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 多くの野次馬がきようしんしんな様子でこちらに目を向けている。場所柄からすれば当然なのだが、そのほとんどが男だった。
 長旅を終えて家へ帰る前の最後の息抜きのつもりなのか、旅姿の者もいるようだ。他の者の陰に隠れるほどの小ささがふと気になった。
 ──近くに似たような格好の者はいねえようだし、子供じゃなくってごく背の低い客だろう。
 とにかく今は、大事が目の前にある。くだらない考えは断ち切って、この先に待つしゆへと意識を向けた。

 南北の町奉行所に六人ずついる定町廻りは、俗にはつぴやくちようと称され実際には千を超える数があった江戸の町を分担し、毎日巡回しつつ治安を守ることをつとめとしている。
 そして同じ数だけいる臨時廻りはその多くが定町廻りの経験者で、現任の定町廻りの補佐・助言に回り、手の足らぬところをおぎなう役割をになっていた。
 来合はこの深川を含むいわゆる「川向こう(おおかわ以東)」を受け持ちとしている。室町のほうは六人全ての定町廻りと仕事上の付き合いがあるものの、来合と組むことが多い男で、伊助の子分から急報を受けた今日も自ら名乗りを上げてやってきたのだった。
 来合はすでにこの日の見回りを終えて奉行所に戻っていたため、室町と二人揃って駆けつけることができたのだ。
「こちらにございます」と言ってきた楼主と奉公人を廊下に残し、座敷に踏み入った来合が目にしたのは、半分はだけた掻巻かいまき(着物のていさいに作られたかけとん)を腰から下だけに纏わせ、くの字に折れ曲がった男の姿だった。
 男はもんの表情を浮かべ、焦点の合わぬ目を大きく見開いてくうにらみ上げている。
 冷たくなった男の体の下に敷かれた蒲団に広がる赤黒い血は、すでにほとんどが染み込んだ後のようだった。この量だと、まずは畳まで達しているに違いない。
 屍体の正面にしゃがみ込んでいた四十過ぎの男が、来合たちの部屋に入ってくる気配に立ち上がった。
「ご苦労様にございやす」
 ももひきしりしよりで人相の悪いこの男こそ、寅吉が「親分」と言っていたいのくちばしの伊助だった。
「オゥ、お前さんはずいぶんと早かったようだな」
 鴨居を気にして六尺(約百八十センチ)近い大きな体をわずかにかがめた来合が、手札を渡している伊助へ声を掛けた。
「へい。とりあえずのとこをざっと当たってから、もういっぺん死人ホトケさんを拝んどこうかと思いやして」
 ぐるりと部屋の中を見渡した来合と室町が、屍体の近くへ足を進めた。小者二人の姿が見えないのは、下に残って伊助の子分らとは別に自分らも聞き込みを始めているからである。
 来合たちへ場所を譲るために立ち上がって屍体の向こう側へ移動した伊助は、廊下のほうから座敷をのぞき込んでいる奉公人へ鋭い目を向けた。
「おい、あかりが足りねえ。もっと持ってきねえ」
 声を掛けられた奉公人は、命ぜられた用を果たそうとあわててその場を後にする。
 気づけば、外はだいぶん暗くなってきていた。
「死人さんの身元はわかってんだよな」
 大きな体をきゆうくつそうに屈めながら、手は触れずに目だけで屍体や周辺の状況を観察していた来合が、顔を上げることなく伊助に問うた。
「へえ、さんてつってえほんじよの金貸しだそうで。見世のもんによると、昨日の夜からの居続けだったってことで」
 この『喜の字屋』のお得意だったらしく、死人の身元については探るまでもなくすぐに判明していた。
「三哲……ふたみどりちようの三哲か」
 苦痛に顔をゆがめているため人相を見定めがたい死人の顔を改めて見直しながら、来合は確かめの言葉を放った。
「へえ、そのとおりで」
 返事をしたのは、言いつけられた灯りを手にちょうど戻ってきた見世の奉公人だった。仲間連れで戻ってきた男は、伊助の指示に従い部屋の四隅にしよくだいを並べた。
「お前さんの知り合いかね」
 来合の調べを後ろで黙って見ていた室町が、座敷に入ってから初めて口を利いた。
 来合は、室町へ場所を明け渡そうと立ち上がりながら返事をする。
「さすがに受け持ちの中ですんで──つっても、あいさつの言葉を交わしたことがあるぐらいですけどね」
「出入りはしてなかったのかい」
 重ねた室町の問いには、意外だという軽い驚きが含まれていた。
 商家などでは、万が一に備えて日ごろから町方によしみを通じておくところが少なからずあった。『喜の字屋』ほどの見世に馴染みとしてかよえるぐらいにふところが暖かい男なら、居住する町を受け持つ定町廻りとこんにしていて当然だという意識があったのだ。ましてや、客といさかいの起きやすい金貸しともなれば、なおさらであろう。
 いったん死人から離れて部屋の中を見渡しながら、来合は応ずる。
みなみ町奉行所はどうか知りませんが、こっちとは特にありませんな。まあ、商売が商売ですから、腕におぼえのありそうな野郎の何人かぐらいは雇ってるでしょうし」
 やけにあっさりとした言葉を返してきた来合を、室町はちらりと見ただけで無言のまま視線を目の前の死人に戻した。
 言いようから来合が死人さんにあまりよい感情をもっていなかったことはうかがい知れるが、それを確かめるのはじんがいなくなってからでいい。これから事情を訊かねばならない奉公人の耳に余計な話を入れて、証言におくそくが混じるようなことがあってはならないからだ。
 経験が浅いなりにものをわきまえている来合も、余計なことは口にしない。命ぜられた燭台を置き終わっても楼主とともに一人だけ座敷の外の廊下に残って、所在なげにたたずんでいた奉公人へ顔を向けた。
「お前さん、名前は」
「へえ、ぜんと申しやす」
 歳は来合とそう変わらず三十過ぎくらいか。細身だが弱々しい感じはせず、はらわっていそうに見える。見世で客が揉めごとを起こしたようなときに出てくるおとこの一人であろう。
「この見世にゃあ、長いのかい」
「もう十年以上はお世話になっておりやす」
「なら、いろいろと知ってそうだな──で、この三哲って死人さんは、ここの馴染み客かい」
「……このごろは、三、四日に一度ほどでしょうか。よくお通いくださるようになってました」
 周囲を見回していた来合は、善次と名乗った奉公人に視線を合わせた。返答にわずかな間が空いたことと、その微妙な言い回しにほんの少し引っ掛かりを覚えたのだ。
「このごろってこたぁ、前はそうじゃなかったって?」
「へえ、よくいらっしゃるようになったなぁ、この冬の初めぐらいからでしょうか。その前は、月に一度ほどは顔を見せてましたけど、そんなもんで」
 今は、冬も終わりの師走しわす(陰暦十二月)に入ったばかり。
 もう二、三日早ければ自分らはらなくてもよかったものを、と思わぬでもない(南北の町奉行所は、「つきばん」と称して新規の事件や訴訟などを一カ月交替で交互に受け持った)。
「ここで馴染みの女郎でもできたのかい」
「うちのしらいとにごしゆうしんで」
「昨日から居続けしたってそのあいかたも?」
「へえ、白糸さんでした」
「後で、その白糸も呼んでもらわにゃならねえな」
 死人が生前にどうきんしていた相手へ事情を訊くのは当然のことだ。善次は嫌々ながらも同意を口にするよりなかった。
 来合は、善次とその後ろで存在を隠すようにしていた楼主、二人を見比べて改めて口を開く。
「じゃあ、ともかく最初っから起こったことを話してもらおうかい」
 楼主からの無言のうながしを受けて、話し始めたのは善次のほうだった。