味噌汁から飲んで、箸の先を濡らす。具はあおさのみで他には何も入っていない。でも、あおさの出汁が利いているのか、なかなかうまい。塩気がちょうど良い。
ご飯を一口食べた。少し硬めに炊いてある。噛みしめると甘みがあるいい米だ。
「女だから、飯茶碗にしたよ」
無視されているかと思っていたのに、ちゃんとこちらを見ていたらしい。
「普通はどんぶりなんだけどさ。もっと食べたければお代わりはできるから」
「ありがとうございます」
店主は玉ねぎを刻んでいる。さすがに手際はいい。赤ちゃんかクリームパンみたいなぷっくりした手の中から、細かく刻まれた玉ねぎが次々現れる。
少し色の変わったひき肉を木のへらでぐるりと一回しすると、まな板の上の刻み玉ねぎを放り込んだ。それらをつぶすようにして炒め、玉ねぎが透き通ってくると、また、同じペットボトルから液体をじゃじゃっとかけた。
――いったい、あれはなんだろう。醤油色だから醤油が入ってることは確かだけど。手際がよく無駄な動作がない。きれいな「手」の動きだな。不思議と、人を引きつける「手」だ。
ぼんやり見てばかりで、冷めるといけないと気づいて、生姜焼きを箸でつまんで、ぱくりと食べた。
うっ。
絶句した。
甘い。
黒々とした肉は砂糖の塊のように甘い。お菓子のように甘い。
しかし、吐き出すわけにいかないから、なんとか飲み込んだ。慌てて、ご飯をかき込む。
肉じゃがの方も頬張ってみた。やっぱり甘い。しかし、こちらはジャガイモの中までは味がしみ込んでなかったし、ある程度甘い味だということはわかっていたから、そうショックはない。
カウンターの女は、卵をボウルに三個割り、菜箸で手早く混ぜた。市販の塩胡椒を取って少しかけ、中身を別のフライパンにあける。
卵液がかたまってくると菜箸でくるくると混ぜて、横のフライパンの中にあるひき肉と玉ねぎを炒めたものをお玉ですくって入れた。フライパンを振って形良く整え、皿に出すと千切りキャベツを添え、ウスターソースと一緒に、彼らの席に持って行った。
「これがおいしいんですよ」
注文した男の嬉しそうな声が響く。
横目で見ていると、オムレツにソースをじゃばじゃばとかけ、大口で頬張ってビールをあおった。
「あー、この味この味」
その声を聞きながらくそ甘い生姜焼きをなんとか飲み込んで、味噌汁やご飯とともに食べきった。ちなみに、ゴマよごしも甘かった。
ただ、スパゲッティサラダが絶妙で、今まで食べたことのない味だった。洋風とも和風ともつかない味がする。
――あの黒い液体が何かはわからないが、とにかく、甘いものであることは確かなようだ。
食べ終わると、沙也加はそそくさと金を払って店を出た。
生姜焼き定食と肉じゃがの値段は千円ちょっとだった。
意外に思われるかもしれないが、沙也加は酒が嫌いじゃない。
いや、むしろ、好きな方かもしれないし、酒の知識も少しはある。
沙也加の父は結婚前に仕事でイギリスに留学したこともあり、ウィスキー、特にアイラモルトと呼ばれるシングルモルトが好きだった。母の方はあまり酒を飲まない。
だから、実家ではまずちゃんとご飯を食べた後、父はラフロイグなどのウィスキーをお気に入りのバカラのグラスに入れ、ストレートやロックでゆっくりと楽しんだ。
実際、スモーキーな香りのアイラモルトはあまり食べ物には合わない。
とはいえ、決して、スノッブで気取った家庭というわけではないと、沙也加は思っている。父はいつも、沙也加や母がテレビを観ている横で静かに酒を飲んでいた。にこにこしていて、酔っ払ったりすることなく、良いお酒だった。
二十になると沙也加も父から一通りの知識を教えられて、アイラモルトを飲むようになった。よく「薬臭い」とか「癖がある」と言われがちな酒だが、じっくり香りを楽しみながら飲むには良い酒だ。
だから、沙也加は日本酒やワインなどの醸造酒よりも、ウィスキーや焼酎などの蒸留酒が好きだし、できたら、ある程度、良い酒をじっくりと味わいたいという気持ちが強い。最近は日本酒も好きになってきたけれど、それも、できたら、酒造の名前がはっきりしている特色のある酒を、楽しみながら飲みたい。
しかし、そういう環境に長年いたから、沙也加はご飯をむしゃむしゃ食べながら酒を飲むということが嫌い……というか、どうも受け入れがたかった。酒が口の中で食べ物の風味とまざり合う感覚というのが好きではない。
大学生になり飲み会という場に行って、飲み放題もついて三千円くらいのコース料理を食べた時には衝撃を受けた。わあわあ騒いで、酒も食べ物も大切に扱われていない。揚げ物ばかりの料理、薄くて甘くてまずい酒――帰る時にそれらが食べ散らかされ、飲み散らかされているのを見た時には心が痛んだ――が次から次へと運ばれてきて、醜く酔っ払った姿をさらし、ご飯を食べながら酒を飲んでいる同級生や先輩を、正直、下品だと思った。
IT関連企業に就職してからも状況はあまり変わらず、沙也加はそういう大人数の飲み会には極力出ないようにしていた。
とはいえ、人前でそういう態度を取ったことはないし、顔をしかめたりもしていない。ごく普通に平然とした態度を取れる、という自信がある。ただ、楽しくないのだ。
だから、同じようなことを自分の家の中ではしたくなかった。酒を飲むなら、一度ちゃんとご飯を食べ終わってから、良い酒を少しだけたしなめばいい。だいたい、心を込めて食事を作ってくれる人に失礼ではないか。
食事中に酒で流し込まなければならない料理は味が濃すぎるんじゃないか、とも思う。出汁をしっかり取り、最低限の塩分で味付けをした料理ならば、それだけで十分おいしいはずだ。
そして、自分がきちんとした料理を作っている、という自負もあった。
健太郎とは、亜弥が誘ってくれた飲み会、いわゆる合コンで知り合った。
最初に彼の家に行って、料理を作った時のことだ。
「ビールでも開ける?」
沙也加が作った、あさりのパスタとシーザーサラダを見ながら彼は言った。
「……じゃあ、少しだけもらおうかな」
「またまたー」
なぜか、彼は沙也加が言うことを冗談だと思ったようで、五百ミリリットルの缶ビールを出し、二つのグラスにじゃーっと注いで出してくれた。
沙也加はそれにほとんど口を付けなかったし、健太郎は残りのビールを自分で注いで、全部飲んでしまったけど、お互いに気にはならなかった。
付き合い始めて一ヶ月で、相手のことに夢中だったし、ご飯のあとに起こるであろうことにしか頭がいっていなかったのだ。うわのそらで食事をし、そのあと、彼のベッドで初めての関係を持った。
さらに、後でわかったことだが、その前に二人でイタリアンを食べた時、食事中はあまり飲まなかった沙也加が、食後にはコーヒーと一緒にグラッパを注文したのを見て、健太郎は彼女をかなりの「飲んべえ」だと思い込んでいたらしい。
半年ほどで結婚し、一緒に暮らし始めてやっと、沙也加が食事中に酒を飲むことに違和感を持っていることを知ったようだ。
けれど、沙也加はそのことにそれほど問題があるとは思わなかった。
彼が家を出て行くまでは。
親にも友達にも、「健太郎が家を出て行った。離婚をしたいと言われている」ということはまだ報告できていない。