「豚バラ肉と大根あったら、何作る?」
 目の前に座っている田端たばた亜弥あやが言った。
「今、冷蔵庫にそれだけしかないんだよね。沙也加さやか、料理上手じゃん、考えてよ」
「バラ肉は塊? 薄切り?」
 三上みかみ沙也加は首をかしげながら尋ねる。
「薄切り。昨日、アスパラの肉巻きを作ったの。大根は一昨日、焼き魚に大根おろしを添えた時の残り。今朝の味噌汁には使ったんだけどさ、まだ半分くらい余ってて」そう答えながら亜弥は「やっぱり、帰りにスーパーに寄って帰らないとダメかなあ」とつぶやいた。さらに、スマートフォンの料理レシピアプリを開き、「豚バラ 大根」と入れて検索している。人に訊きながら、ちょっと失礼じゃないか、とむっとしてしまった。
「あった、あった」
 亜弥は探し出したレシピを差し出した。
 苦笑いしながらのぞき込む。
 こういうちょっとデリカシーのないところはあるけれど、亜弥は中学時代からの親友だ。親しい間柄だからこその、遠慮のない行動とも言える。
 そこにはいちょう切りにした大根と一口大に切ったバラ肉をこってりと甘辛く煮た煮物の写真が出ていた。てらてらと光る肉はいかにも甘そうだった。たぶん、砂糖、醤油、みりんが大さじ三杯くらいずつ使われているのだろう。
 味が濃そうだ。自然に顔を背けてしまった。
「こういうのもいいけど……」
 沙也加は自分の嫌悪感をさとられないように、スマホを亜弥にそっと戻した。
「最近は、スープ煮にするかな」
「スープ煮?」
「豚肉を一口大に切って、まず、お湯でさっとゆがくの。そのお湯は捨てて……」
「え、捨てちゃうの? そこに一番おいしい出汁だしが出てるんじゃないの?」
「大丈夫。豚バラは旨味がぎっしり入っているから、そのくらいじゃ旨味はなくならない。むしろ脂を落とした方がさっぱりしていいんだよね。湯通ししたバラ肉をもう一度鍋に戻して新しく水を足してじっくり煮るの。二人分で水を三百二十ccくらいかな。大根は急いでいる時はいちょう切り、時間があれば二センチくらいの幅の四つ切りにして、その中で柔らかくなるまでことこと煮るの。最後に塩を小さじ半分加えてできあがり」
「小さじ半分? たったそれだけ?」
 沙也加は思わず、にんまり笑ってしまう。そこを訊いて欲しかったのだ。
「そう。今、そのくらいの塩加減が気に入っているんだ。滋養味あるスープを飲むと、あーおいしい、幸せってなるよ」
 しかし、目の前の亜弥は、あー幸せ、というにはほど遠い、しょっぱい顔をしていた。
「やってみるわ」
 口ではそう言いながら、メモもせず、スマホのケースをぱたんと閉じた。

 亜弥と別れたあと、沙也加はスーパーに寄って帰宅した。
 カートを押しながら、つい、親友が今夜食べると言っていた大根に目をひかれ、カゴに入れてしまった。
 しかし、家に帰っても一人なのだ。一本の大根を使い切ることができるかどうか。
 だいたい、一人の夕食の買い物にカートを借りる必要はなかった。カゴだけで十分なのに、以前からの習慣でつい手に取ってしまった。
 前は……カートを押しながら思う。朝ご飯、お弁当、夜ご飯と、日に三食作っていた。二人家族だったけど、夫の健太郎けんたろうは身長百八十センチ、筋肉質でがっちりした体形だから、結構、量を食べる。大量の買い物が必要だった。
 でも今はそんな量はいらない。
 しかし、一度手に取ってしまった大根を売り場に戻すのも気が引ける。
 沙也加は少し潔癖なところがあって、人がべたべた触ったものは買いたくない。なら逆に自分が触ったものを人が買わなくてはならなくなるのもエチケット違反な気がする。
 結局、気がついたら、豚肉を買っていた。バラ肉はやはり脂っこいので、肩ロースにした。
 家に着いても、すぐに夕飯の支度をする気にはなれなかった。亜弥と一緒にケーキセットを食べたし、一人のための食事を作るのも面倒だ。
 ソファに座っていると、深いため息が出てきた。
 結局、亜弥に話せなかった……。
「話があるんだ」と彼女を呼び出したのは自分の方だったのに。
 亜弥は会社の愚痴、夫の母親の愚痴などをずっと話していて、沙也加が告白する隙も与えなかった。最後に「あれ? 沙也加、なんか話があるんじゃなかったっけ?」と思い出したように言われたけど、とっさに「大丈夫、また別の時、話すから」と答えてしまった。
 亜弥が悪いわけじゃない。自分の中にまだすべてを話す勇気がなかった。
 それに、亜弥が愚痴であってもどこか楽しそうに話しているのを聞いて、心がずいぶん慰められた、ということもある。
 しかし、こうして一人でいると、孤独がしんしんとしみてきた。
 やっぱり、聞いてもらえばよかったと後悔する。
 亜弥は「さてと、たけるくんのご飯を作らなくちゃ、面倒くさいねえ」と言いながら、それでもいそいそと帰って行った。
 彼女は何を作るのだろうか。あんなふうに言っていたけど、結局、砂糖たっぷりの豚肉と大根の煮物にするのかな。
 今日は土曜日だけど、彼女の旦那は家にいるのだろうか。帰ってきた亜弥を迎え、「さあ、ご飯を食べよう」と言って食卓を囲むのか。
 こちらは、土日もひとりぼっち。
 夫、三上健太郎が家を出て行ってから。

 週に二、三回あそこに行って、ご飯を食べ、お酒を飲むのだけが楽しみなんだよ。疲れが取れて、ほっとするんだ。
 何度、思い出しても、屈辱で身体が熱くなる。
「俺の楽しみを奪わないでくれ、頼む」
 最後にはそう言って、目の前で自分を拝んだ健太郎を許せなかった。
 いや、許せないというより、信じられなかったのだ。
 街の下卑げびた定食屋で時々飲むことが、大の男の生きがいだなんて。
 そして、それほど自分の料理が嫌われていたなんて。いつもおいしそうに私の料理を食べていたのに。
 少し前から彼は社内で新製品の特別チームに加わり、多忙で精神的に厳しい状況が続いていることは知っていた。
 彼によれば、最初は帰宅時にコンビニで買った酎ハイを飲んでいたそうだ。アルコール度数九%の、時々、ネットなんかでも問題になる、強い酒だ。
「帰宅途中のコンビニで買って、歩きながら飲み始めて、途中の児童公園で座って残りを飲んで。それをしないと、仕事の疲れが取れなかった。頭が切り替えられないんだ」
 始末に困ったアルミ缶は児童公園の隅にそっと置いて帰っていたそうだ。
 気がつくと、沙也加は顔をしかめていた。
「ゴミを置いていくなんてお行儀悪い。そもそも公園で飲むのだってみっともない。買ってきて、家で飲めばいいじゃない」
「だって、そんな顔するだろう?」
 慌てて、渋面を解いた。
「それに、沙也加はご飯と一緒に酒を飲むの、嫌がるじゃんか」
「だって、ご飯はご飯でちゃんと食べて欲しいの。こっちは頑張って作っているんだから。ご飯の後にナッツとかチーズとかでお酒を軽く飲めばいいじゃない?」
「……そういうことじゃないんだよ」
 健太郎は下を向いて、諦めたようにため息をついた。
 そのうち、児童公園に「空き缶を捨てないでください。ここでお酒を飲まないでください」という貼り紙がされるようになり、彼の唯一の楽しみも奪われた。
 ある時、沙也加がたまたま大学の同級生との飲み会の日、酎ハイを公園で飲むことを禁じられた彼は、家の近所の定食屋「ざつ」に寄った。そこで定食を食べ、酒を飲んで、店の虜になったらしい。
 その後、帰りが遅くなり「ご飯はいらない、打ち合わせしながら会社の人と食べるから」「社内の飲み会があるから」「取引先の接待があるから」と家で夕食を食べないことが続いた。
 健太郎は少しずつ太ってきた。それも、ストレスと付き合いのせいかと思っていた。
 でも「仕事だから」と遅くなっていたのは、ほとんどすべて定食屋「雑」で飲んでいたからだった。