《序》
「うぐっ……がっ、がぼっ……げほっ……ごっ……」
 強烈に、苦くて生臭い水が口の中に入ってきた。
 く……苦し…助け……お……溺れ…る……。
 なぜだ? なぜ、私は水の中に……?

 ……そう、確か昨日の夕方、社長から、
「早期依願退職を申請してくれないか? 今なら退職金は倍額出す。そうでなければ、課長職のまま子会社に出向だ」
 と言い渡され、その上、部下たちにまであんな─。
 失意のどん底のまま、生まれて初めて吉原よしわらに足を向けた。長年の食い道楽が高じて糖尿病になり、食事制限をいられてきたが、こんな時ぐらい、せめて腹いっぱい肉を食って自分を慰めようと思った。それでも、高カロリーの牛肉や豚肉は避け、以前から目をつけていた馬肉を食べようと、一人で吉原大門おおもん前にある、『桜なべ 中江なかえ』という店に入った。
 愛想も恰幅かつぷくもいいご主人から、桜なべは江戸時代末期、吉原遊廓に行き帰りする人々が“馬力ばりき”をつけるために食べていた鍋で、関東大震災で崩壊する前は、二十軒以上の桜なべ屋が並んでいたことや、深夜や早朝も客足がとだえず、ほぼ二十四時間営業だったことなどのうんちくを聞きながら、旨い旨いと箸を進め、焼酎をしこたま飲んで外に出た。火照った顔に冬の夜風が心地よかった。昔はこの店の表と裏に川が流れており、この場所が『日本堤』と呼ばれたのは、元は『二本堤』から来ているのだそうだ。
 見上げると目の前に、二〇一二年に開業した東京スカイツリーがあった。紫色の光を放ちながら、そびえ立つスカイツリーを見るうち……、なんだか自分も久しぶりにそびえ立ちたくなった。
 信号を渡ったすぐ先に、江戸時代は吉原遊廓だったソープ街がある。正直言って、戸惑いはある。……が、旅の恥はかき捨てとばかりに(都内に住んでいて旅もないもんだが)、ネオンきらめく歓楽街に乗りこんでいった。
 どうせ女房は日本にいない。何をしたって構うものか。帰ってこないほうが悪いんだ。フランス人と国際結婚して、今はパリに住む娘の出産に立ち会うために旅立ったまま、すでに二か月。近所づきあいのない都会のマンション生活より、娘も孫もいるパリの新生活が楽しくて仕方がないのだそうだ。
「あなたも会社を辞めて、来ればいいのに」
 電話口でこともなげに言った女房に、
「馬鹿! そんなわけに行くか!」
 と一喝した時は、まさか数週間後に、会社から事実上のクビを言い渡されることになるとは夢にも思わなかった。
 私は、会社に必要とされている人間だと思い込んでいた。なぜなら、会社を一番儲けさせたのがこの私だからだ。小さいながらもそれなりの広告代理店の営業職に就き、長年、トップクライアントを担当してきた。先方担当者の重役とはウマがあい、よく接待で飲みに行き、ゴルフもした。

 一か月前のことだ。その重役が急死した。それも、私と約束したゴルフ場に向かう途中、居眠り運転のダンプにぶつけられて即死だった。間が悪いことに、彼は重役会議がある日に、病気と偽って休みを取って事故に遭った。
 私も、うちの社長に呼ばれて事情を聞かれはしたが、私の場合、接待ゴルフは仕事の範疇はんちゆうであるし、クライアントの事情はともかく、亡くなったのは不運な事故で、断じて私のせいではない。
 クライアントの新しい担当者は生真面目な男だった。酒も飲まねばゴルフもやらず、夫婦して歌舞伎鑑賞が趣味とかで、全く私とは反りが合わなかった。それまで単独で行動していた私は、彼と趣味が合いそうな部下を連れて、打ち合わせに行くようになった。
 ある日、別の広告主から歌舞伎のチケットを二枚買わされたので、彼にプレゼントするよう、部下を使いに出した。私はあくまで、クライアントに夫婦で歌舞伎に行ってもらえば良いと思ったまでだ。まさか彼と私の部下が二人でそのチケットを使い、ついでに不倫関係に陥るなどとは想定外の出来事だった。
 確かに私の部下は女性だったが、年齢は四十五歳を超えており、化粧っ気もなく、どう見ても……男から見て魅力的な女性には見えなかった。
 だが、それらの事故が重なったからといって、私がこれまで社にもたらしてきた利益を考えれば、年内には部長に昇格し、その後は取締役になったって不思議はない。それをあの恩知らずの馬鹿社長が……。

 退職を促された後、社長室を出た私は、動揺を隠しきれないまま部署に戻った。ふと、新入社員に資料作りを頼んでいたことを思い出し、彼の後ろに立ったまさにその時、ポーン、とメール受信の音がした。新人君は私に気付かず、即座にメールを開いた。パソコンの画面を、私は彼と同時に読むことになった。
『ゲザちゃん、クビだって! そりゃそうだよな。会社サボってゴルフ行って、自分の部下をクライアントにあてがっちゃったんだもんな。今度ばかりは土下座じゃ済まないって(苦笑)』
 目の前が真っ白になり、頭の奥がガンガン響いた。書かれている文字は確かに日本語なのに、まるで記号を見ているかのように、脳の表層を滑り落ちてゆくだけだった。
「ゲザ男とは……私のことかね? どういう意味だ?」
 ようやく、私は重い口を開いた。新人君はギョッと振り返り、
「申し訳ございませんでした!」
 私を見るなり椅子をはねのけてその場に土下座をした。
「土下座の“ゲザ”か……」
 ショックを隠しきれずつぶやいた。
 私は『武村竹男』というたいして立派でもない名前はあるが、断じて『ゲザ男』などという不名誉な名前ではない!
 我が社がまだ、ちっぽけな代理店だった頃。新人の私は雨の日も風の日も嵐の日も雪の日も、見込み客のもとに日参し、時には土下座をして仕事を取った。土下座とは、私にとって勲章のようなものだった。
 部下を連れて飲みに行った時、私はよく彼らにこう言った。
「近頃の若いもんは、なんでもかんでも『すみません』で済むと思っていやがる。俺たちの頃はな、土下座をして仕事を取ったもんだぞ。わかるか? 土下座だぞ。たまに意地の悪い奴がいてな。土下座をする俺の頭を足で踏みつけやがった。それでも俺は負けなかった。この悔しさをバネにして、お前らを見返してやるんだと踏ん張って今があるんだ。君らには、そんな屈辱的な真似、死んだってできないだろうな」
 ところが、目の前の新人君は、なんの躊躇もなく土下座をしている。しかも気付けば、この一斉メールを送った別の部下も、それを受け取った奴ら……つまりは、在席中の課員全員がデスクに両手をつき、頭を下げて土下座の真似をしていた。
 またもや私は思い違いをしていた。彼らにとって土下座は、“死んだってできないもの”ではない。未来に希望を持てず、会社に忠誠を尽くせず、仕事とプライベートは別物の彼らにとっては、“土下座で済むなら安いもの”なのだ。
 気が付けば、ここかしこから忍び笑いが漏れていた。
「もういい……」
 辛うじてそれだけ言うと、馬肉を食らうため『中江』に向かったのだ。

 スカイツリーにその気にさせられ、信号を渡った。通りを入ってしばらくいくと、巨大なソープランドがあり、その一角に、稲荷いなり神社があった。
 私が生まれた長野ながの諏訪すわ市では、子供の頃は板塀の家が多く、みな尿意をもよおせば、そこいらで立ちションをしていた。使用頻度の高い塀には、赤いペンキで鳥居のマークが描かれていた。描いた方にしてみれば、鳥居を描くことで「神様に小便をかけるとは何ごとぞ!」という戒めのつもりだったのだろうが、子供にとってみれば「立ちションをするならここですよ」というマーキングの意味しかなさず、誰が一番正確に鳥居に当てられるかと、命中率を競ったものだった。
 しこたまヤケ酒を飲んで酔っていた私は、子供の頃を思い出し、こともあろうに稲荷神社の鳥居の根元に放尿をした。糖が出て、やけに泡立つオシッコを眺めながら、自分の人生がどこで狂ってしまったのだろうかと考えた。
「あーあ、やり直してぇなぁ!」
 叫んだ瞬間、足元の地面がかき消えた。

「おい! おい若造! でぇじょぶか!?」
 ペシペシと頬を叩かれ、私はうっすらと目を開けた。……と、くっきりとした顔立ちの男が私を覗き込んでいた。
(助かったのか……)
 とても長い夢を見ていたような気がする。きっとこれが、“死ぬ前に走馬灯のように思い出が駆け巡る”というやつなのだろう。私の場合、今日半日を駆け巡ったに過ぎないが。
「おっ、気付いたみてぇだぜ。なんでぇおい、お歯黒ドブで溺れるなんざ、心中崩しんじゆうくずれじゃねえだろな。だとすりゃさらしモンだぜ」
 三十代半ばだろうか。歯切れよくポンポン話す男は、ずぶ濡れの着物を着て、額を深く剃り上げている。
(なんだこいつは? 相撲取りにしては痩せすぎだし……時代劇の役者か? それに、年下のくせに、私のことを若造呼ばわりするとは、いったいどういう了見だ?)
 文句を言おうと口を開きかけたとたん、さっき飲み込んだ、苦くて臭い水が胃液と共に上がってきた。
「うげっ……」
 吐くだけ吐いてしまうと、私は再び意識を失った。