったんですか。嬉しい」
 沙也加は首を伸ばして、そちらの方に目をやった。
「あの人、誰なんですか」
 ぞうさんの耳元で尋ねる。
「……桜庭さくらば妃代子、知らないのかい」
「名前は聞いたことがあるような」
 モデルからテレビタレントというか、レポーターになった人ではないか、と気がついた。
「もう休憩だろ。まかないを食べて片付けてくれたら、本当に大丈夫だよ」
 ぞうさんがまた促した。気を遣ってくれているのかもしれないが、まるで、あの人が来たから追い払われているような気がした。もしくは、有名人が来たから、詮索好きのお節介な店員を追っ払いたいと思っているのかもしれない。
 沙也加はのろのろとカウンターから出て、席に座り、定食の残りを食べた。もう、コロッケは冷め始めていた。
「妃代ちゃん最近、来ないから、この店の男どもはこのところ元気なくてさ。ちょっと客足が減ったくらいだったよ。皆、妃代ちゃんが来ると浮き足立ってたからなあ」
 高津さんもめずらしく、軽口を叩いている。前には「沙也加ちゃんが来てから、店が明るくなったなあ」って言ってくれていたのに。
 そんなことより、彼の言葉にひっかかるところがあって、まかないを食べていた顔を上げてしまった。
「そんなあ」
「ほら、高津さんもいい加減にしな。妃代ちゃん疲れているんだから」
 ぞうさんが割って入る。彼女が客をたしなめるなんてほとんどないことだ。いつもは客のことには我関せずなのに。
 その時、気づいた。
 ぞうさんが高津さんを注意しながら、ほんの一瞬、こちらを見たのを。ちらっとだけど、確実に目が合った。
 彼女の目の中に「心配」の色が見えたのは、気のせいだろうか。

 帰宅する途中でスマホで彼女のことを調べた。
 桜庭妃代子、二十七歳。
 やはり思っていた通り、十代の頃は雑誌モデルをしていて、大学卒業後、テレビの世界に入った人だった。
 帰国子女らしく英語も堪能で、今はタレントと海外ロケのレポーター、グルメレポーターなんかの仕事が多い。でも、肩書きは「タレント、女優」となっていた。実際、何度か、ドラマにちょい役で出ているらしい。
 若い頃撮った、水着グラビアなんかも出てきた。痩せすぎているけど、真っ白で透き通るような身体だ。思わず、見惚れてしまう。
 しかし、不思議だったのはそういった写真では「少しきれいな、でも、ありきたりのタレント」くらいにしか見えなかったことだ。実際に目にした時の、超人的な美しさは画面からは伝わってこなかった。
 芸能人ってすごいんだなあ、と改めて思う。
 いくつかインタビュー記事もあった。
「一人で定食屋さんなんかも行きますよ。おいしい料理でビールをぐっと飲むと、生きてるなあって疲れが取れるんです」
 美人だけど、気さくで親しみやすい人柄が売りのようだ。
 急に、車のクラクションが近くで鳴って顔を上げると、軽自動車が自分とすれすれのところを走って行った。
「うわあっ」
 あまりにも記事に熱中しすぎて、車にひかれそうになっていた。
 スマホをバッグにしまった。
 それでも、読んだ記事が頭の中に浮かんでくる。
 ――もしかして、あの人が健太郎と?
 いや、彼があんな美人の芸能人と、ということはさすがにあるわけがない。
 でも、ふっと思い出した。
 健太郎が家を出て行く数ヶ月前から、彼が急に海外ものの情報番組を観るようになったのを。
 それも録画して、沙也加が寝た後、夜中に一人でこっそり観ていた。
 沙也加は興味がなかったので、別に気にもとめなかったが。
 ――まさか。
 もちろん、彼のような普通の男が彼女と付き合うなんて、考えられないけど、あそこで会って一方的に恋をした、くらいのことはあるのではないだろうか。
 
 沙也加は深夜、自宅のキッチンに立っていた。
 部屋は暗いが、そこだけは明かりをこうこうとつけている。
 健太郎が出て行ってから、こんなに真剣に料理をするのは久しぶりだった。頭の中をぐるぐると巡る嫌な想像を振り払うように、目の前の作業に集中する。
 家の琺瑯ほうろうの鍋に醤油、みりん、酒、砂糖を入れて、煮立たせる。沸いたところに鰹節をがばっと入れて、さらに沸騰したところで火を止めた。 
 丁寧にして、味を見た。
 相変わらず、甘い。
 けれど、「雑」で使っている「すき焼きのたれ」よりはましのはずだ。
 醤油は金笛きんぶえ醤油、みりんは三河みかわみりん、砂糖は三盆さんぼんを使った。酒だって、そのまま飲んでもおいしいものだ。出汁も利かせた。
 醤油とみりんは同量だが、砂糖は思い切って半分にしてみた。それだけでも十分甘いし、出汁の旨味が入っている分、甘みが少なくても、おいしく食べられるはず。さらに上質の材料を使うことで、砂糖がなくても満足できる味になるはず。
 ――まだ甘いけど、ここから少しずつ砂糖を少なくしていけば、最後には醤油とみりんだけくらいまで減らせるかもしれない。
 沙也加は自家製の「すき焼きのたれ」を作って、「雑」のぞうさん並びに、常連さんたちをも「砂糖断ち」させるつもりなのだ。彼らの健康のためにも、その方が絶対良い。
 何度も味見をする。
 最後に、「これでいい」とにんまり笑った。

「なんだ、これ」
 沙也加から渡された瓶を持ったまま、ぞうさんは顔をしかめた。
「あー、昨日、ちょっと作ってみたんです。えー、一人暮らしで調味料とかが余ってるんで、少しでもお役に立てれば、と思って」
 ぞうさんは瓶のふたをひねって開け、中身の匂いを嗅いだ。
「あの、いつも使ってる醤油……まあ、本来はすき焼きのたれですけど、その代わりに使ってもらえればいいと思って」
 ぞうさんはスプーンを使って、一さじすくい、口の中に放り込んだ。
 深くため息をつく。
「いえ、ちょっと思いついたんで、まあ、よかったら使ってみていただけないかと……」
 ぞうさんの表情を見ながら、沙也加はだんだん声が小さくなってきた。
「いくら?」
「へ?」
「いくらなんだよ、これ」
「いえ、だから余ったものを……」
「安くないんだろう? 厳選した材料を使ってることくらい、あたしにだってわかるよ、これでも料理人の端くれだ。いくらなんだよ」
「ですから、家にあったものを使っただけなので、本当にいいんです」
 嘘だった。調味料は渋谷のデパートで買ってきたものだ。三河みりんは一升瓶で買ってきた。上質な日本酒や焼酎と同じくらいの値段がする。
 ぞうさんはちっと舌打ちして、瓶の蓋を閉めた。
「……何があった?」
「え?」
「どうしたの。何かあったか。ここんとこずっとおかしいよね」
「そうですか」
「そうだよ、一週間くらい前から……」
 コロッケを作った日だ。
「やたらとはしゃいだり、逆に急におとなしくなったり」
「自分では気がつきませんでした。すみません」
「うちは街の定食屋なんだよ。ただの定食屋。客はうちに来て、ご飯を食べて、お酒を飲んで帰って行く」
「はい」
「それがさ、店の店員の心の中がバタバタしてるんじゃ、客も落ち着かないだろ? わかる? 別に特別なことを求めているわけじゃない。ただ、ご飯を食べて、帰るだけ。三つ星レストランみたいな接客も、キャバクラみたいなお愛想も必要ない。でも、客の邪魔になっちゃいけないんだ」
「……はい」
「あたしが一度でも、愛想良くしろとか、丁寧にしろとか言ったことある?」
「ないです」
「そんなのいいから、ただ、普通にしていて欲しいと思ってるからだよ」
「……」
「何があったの? 言ってみな」
 そこまで言われて、話せるような気になった。確かに、ぞうさんは接客に関して、沙也加に注文をつけたことはなかった。
「自分でもわかりませんけど……たぶん、桜庭さんが」
「えええ? 妃代ちゃんか?」
「彼女が来てから、ちょっといろいろ考えてしまって」
「あんたが何を考えることあるんだい。あの人は芸能人で、初めて会った人だろ?」
 そこで、沙也加は告白した。