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 ゾッと鳥肌が立った。お歯黒ドブだの女郎の足抜けだの、蔦重が言っていることは、まるで……。
 バッと立ち上がり、ふすまを一気に開けた。
「おい!」
 蔦重は私の肩をグイっと引き戻すと、ピシャリと襖を閉めた。
「馬鹿野郎! 行燈部屋から裸の男がツラ出してみろ! 女郎が引きこんだおとこと間違われて、袋にされっぞ」
 蔦重の怒鳴り声は、私の耳を素通りした。
 今、私が見た光景─。
 目前に広がっていたのは、着飾った花魁おいらんや娘たち、髷を結った男たちや、三味線を持った女たち、大皿料理や酒を運ぶ、下働きの男女……と、そう、私がまだ中学生の頃、親に隠れて夢中で観ていた『必殺シリーズ』に出てきた吉原遊廓が、まさしくこんな感じだった。
(3D映像のドッキリ……なんかじゃないよな。私に仕掛けても、何の面白味もないし……。まさか今の、本物……? いや……ないない。でも……)
「ああーーーッ!」

『あーあ、やり直してぇなぁ!』

 思い出した! お稲荷さんだ! お稲荷さんの前でそう叫んで……そしたらバッと地面がなくなって……。いったいなんで……どうして私が……いや、待てよ……。オーマイガッ! よりにもよって、稲荷神社にオシッコを……! ……だから、天罰が下ったというのか? ……タイムスリップしてしまったと……?
 慌てて部屋を見回し、天井近くにまつられた神棚を見つけて手を合わせた。
「神様仏様お稲荷様! 私が悪うございました! もう誓って二度と金輪際こんりんざい、あなたさまにオシッコをひっかけたりなどいたしません! ですからどうか、夢なら覚めて! 元の世界に帰らせてください!」
 目を閉じて一心不乱に祈り続け、ガッと目を開けると、目の前いっぱいに蔦重の顔があった。
「うわっ」
 あとずさったとたん、尻餅をついた。
「おめえやっぱり変だぞ。今からでも番所に突き出すか……」
「ち……ちょっと待ってくれ蔦重さん。今、何年だ?」
「は? ……天明てんめい五年の巳年みどしだが?」
「天明……」
(……ってことは、やっぱり江戸時代か。えーっと、何年だったかな?)
 くそっ、こんなことになるなら、もう少し真面目に日本史を勉強しておけばよかった(こんな状況を予想できた人間はまずいないと思うが)。
(せめて何か手掛かりが……。そうだ!)
「将軍は? 今は何代目の誰の治世だ?」
「この馬鹿!」
 いきなり頭をポカリと殴られた。
「何をする!?」
公方様くぼうさまと言え! お上に捕まって、江戸を追放されてぇのか、この生臭坊主!」
(……ああそうか“将軍”なんて気やすく呼べば、不敬罪になるんだな)
「すまない。あんたの言う通りだ、気をつけるよ。……で、何代目の公方様だ?」
「頭でも打ったのか? 十代目の家治いえはる様になって、もう二十五年だぜ」
(そう、確か八代目が『暴れん坊将軍』の徳川吉宗よしむねだから、その二代後ってことは……)
「家治様のお祖父じい様は吉宗様か?」
「なに当たり前のこと言ってんだ? 家治様のお父上が先代の家重いえしげ様で、そのお父上が先々代の吉宗様だよ」
(よし、ここまではいいぞ。徳川将軍家は確か十五代までだから、だいたい江戸時代全体の三分の二ってとこだな。もう少し絞りこみたいところだが……)
「─あ」
(そう言えばさっき蔦重が、チラッと何か言ってたな。最近目にしたばっかりの単語で……確か漢字が三つ並んだ……。う~ん……あれは確か……)
「わかった! 『忠臣蔵』だっ」
 蔦重の肩を両手で握り、揺さぶった。
「蔦重さん! あんたさっき、親戚が忠臣蔵のナントカだって言ってたよな? な?」
「あ……ああ。俺の甥っ子は……甥っ子っつっても、年の離れた兄貴の息子で、俺より年上なんだけどよ。その甥っ子が、『仮名手本かなでほん忠臣蔵ちゆうしんぐら』の定九郎さだくろう役を、端役はやくの悪党役から二枚目の立役たてやくに仕立て替えた、名人“中村仲蔵”だよ」
(でかした、俺!)
 心の内でガッツポーズを決めた。
「その『忠臣蔵』の元になった、吉良きら上野介こうずけのすけ浅野あさの内匠頭たくみのかみに切りつけられた事件は、何年前のことだ!?」
「シーーーッ!」
 今度は思いっきり口をふさがれた。痩せているくせに、思いのほか力が強い。
「おめえって奴は全く……考えなしな野郎だぜ……。いいか、お上の御政道ごせいどうに関わることは、気安く触れちゃなんねえって決まりがあるだろうが。ありゃあおめえ、曽我そが兄弟の仇討あだうちの話ってことになってんだから……」
「わかった。もう大声は出さないから教えてくれ。松の廊下の刃傷にんじよう沙汰ざたが実際に起こったのは、何年前のことだ?」
『忠臣蔵』─。
 これこそ、私が部下に託した、クライアントとの不倫の元になったチケットに書かれていた歌舞伎の演目だ。別のクライアントから買わされ、誰にプレゼントしようかと考えながら読んだチラシに、
元禄げんろく十四年(一七〇一年)三月十四日─。二筋の刃が、播州ばんしゆう赤穂あこう五万石の運命を狂わせた』
 という、ヘタクソなコピーが書かれており、
(へぇ。元禄十四年って、一七〇一年だったのか)
 と、何気なく脳にインプットしていたのだ。
 果たして蔦重は、
「ああ。確か、八十年ちょっと前の話だって聞いてるぜ」
 と答えた。……ということは、だ。今、私のいる世界は一七八〇年代半ば。江戸開幕から約百八十年が経ち、“一夜空いちやむな(一八六七)しい大政奉還たいせいほうかん”つまり明治時代の始まりまであと約八十年という時代に落とされたことになる。
 これが一夜の夢なのか、逃れられない現実なのか、いずれ戻れるのか、一生このままなのかはわからないが、自分が歴史上のどの地点にいるかがわかっただけでも気休めにはなる。皮肉にも私は、二枚のチケットによって窮地に落とされ、同じチケットによって、わずかながらも救われたというわけだ。
「で? 『忠臣蔵』がいってえ何だってんだ?」
 蔦重が眉根を寄せた。
「言っても到底信じてもらえない、荒唐無稽こうとうむけいな話だ」
「いいから教えろよ、なぁ」
「言ったら力を貸してくれるのか?」
 はぁ~っと、蔦重は大きなため息をついた。
「……おめえなぁ、わかってねえようだからこの際きちんと言っとくぜ。そもそもおめえが、俺に注文なんざつけられる立場か、ってえの。……いいか、俺はおめえの命の恩人だぜ。しかもまだ、おめえのたまは俺の手の内にある。このまま見世みせ男衆おとこしや番所につき出されても仕方のねえところを、こうして着物が乾くまでかくまってやってるのはなぜだと思う?」
 言われてみれば確かにその通りだ。蔦重がおそらく、お歯黒ドブとやらに飛び込んでくれたから私は生きていられるのだろうし、この男に見捨てられたら、私はいったいどうなることやら……。
 私の脳裏に、『必殺シリーズ』に出てきた数々の拷問シーンが甦ってきた。
【シーン一】
 足抜けに失敗して腰巻一丁で逆さに吊るされ、水責めの折檻せつかんに遭う遊女。苦悶の表情─。
【シーン二】
 幕府のきつい取り調べで、ギザギザに尖った台の上に正座させられ、膝に石の板を積まれる無宿人むしゆくにんすねから血を流し、うめき声をあげている。
【シーン三】
 はりつけにされ、ささくれだった竹刀で叩き据えられる、殺しに失敗した仕事人。身体中あざだらけで、ピクリとも動かない。
【シーン四】
 四頭の牛に四肢をつながれ、股裂きの刑に遭う女囚。断末魔の悲鳴─。
 あああ~~~ダメだ。……怖すぎてとてもこれ以上は思い出せない。どれも私には耐えられそうもないし、口を割っても、信じてもらえるはずもない。ここはもう、この男の慈悲にすがるしかない。
 肩を落とし、精一杯しおらしい表情を作って蔦重を見上げた。江戸時代の成人男性の平均身長は一六〇センチなかったと聞いたことがあるが、一六三センチの私より、頭一つ分背が高い蔦重は、この時代では大男なのかもしれない。
「助けていただいて、本当にありがとうございました。自分の立場もわきまえず、生意気を言って誠に申し訳ございませんでした。蔦重さんが私を匿ってくれるのは、あなたが親切な、いい人だか……イテ!」
 言い終える前に、頬を思いっきりつねられた。
「イテテテテッ。痛いってもう! 離してくださいよ!」
「よう。嘘ついたら針千本って教わらなかったか? ……ハッ、なめられたもんだな。この蔦重が、何の理由もなしに、生臭坊主を助けるお人好しとでも映ったか?」
「なんですか、生臭坊主、生臭坊主って! 勝手に決めつけないでくださいよ。いくら命の恩人でも、こっちこそあなたに生臭坊主だなんて呼ばれる覚えはありませんよ」
 痛む頬に涙目になりながら、私は精一杯反論した。
「けど、坊主じゃねえか」
「へ?」
「違うってのか、これで?」
 蔦重は畳の上に落ちていた手鏡をヒョイと拾い上げると、私に向けた。
「なんじゃこりゃあ!?」
 二重の衝撃だった。鏡に映った私は、二十代の頃に若返っていた。肌がツヤツヤだったのも、腹が凹んでいたのも、単にスリムになったわけではなかったのだ。
 そしてもう一つの衝撃─。
 私は……ツルッパゲだった。

『あーあ、やり直してぇなぁ!』

 お稲荷さんに放尿しながら叫んだ言葉がリフレインした。つまりこのザマは“頭を丸めておまえの人生をやり直せ”という神様からのメッセージということか……。