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「冷めていくうちに、味がしみるからいいんだよ。時間の調味料だね」
 彼女は沙也加が訊いてもいないのに教えてくれた。
 それから、里芋の煮っ転がし、ほうれん草のゴマよごし、鶏の照り焼き、ごぼうとにんじんとちくわのきんぴら、スパゲッティサラダ、小アジの南蛮漬け、きゅうりとわかめの酢の物……などを彼女は次々と作っていった。
 それでわかったことだが、この店の料理のほとんどはぞうさんが「醤油」と呼ぶ、「すき焼きのたれ」で味付けされていた。他に、「めんつゆ(三倍希釈用)」「(普通の)醤油」などもあったが、彼女はすべてを「醤油」と呼ぶ。
 ほとんどは、すき焼きのたれで、その割合はたれ、めんつゆ、醤油が七対二対一くらいだろうか。
 南蛮漬けや酢の物でさえも、すき焼きのたれに酢を混ぜて作るのだった。
 スパゲッティサラダは例外で、きゅうりやにんじん、玉ねぎなどを刻んで軽く塩をして水分を絞ったところに、茹でたスパゲッティを入れ、マヨネーズ、醤油とごま油で味を付ける。
 洋風とも和風ともつかないあの味は、醤油とごま油なのか、と心の中で感心した。
 つまり、今後、この店で働くことになれば、沙也加はすべての料理にどの「醤油」が使われているのか覚えて、外科医のごとく「醤油!」と高らかに叫ぶぞうさんの手元に差し出さなければならないようだった。
 そこを間違えると、冷ややかに「違う」と言われてにらみつけられる。
 作り置きできる煮物や付け合わせができあがった頃、客がちらほらと入ってきた。ぞうさんは魚焼き網を出して、さばの一夜干しを次々と焼いた。それも大皿に積み上げていった。今夜の魚メニューのようだった。
 客たちは昼と同じように定食を頼むこともあったし、単品で注文する客もいた。酒は七割くらいの客が注文し、客の九割は男だった。女が来てもほとんどはぞうさんと同じ年頃である。
 沙也加が注文を取ってできあがった品を運び、ぞうさんがカウンターの中で作り置きできないメニューを作った。
 ここまで女の客が少ないと浮気の可能性はないのかな……いや、逆に女性客が来ればすぐわかるな、などと考えながらお運びをしていた。客がいない時は洗い物をした。
 時々、「あれ、新しい人入ったの」などと声をかけてくれる客もいたが、ほとんどは沙也加に興味はないようで、運ばれてきた定食にがっついていた。
 八時を過ぎると、単品を頼んで酒を飲む客の方が増えた。定食屋から居酒屋に変わったような感じだった。
「ご飯、食べる?」
 ぞうさんが声をかけてくれた。
「え、いいんですか」
「まかない、っていうの? 食べたかったら作るよ。今、ちょっといてきたし」
「ありがとうございます!」
 家を出る前におやつ代わりに菓子パンを食べてきただけだった。立ち仕事は予想以上につらく、お腹がペコペコだ。
「ご飯と味噌汁は自分で入れな。嫌いなものはあるかい?」
 ぞうさんが言うので、トレーに白ご飯と味噌汁を用意した。
 彼女は平たい皿を出して、お惣菜を適当に盛りだした。手元を見ていると、その日、余っているものを入れているようだった。
「何?」
 沙也加の視線に気がついて、彼女がこちらを向いた。
「あ、あの……スパゲッティサラダ、ちょっと食べたいです……」
 すると彼女は冷蔵庫を開き、大きなプラスチック容器に入っているそれをスプーンでがばっとすくった。
「ありがとうございます!」
「あんた、意外と図太いね」
「でも、それ、前に来た時、すごくおいしかったから」
 ふん、と鼻を鳴らしたが、そう悪い気はしていないのか、少し笑っていた。
「いただきます!」
 カウンターの端に座って食べた。
 ご飯、豆腐とネギの味噌汁、鯖の一夜干し、煮っ転がし、スパゲッティサラダ、南蛮漬けなどが少しずつ。
 疲れているからか前に来た時ほど、甘すぎるとは思わなかった。それでも、砂糖の塊のような煮っ転がしはそうおいしいとは思えなかった。苦労して最後の一個を飲み込んだ。

 数週間が過ぎると、沙也加も常連客たちと話せるようになった。客たちは沙也加をそのまま「沙也加ちゃん」と呼んだ。
「あの……、ぞうさんてどうして『ぞうさん』なんですか」
 沙也加が訊いたのは、近所に住む七十代のおじいさん、高津たかつさんだ。「雑」には週に数回来る。夜の時も昼の時もある。夜は必ず、熱燗を一合注文して、なめるように丁寧に飲んでいた。ジャンパーにスラックスのような出で立ちだが、いつも清潔で白い髪も短く刈り込んでいる。
 沙也加にも話しかけてくれるが、べたべたとまとわりついたりしない。数いる常連のおじいさんの中でも沙也加の一等お気に入りなのだ。
 少し遅めの昼の時間で、ぞうさんは買い物に行っていた。
 店には沙也加と高津さんしかいなかった。
「あれは恋だよねえ」
「恋、ですか!?」
 ええっと声を上げてしまう。
「しーっ」と高津さんは唇に指を当てた。
「私が話したことは、ぞうさんには絶対内緒だからね」
「はい」
「ここの店はさ、元は『雑色ぞうしき』って名前だったんだよ」
「雑色?」
「そう。めずらしい名前だろ。雑色さんていう人がやってたの。俺の十歳くらい上だったかな。前はさ、日活につかつのカメラマンをやってたっていう人でね、雑色さん、ハンチングなんかかぶってさ、なかなかいい男だったよ。そういう仕事してたから、何事にもいきでね。でも、日活がピンク映画を撮るようになった時、スタッフが抗議のためにたくさんやめたんだけど、その時、雑色さんも退職したらしい」
「ピンク映画……」
「沙也加ちゃんみたいな若い人は知らないよね。ロマンポルノっていう、まあ、いわゆる、あれ、今はAVって言うの? そういうのを日活が撮ってたことがあるんだよ」
「へえええええ」
「で、日活やめたあと、この店を始めたんだって。昔は、付き合いがあった俳優さんなんかも来てたらしいよ」
「すごいですね」
「その時、手伝いに来たのがぞうさん。五十年以上前の話だよね。雑色さんは四十代、ぞうさんもまだ二十代のぴちぴちでね」
「じゃあ、もしかして、雑色さんとぞうさんが?」
「いや、それはないね。雑色さんには奥さんがいたからさ」
「えー、不倫!」
「だから、違う、違う。奥さんは子供の世話とかが大変で、ぞうさんは遠い親戚の娘でね、手伝いのために呼ばれたわけ」
「付き合ってたんじゃないんですか」
「そんな時代じゃないよ。きれいなもんだよ。ただ、この店で働くだけ。でも、息はぴったり合ってたよね。奥さんは五十くらいの時に亡くなってさ、俺ら、絶対、二人は結婚すると思ってたの。でも、しなかったね。最後の方はこの店の上で雑色さんが寝たきりになって、ぞうさんが世話をしながら、店のこともやってさ。亡くなってからは、ぞうさんがこの店を引き継いだの」
「へえ」
「だから、最初のぞうさんは主人だった『雑色さん』。今のぞうさんはさ、雑色さんが死んだ後、自然に二代目ぞうさんって呼ばれるようになってたわけ。でも、それをやめさせないんだから、ぞうさんもまんざらでもないんじゃないの」
「まんざらでもないってどういうことですか」
「ちょっと嬉しいんでしょ。粋じゃないの。奥さんには最後までならず、でも、『ぞうさん』って呼ばれることだけに喜びを見いだすってさ、ロマンティックだよ」
「ぞうって呼ばれることが? そうですかねえ」
 沙也加にはよくわからない。なんたって、子象のぞうと間違えたくらいだから。
「じゃあ、この店、本当は『雑色』なわけですよね」
「うん。色の字の方は古くなって取れちゃったんだよね」
「じゃあ、本来は定食屋、『ざつ』じゃなくて『ぞう』なわけですね」
「まあね。だけど、皆『ざつ』『ざつ』って呼んで、気がついたら『ざつ』になってた。食べログっていうの? あのサイトにも『ざつ』って載っちゃったから、もうぞうさんも諦めたみたい」
「ふうん。まあ、『ぞう』より『ざつ』の方がいいか」
「実際、雑な店だしね」
 あははははは、と二人で声を合わせて笑っているところに、当のぞうさんが帰ってきて、慌てて口を閉じた。