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「三哲さんは、昨日の夕刻、確か六ツ(午後六時ころ)ぐらいにいらっしゃいやして、いつものように白糸さんを呼ばれやした。そのまんまひと晩過ごしなすって、居続けで今日までいらしたってこって」
「そういうなぁ、この死人さんにゃあ珍しくなかったのかい」
「……いえ、さほどは……」
 歯切れの悪い言い方になった善次を、来合は無言で見やる。その圧に耐えられなくなった善次が、ようやくことの次第を口にした。
「三哲さんは、白糸さんに振られやしたので」
「わざわざ女郎屋に来て、ひとかい」
 善次は口を閉じたまま、ただうなずく。
 人気の女郎には、ひと晩に何人もの客からお呼びが掛かることも少なくないが、その全員を相手にしていたのではさすがに体がたない。見世は商売だから、やってくる客をこばむことなく入れはするものの、女郎にあまり無理をさせて体をこわされたのでは元も子もないため、ある程度の「り好み」は黙認された。
 目当ての女がやってこなくとも払うべき金は払わされるとなれば、割を食うのは悶々もんもんとしたまま朝までけいかこつ客のほうだ。しかしながら、「女郎屋で振られて腹を立てるのは野暮やぼのやること」という体面たいめんがあるため、見世の者に苦情やいやを言うぐらいはしても、大騒ぎにはならないのが通例だった。
 それでも、「女郎や見世に軽くあしらわれた」くつたくと「期待していた欲求が満たされない」うつくつが重なれば、笑って済ませられる人格者はそう多くない。翌朝には、憤然ふんぜんとした様子で帰っていく客の顔が見られるのも当たり前の風景なのだ。
 にもかかわらず──
「で、怒りもしねえでそのまんま居続けたって? 三哲ってえなぁ、そんなに心のひれえお方だったってかい」
 定町廻りとして三哲の人柄を知るであろう来合の疑問を含んだ問いへ、善次は答えにきゆうして口ごもった。
 横合いから室町が口をはさむ。
「こんな高そうな見世でも、女郎が相手しきれねえほどに客をあてがうのかい」
「いや、そいつぁ……」
 善次が否定しようとしてしきれずに語尾をにごす。けんていつくろいたいというよりは、本当は口にしたいことがあるのに言えずにいるように見えた。
 代わって、楼主がごんじようしてくる。
「白糸は、急に具合を悪く致しまして。それで、ご勘弁を願ったのでございます」
「にもかかわらず、三哲は次の日までねばったって?」
「ひと晩ゆっくり休めば、体も戻るだろうからっておっしゃいまして」
 室町と主のやり取りを聞いていた来合には、奥歯に物が挟まったような言い方に聞こえた。
 素知そしらぬふりをして横から口を出す。
「まあ、そいつぁとりあえずいいや──で、白糸に相手をしてもらえなかった三哲は、独り寝で夜を明かしながらも居続けするって言い出した。それから?」
「はい。そこまで言ってくださるお客を、さすがに放っておくままにはできませんから、ちゆうじきを下げた後で白糸に挨拶に行かせました」
「相手をさせに行かせたんじゃなくって?」
「ええ、まだ体が本調子でないようでしたから。先に善次にお伺いを立てさせまして、『顔を出すだけ』ということをごしようだくいただいた上で白糸を向かわせましたので。白糸は、お茶を一服するほどの間だけで戻ってきましたから、ほんの二言、三言話をしただけだろうと思います」
「そいつぁ、後で当人からも訊かせてもらうけどよ──で、白糸が挨拶してる間に、妙なことにゃあ何も気づかなかったってんだな」
「妙なことと申しますと──」
 楼主の確認に、善次が言葉をかぶせた。
「何もございやせんでした」
 来合は楼主との話に割り込んできた善次へ視線を移してひたりと見つめる。
「お前さん、なんでそんなにはっきり言い切れるんだ?」
 善次は真っ直ぐ見返すことは避けながらも、しっかりとした口調で返答してきた。
「町方のお役人がおっしゃるような妙なことが起きちゃいけねえと思いやして、白糸さんが挨拶してる間は隣の部屋に控えておりやしたので」
 一瞬だけ目を細めた来合が、そらとぼけて問う。
「なら、座敷の話は耳に入ったろう──二人は、何ぃ話してた?」
「……へえ。ごく当たり前のやり取りで──白糸さんが客へびを言ったのを客の三哲さんが鷹揚おうように受け止めて、『体を大事にしろ』とか『俺のことは気にするな』とか、そんな言葉を掛けてたようでした」
「ふーん、そうかい」
 気がなさそうに相鎚あいづちを打った来合は、次の瞬間、善次を睨みつけた。
「おいお前、いい加減にしろよ」
 低い声で突然怒気どきを浴びせられた善次は目を白黒させる。
「白糸が三哲んとこへ顔を出してる間、お前がわざわざ隣の部屋で控えてたなぁ、何かあるかもしれねえと危ぶんだからだろうが。そこまで見世が気ぃ配らにゃあならねえような客が、めえを振った女郎をたぁだ穏やかになだめて下がらせたって? ──お前ら町方をめてんのかい」
 善次をおどしつけ終えた来合は、息をつかせる間もなく楼主へ畳みかけた。
「おい、亭主。手前もおいらを木偶でくぼうだと思ってるようだなぁ──これでも定町廻りとして本所、深川は隅から隅まで毎日めえんち足ぃ棒にして歩いてるんでえ。緑町の三哲がどんな野郎かなんて、先刻ご承知のこった。
 それが、振られた女郎の口実に受けて『ひと晩休みゃあ治るだろうからって、大人しくもうひと晩居続けを決めた』なんぞと言われて、『はいそうですか』とあっさり退き下がると思ってんのか。
 あんまり馬鹿にしやがると、見世ぇ閉めさして天井裏からえんしたまで調べ上げてから、全員くくっておしらへ引き出してやるからな。しっかり覚悟してから返答しろよ」
「と、とんでもないことにございます。来合様をあなどっているなどと、そんなことはこれっぽっちも考えてはおりませんので」
 見上げるような大男の来合が本気で怒った姿に圧倒されて、楼主は大慌てで弁解する。
 声ひとつ出せない善次のほうは、己の雇い主の言葉にこくこくと頷くばかりであった。