四
深川櫓下『喜の字屋』での一件は、陽が暮れるころになってようやく町方が到着したにもかかわらず、その日のうちに簡単に片がついた。
来合と室町から事情を聞かれた女郎の白糸が、「己が刺した」とあっさり認めたからだった。
白糸は来合に命じられた岡っ引き伊助からお縄を受け、茅場町の大番屋へと引っ立てられた。
なお大番屋とは、各町に置かれた番屋(自身番)とは別に、一定期間拘留可能な仮牢も備えられた取り調べのための施設だ。
定町廻りや臨時廻りとしての仕事はここまでで、以後白糸の身柄は吟味方に引き渡されて本格的な調べが行われることになる。
翌日。本来ならば今日も市中見回りに出ているはずの来合は、なぜか己の勤める北の御番所(北町奉行所)で御用部屋に顔を出していた。
ここは奉行所の中でもかなり広い部類の部屋で、屏風で仕切った奥の一画が奉行の執務場所になっているのだが、午前の今、その奉行はまだお城に上がったまま戻ってはいなかった。
「よう」
ぬっと現れた来合は、御用部屋でも手前のほうの文机を前に座る男へ気軽に声を掛けた。呼び掛けられた相手は、大柄な来合とは違って背丈も身幅もごく当たり前。いくぶんか痩せ気味といえるほどではあるが、歳は同じくらいに見える。
用部屋手附同心の裄沢広二郎であった。来合とは家も近所で通った剣術道場も一緒という、竹馬の友なのだ──もっとも、二人に面と向かってそんなことを言えば「ただの腐れ縁だ」とでも吐き捨てられるであろうが。
御用部屋は、現代的な言い方をすれば町奉行の執務室で、奉行の秘書官である内与力とその下僚である用部屋手附同心、合わせて十人以上が同じ部屋で仕事をしている。用部屋手附同心の主な仕事は、町奉行の仕事ほぼ全てに関わる内与力の補佐として、各種文書の草案作成や案件の下調べを行うことなどである。
書付に目を通しながら筆を手に取ろうとしていた裄沢は、部屋に踏み込んできた相手を見上げて眉を寄せた。
「なんだ、定町廻りが巡回もせずにこんなところで何油売ってる」
「見回りなら今日は室町さんに代わってもらった」
ぞんざいな応対を受けたのを気にかけるでもなく、来合は裄沢の前でどっかりと胡坐をかいた。
「珍しく手柄を挙げたからって、有頂天になって自慢話でもしにきたか」
面と向かって嫌味に聞こえる言葉を言い放った裄沢に、気分を害した様子もなく来合は平然と言い返した。
「おう。こんなとこに閉じ籠もって、せせこましく紙っペラいじくり回してるような野郎にゃご縁のねえ話だろうけどよ」
そばで仕事をしている裄沢の同僚が苦笑しているが、来合は気にする素振りもない。
定町廻りを含むいわゆる三廻り(治安維持や犯罪捜査に携わる定町廻り、臨時廻り、隠密廻りの総称)は組織上、与力の指揮下になく奉行直属であることから御用部屋への出入りが多く、用部屋手附同心らとの付き合いも深いが、それでも普通ならば顔を蹙められて当たり前のところを聞き流してもらえるのは、この男の人徳と言えようか。
御用部屋を取り仕切る内与力がいればさすがに睨まれたであろうが、少なくとも一人は部屋に残っているはずなのに、なぜかこのときは来合と入れ違うように最後の一人が席をはずしてしまっていたのだった。
来合の言いように裄沢はフンと鼻息一つで応じた。目は手許の書付に落としたまま、己の前に座った相手を見ようともしない。
そんな裄沢の様子に気後れするでもなく、来合は気安く問いを発した。
「なあ、入牢証文はもう出たのかい」
罪を犯した疑いがあるとして大番屋に送られた者の中で、裁きを受けさせるべきと判断された咎人は小伝馬町の牢屋敷へ移送されるのだが、そうするためには定められた手続きがある。与力や同心がいくら口頭で願っても牢屋敷への収監はなされず、必ず奉行所発行の入牢証文が必要となっているのだ。
町奉行所において、この入牢証文を発行するのが用部屋手附同心だった。
来合の問いに、裄沢はようやく相手へ目をやった。
「まだだが。けど、今日中にも吟味方から言ってくるだろ」
大番屋での調べは慎重に行われ、捕らわれた当人ばかりでなく一件の関係者も多数呼ばれて事情を聞かれるため、牢屋敷へ送られるまでは短くとも数日掛かるのが当たり前だ。しかし今回の場合は当人の自白があると聞いていることから、さほどのときは要さないものと判断したのだ。
「そうかい……」
裄沢はあらぬほうへ目をやっている幼馴染みをちらりと見た。来合は、いつになく気の抜けたような顔をしている。
裄沢は再び書付に目を落とし、筆で何か書き込みながら、ぶっきらぼうに告げた。
「言ってみろ」
「あん?」
「自慢話をしたいんだろ。聞いてやるから話してみろって言ってんだよ」
「……それが、人の話を聞く態度か?」
「どうせ碌でもねえ誇張混じりの大法螺吹かすんだろ。そんなモンに手ぇ止めて聞き入ってたら、こっちがお奉行からお叱りを受けるわ」
「へん、悔しいからって負け惜しみ言いやがって──ああ、おいらがどれほどの腕の冴えを見したのか、耳ぃかっぽじってよぉく拝聴しやがれ」
そう言い放った来合は、切った啖呵とは裏腹に、昨日の捕り物話を正確さを心掛けながら淡々と語った。