「旦那様」
 そっと呼び掛けられて目がめた。とはいえ枯れた年寄りの声だから、色っぽいと評せるような状況からはほど遠い。
 北町奉行所の同心ゆきざわこうろうを起こしたのは、この家で下働きとして雇っているすけというろうであった。
「ん、どうした」
 半ばけたまま、裄沢はふすまの向こう側にいるはずの男へ返した。
 裄沢の返答に応じて、襖がそっと開けられる。
ぎんさんが来ておりますが」
 ようやく覚醒してきた裄沢は、から身を起こしつつ答える。
「顔だけ洗ってすぐに行く。ちょいと待ってもらってくれ」
 茂助は小さくていとうして下がっていった。
 の上に褞袍どてらっただけの裄沢は、もう一人の下働きであるしげたらいで持ってきた水でざっと顔を洗い歯をみがくと、しんじよにしている部屋から茶の間に移りえんがわへ出る。
 庭先では、町人の男が一人だけ待っていた。まわかみいの銀太という三十男だ。
 町方同心でもじようまちまわりやりんまわりなら、毎朝廻り髪結いを組屋敷に呼んで髪を整えさせるが、うちやく(内勤者)の裄沢にそのような手立てはない。ただ、おさなみで定町廻りを勤めているらいごうごうろうが、三日に一度ほど銀太に申しつけて裄沢のところまでよこしてくれるのだった。
 銀太は、裄沢の肩をぬぐいおおうとさっそく頭をいじり始めた。裄沢のほうから話し掛けない限り、口を閉じたまま黙々と仕事をするようなもくな男だ。
 朝に定町廻りや臨時廻りの組屋敷を訪れる髪結いは、その商売を生かしおおかたが手先となって町方役人の探索の手伝いをしているものだが、これほど無口でどうやって町の噂話などを拾ってこられるのかと裄沢はつねに疑問に思っている。
 が、己の仕事には関わりのないことなので、ことさらこうという気にもなっていない。
 銀太にちんを与えて帰すと朝飯である。
 武家の食事は家族全員でなどということはなく、せいぜいがあるじいんきよした先代とちやくなんの三人でるぐらいのものだが、家族もおらず全くの独り身である裄沢は、自分の家で他の誰かと一緒に朝飯を食った記憶が、かれこれ十年以上もなかった。
 飯が終われば寝所に戻って着替えなのだが、これも人の手を借りずに自分一人でやる習慣が身についてしまっている。
 冬場の今は綿わたれを着てばかま穿く。
 町奉行所の同心というと袴を穿かない着流し姿が想像されるけれど、これはたかりやだいでのほうようなどのために城を出る将軍の、目に留まる場所で警固に当たる際であっても「着流し御免」が許されていることから、定町廻りや臨時廻りなどが常にしている格好だというだけだ。町方同心全ての決まりのしようぞくというわけではない。
 立ったり座ったりのひんも多ければ、古いかきつけなどを蔵の二階やたなの高いところから探すのにはしと踏み台の昇り降りもある内役にとり、すその始末の悪い着流し姿は仕事に向かないのである。
 袴を穿いた後はわきざしを帯に差して羽織を身にまとい、大刀を手にすればたくは完了だ。
「行ってくる」
 大刀を腰に差しながら組屋敷を出る裄沢を、二人の下働きが見送った。
 りきならばともかく、家と奉行所のき帰りで同心に供はつかない。同心とは、侍の身分としてはあしがる格のけいはいでしかないのである。

 そうして裄沢は、今日も己の勤め先である北のばんしよ──北町奉行所へ向かうのだった。

 

第一話 きゆう殺し



 北町奉行所の定町廻り同心、来合轟次郎が臨時廻りのむろまちげんとともにその女郎屋に駆けつけたとき、すでにの入り口の前にはうまが輪をなして取り囲んでいた。
 ここはふかがわでもおかしよとして名の知られた通称「やぐらした」。中でも、遊女のつぶそろっていることで好き者の間では評判の『』でひとにが出たというのだから、騒ぎになったのは当然のことだ。
 こうきよよしわら以外の女郎屋は全て非公認の「もぐり」で商売をいとなんでいるというのがおかみたてまえであるため、たいていのごとは内々でことを収めてしまうのが常の有りようだった。
 しかし、起こったのが人殺し──しかも座敷で客が殺されたともなれば、いかに吉原と並ぶほどの隆盛を誇る深川でも簡単に揉み消せるわけがない。しぶしぶながらも番屋へ届け出るとともにところのおかきが呼ばれ、町方役人も駆けつけるとなったのだった。
 刻限は間もなくが落ちようというころだ。冬も極まった夕暮れどきだから、まだ明るさは残っていても急速に冷え込んできていた。
 奉行所のもの二人を伴った来合と室町が『喜の字屋』に歩み寄っていくと、人混みを分けて一人の若い男が近づいてきた。
 せいかんな顔つきに鋭い目つき。どうみてもただの素人しろうとではない。
すけんとこのわけしゆうかい」
 頭を下げてきた若い男に、来合が問うた。
「へい。とらきちと申しやす──親分はひと足先に殺しのあった座敷へ行っておりやす」
 伊助はこのかいわいなわりとする岡っ引きで、寅吉はその子分──いわゆるしたきである。
「オラァ、どいた、どいた。お役人がお通りなさる。そんなとこに突っ立って邪魔んなってんじゃねえぜ」
 町方二人の先に立った寅吉は、野次馬連中を怒鳴りちらして道を空けさせた。
 来合たちは無言で続く。
 見世の前にはろうしゆらしき男や奉公人もいて、来合たちへ頭を深々と下げてきた。
「ご苦労様にございます。このたびはえらいお手数をお掛けすることになりまして──」
 不意の出来事にろうばいしながら言葉を並べ立てようとする楼主を、来合がさえぎる。
「話ゃあ、後だ。ともかく、殺しのあった場所に案内してもらおうかい」
 来合の求めに、楼主は即座に反応した。自分が先に立って見世の中へとみちびいていく。
 後に続いた来合は、見世の入り口をくぐる前にちらりと後ろを振り返った。